電脳筆写『 心超臨界 』

明日への最大の準備はきょう最善を尽くすこと
( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

セレンディビティの予感 《 自分とは自然の分身である――野口三千三 》

2024-08-13 | 09-生物・生命・自然
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


「自分」とは「自然」の「一部」であり、「自然の分身」という表現を略したものだ、という彼の説は、まさに目からウロコの発言である。


◆自分とは自然の分身である

『元気』
( 五木寛之、幻冬舎 (2004/4/1)、p26 )

「自分」とは「自然」の「一部」であり、「自然の分身」という表現を略したものだ、という彼の説は、まさに目からウロコの発言である。

「自分自身を知れ」

「自分とはなにか」

それはすべての哲学史の出発点といっていいテーマだった。野口三千三は、その問いにナタでたたき切るような力強い答えを示す。

「自分とは自然の分身である」と。


◆人間の体は数カ月で置き換わる

「妙なお話――生命観を変えた男」特別編集委員・足立則夫
( 2006.08.26 日経新聞 NIKKEIプラス1 )

毎日食事するのは、主に身体各部の筋肉にエネルギーを送り、活動を続けるため。ガソリンが車のエンジンを動かすのと同じような役割が食事にある。私たちはそう考えがちだ。

米国の分子生物学者、ルドルフ・シェーンハイマーは1937年、食事には他にも大切な役割があることを突き止めた。

分子生物学者で『もう牛を食べても安心か』の著者である青山学院大教授、福岡伸一さん(46)。シェーンハイマーがネズミの実験で明らかにした、食べたたんぱく質の行方について話す。

摂取したたんぱく質は消化管に送り込まれ20種のアミノ酸に。消化管から吸収されたアミノ酸は分子レベルに分解される。これが腸壁や腎臓、脾臓(ひぞう)、肝臓などの臓器や、血液中のたんぱく質である血清に姿を変える。

つまり、たんぱく質でできている器官は日々、分子レベルに分解され、そこに食事で摂取したたんぱく質の分子が素早く置き換わる。ネズミでは3日で、身体のたんぱく質のほぼ半分が置き換わっている。

「人間の体も数カ月たてば、脳も心臓も分子のレベルで新たに置き換わるのです」。実験を基に福岡さんは言う。

ジグソーパズルのように身体各部が分子レベルで動的な変化をする。全く新しい生命観を提起したこの学者は、41年謎の自殺を遂げる。享年43だった。

ユダヤ人だったシェーンハイマーは、発生学の研究をしていた妻と、ドイツから米国に亡命。妻は、彼が自殺したときには別居中で。その翌年、同じ亡命ユダヤ人学者と結婚している。ノーベル賞確実と言われたのに、自殺のため棒に振ってしまった。BSE(牛海面状脳症)などの解明に彼の研究は大いに貢献している。なのに彼の名前や研究成果が知られていないのは、あまり早くに自らの生命を絶ったためなのだろう。


◆自分の体を鬼に食われる

『ユング心理学と仏教』
( 河合隼雄、岩波書店、p121 )

子どものときに読んで、強く印象に残った仏教説話があります。

ある旅人が一軒家で一夜を明かすことになりました。夜中に一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。すぐ後ろにもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと争いますが決着がつきません。そこで二匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。旅人が最初の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の手を体から引き抜きました。それを見た先の鬼は死骸の手を抜きとって代わりにつけてくれました。他の鬼はますます怒り、もう一方の腕を引き抜くと、また先に来た鬼が死骸のを取ってつけてくれる。こんなことをどんどんやっているうちに、旅人と死骸の体はすっかり入れ代わってしまいました。二匹の鬼はそうなると争うのをやめ、死骸を半分ずつ食べて行ってしまいました。驚いたのは旅人です。自分の体は鬼に食われてしまったのですから、今生きている自分が、いったいほんとうの自分かどうかわからなくて困ってしまいます。

子ども心にもこの話が何とも言えず不気味で、それで何だか滑稽な感じもしました。それで忘れられなくて今もよく覚えているのです。ところで、ここまでは覚えているのですが、この話の結果をどうしても思い出せないのです。そこでわざわざこの本を持っている人を探し出して読んでみまして。それによると結果は次のとおりです。

旅人は困って坊さんに相談しました。坊さんは「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではないのです。いったい、人間のこの『われ』というものは、いろいろの要素が集まって仮にこの世に出来上がっただけのもの、愚かな人達はその『われ』に捉えられいろいろ苦しみもしますが、一度この『われ』といものが、ほんとうはどういうものかということがわかって見れば、そういう苦しみは一度になくなってしまうのです」。

今読んでも深遠極まりない教えであり、子どものときに記憶に残らなかったのも当然です。皆さんはこの話についてどう思われますか。皆さんはこの結論に賛成されようがされまいが、ともかく「私」という存在が、実に理解し難く、把握し難い、ということはわかって下さったと思います。以下、「私」とは何かについて考えてみることにします。
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