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不都合な真実 歴史編 《 「傾斜生産方式」――高橋洋一 》

2024-05-05 | 04-歴史・文化・社会
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「傾斜生産方式」のねらいは、先ほど説明したように、資材と資金を石炭・鉄鋼などの重要産業部門に集中的に投入して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に上昇させようというものでした。しかし実は、現在、まともなエコノミストの中で、傾斜生産方式で戦後の経済が良くなったと考えている人は、まず、いません。傾斜生産方式が一定の役割を果たしたことは確かですが、それは「アメリカからうまく援助を引き出すことができた」という点だと評価されているのです。


◆「傾斜生産方式」はまるで効果がなかった――高橋洋一

『戦後経済史は嘘ばかり』https://tinyurl.com/j9n824s
( 高橋洋一、PHP研究所 (2016/1/16)、p30 )

この戦後経済の常識は、どれほど正しいのでしょうか。

まず、正しておくべき最も大きな誤解は、「政府が戦後の産業発展を主導してきた」という見方です。その代表例が、終戦直後の「傾斜生産方式」です。

先ほど、「傾斜生産方式」を主導したのは経済安定本部(安本)だと書きました。第一次吉田政権(1946年5月~1947年5月)時に設立された「安本」は、「泣く子も黙る安本」といわれたスーパー経済官庁でした。のちに経済企画庁(経企庁)になっていきますが、このころの安本は、物価、賃金、物流、貿易などあらゆる経済活動を統制していました。そして、1947年から傾斜生産方式を採用しています。

「傾斜生産方式」のねらいは、先ほど説明したように、資材と資金を石炭・鉄鋼などの重要産業部門に集中的に投入して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に上昇させようというものでした。しかし実は、現在、まともなエコノミストの中で、傾斜生産方式で戦後の経済が良くなったと考えている人は、まず、いません。傾斜生産方式が一定の役割を果たしたことは確かですが、それは「アメリカからうまく援助を引き出すことができた」という点だと評価されているのです。

経済安定本部の流れを受けている経済企画庁出身のエコノミストたちが、過去のデータを分析していくつも論文を書いています。事実を知るのは、それらの分析が参考になると思います。

経企庁出身で政策研究大学院大学教授などを務めた大来洋一(おおきたよういち)氏らは『傾斜生産方式は成功だったのか』(2006年10月)という論文を書いています。

この論文の中でデータ分析が行われていますが、結論としては、「1947年の遅い時期からの生産の回復は傾斜生産方式の成功を示すものではなく、占領軍、アメリカの援助が効果的であったことを示すものである」としています。そのうえで「日本政府が傾斜生産方式を打ち出したのはそれが生産回復の決め手となると考えたからよりも、これによって占領軍からの原材料の援助を引き出すことができると考えたからであり、その意味では見事に成功していた」としているのです。

この視点は大来氏のみのものでなく、大半のエコノミストが同意しています。

大来氏の論文の中では、同じく経企庁出身で、日本経済研究センター会長を務めた香西泰(こうさいゆたか)氏の論文が引用されています。香西氏は「占領軍が日本経済の危機を認め、重油、原料炭、鉄鉱石等の基礎材料の輸入・放出に踏みきったことによるところが大きい」「この意味では傾斜生産の貢献をそれほど高く評価すべきではないかもしれない」としています。

当時の政府の担当者たちも「物資を引き出すためのものだった」と認めています。アメリカから物資を引き出すための説得材料として「傾斜生産方式」というものを持ち出したのです。

大来氏のデータ分析でも明らかになっていますが、鉄鋼や石炭の生産拡大と最も連動が強かったのは、「鉄鉱石の輸入数量」でした。要するに、アメリカが鉄鉱石を回してくれると生産が回復し、鉄鉱石を回してくれないと生産が伸びない状態でした。原材料がなければ、日本政府も産業界も何もできなかったのです。

1947年の遅い時期から生産が回復したのは、1947年6月にアメリカからの重油の緊急輸入が実現したからです。それまでは生産が伸び悩んでいましたが、重油が入ってきてからは急速に生産が拡大していきました。

終戦当初は、アメリカからの資金はガリオア資金(占領地域救済政府資金)だけであり、主に輸入していたのは食糧です。その後、エロア資金(占領地域経済復興資金)によって産業のための原材料輸入ができるようになりました。1948年8月からのエロア資金による原材料輸入の援助が日本経済を復興させました。

つまり、「1947年の重油の緊急輸入」と「1948年からの原材料輸入」によって生産が拡大したわけです。

ちょうど、この時期が傾斜生産方式の計画実施の時期と一致していて、1948年に計画がほぼ達成されたため、いかにも傾斜生産方式の成果のように見られていますが、実際にはアメリカによる援助が最大の要因でした。

要は、傾斜生産方式はアメリカからの援助を引き出したという点で、ポリティカルな意味では成功でしたが、エコノミックな意味ではほとんど効果のないものだったのです。
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