電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
怠惰なものたちすべてにののしりを発する
( ゲーテ )

日本史 古代編 《 『万葉集』の「身近さ」について――渡部昇一 》

2024-05-05 | 04-歴史・文化・社会
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『万葉集』についてはすでに述べたが、ここで指摘しておきたいのは、その万人参加ということのほかに、それが今日も一般人によって、翻訳なしに読まれていることである。中学生ぐらいでも『万葉集』に感激する。この場合も訳したものではない。『源氏物語』などはかえってむずかしいのに、和歌となると急に解(わか)りよくなるのは、やはり和歌が日本人にとって特別なものであるからであろう。いや、読むだけでなく、家庭の主婦などでも万葉調の歌などを作る人も少なくない。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p224 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(6) 記紀(きき)・万葉と漢文学の関係

◆『万葉集』の「身近さ」について

『万葉集』についてはすでに述べたが、ここで指摘しておきたいのは、その万人参加ということのほかに、それが今日も一般人によって、翻訳なしに読まれていることである。

中学生ぐらいでも『万葉集』に感激する。この場合も訳したものではない。『源氏物語』などはかえってむずかしいのに、和歌となると急に解(わか)りよくなるのは、やはり和歌が日本人にとって特別なものであるからであろう。いや、読むだけでなく、家庭の主婦などでも万葉調の歌などを作る人も少なくない。

このように考えると、日本人の奈良朝に対する親近感は、イギリス人のエリザベス朝に対する感じに似ているのではなかろうか、と考えられる点が少なくない。

イギリス人が、自然的な連続性を感じているのは、やはり16世紀以後についてであると思う。さっきビードやアルフレッドの英国史のことに触れたが、イギリス人が連続性を感じている英国史は、だいたいキャムデン(1623年没)あたりからであって、それ以前のことは、学校でやったとしても、親近感がまるで違う。

上智大学に、ミルワードさんというオクスフォード出身の英文学専攻のイギリス人の先生がおられる。この人は英文学史の本を英語で書いておられるし、最近は新書版のものも日本で出された。面白いことは、この先生はいつでも英文学史の本を14世紀ころからはじめられるのである。

「これはおかしいのではないか」

と私に言った読者もいた。それで私は、

「昔からイギリスでは英文学史を14世紀ごろからはじめる伝統があるんですよ」

と答えてあげた。

8世紀ごろからの文献があるのに、14世紀から文学史をはじめるイギリス人を、日本人は理解しにくいかもしれない。

しかしミルワードさんは本物のイギリス人で、イギリス文学史の伝統を引いておられるのだ。英文学史を8世紀ごろの文献からはじめるのは、イギリス人にしてみれば「外国流」
なのだ。そんなことをはじめたのはドイツ人であり、それが一般に普及したのは、ドイツの学風の強いアメリカのおかげである。

それで今では、8世紀からはじまる英文学通史もイギリスにあるが、それとは別に、「英文学史は14世紀から」という、より古い伝統があるのである。それはつまり、特に古代専門でないイギリスの教養人が、「自分たちの文学だ」と正直に感じることができるのは、14世紀からということであろう。

そして密接に連なっていると感じられるのは16世紀からと言ってよいであろう。

これに反して、日本人が「われわれの文学だ」と素直に感じられる作品は、すでに奈良朝なのである。

アメリカの南の大学で教えていたころの話である。そこの町の周辺には三つの大学があり、その大学の人文関係の先生たちが集まって「三大学教員ゼミナール」というのを毎月一度、金曜の夜に開いていた。

ゼミナールといっても夫人同伴で、茶菓なども出、パーティの要素も少なくなかった。交替で先生方が自分の研究していることを発表する。みんなその話を肴にし、コーヒーをすすりながら、質問したりして、知的な会話の一夕を過ごすのである。

私も、あるときここに呼ばれてしゃべるように言われた。テーマは「日本文学の伝統」というようなことであったので、今述べてきたような「連続の意識」を取り上げてみた。

そして、私が小学校のころに、中学の入学試験に備えて、神武天皇がご東征のときにおうたいになった歌――「みつみつし 久米(くめ)の子らが かきもとに 植ゑしはじかみ 口ひびく……」という例の歌である――を暗記したことを紹介し、これは伝承によれば西暦紀元前660年ごろ、歴史家の推定によれば紀元ごろ、そして文字に記録されたのがビードのころのものであるが、子どもでもちょっと説明すれば意味はわかるし、直観的に今の日本語との連続性が感じられる、と言った。そしてこの時代の和歌のボキャブラリを混ぜて使って、同一形式の和歌を作ることなどを、忙しい実業家でもやっていることを指摘した。

そしてこの連続感は、イギリスでは16世紀前後からではないか、と聞いてみたのである。答は、やはりそうだろうということであった。

アメリカもイギリス人同様、研究以外の目的で読む文学書は16世紀以後に限られている。日本ではOLが通勤電車の中で『万葉集』など開いている。
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