電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

生きるための杖ことば 《 無雲生嶺上 有月落波心――松原泰道 》

2024-10-13 | 03-自己・信念・努力
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雲が月を覆(おお)うと、波間の月は消えてしまう。雨が下界に降っていても、山上には青空が澄み渡っている。さとりのこころ(禅者は本来の面目という)は、形而下の諸現象にかかずらわない。


◆無雲生嶺上(雲(くも)の嶺上(れいじょう)に生(しょう)ずる無(な)くんば)
 有月落波心(月(つき)の波心(はしん)に落(お)つる有(あ)り)
             ――五家正宗賛(ごけしょうしゅうさん)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p206 )

慈明(じみょう)禅師(1039没)が、弟子の翠巌(すいがん)の真上座(しんじょうざ)に「如何(いか)なるか、是れ仏法の大意(仏法の窮極の意味)」と問うたとき、真上座の答えが「無雲生嶺上 有月落波心」である。雲が山の山上に生じなかったら、月の光は常に波に映じて美しいでしょう、と。

雲は煩悩であり、月はさとりの光を指していることは誰が見ても明らかであろう。仏法の窮極の意味の表現としてはすばらしいが、慈明はこの答えを肯(うけがわ)ず、かえって弟子の未熟を責める。

真上座も、自分の到らざるのを自覚して、師に教えを求める。慈明もあわれに思って指示する。「それなら、さきのわしの問うたとおりに、わしに質問しろ」と、真上座はすなおに「如何なるか、是れ仏法の大意」と問う。

慈妙は声の響きに応じるが如く、「無雲生嶺上 有月落波心」と、これまた真上座の答えそっくりそのままだ。ところが不思議なことに、同じ語を聞いて真上座は大悟したという。同一の語やことばでも、その底に流れる体験の差が、こうした現象を生む。禅には、このような独得でしかも親切な指導がある。

上記の語と同じ意味あいに、次の美しい五言対句が『曹山録(そうざんろく)』に見える。

  「雲吐波中月 天横雨外山」
  (雲は吐(は)く波中の月を、天は横たう雨外の山に)

雲が月を覆(おお)うと、波間の月は消えてしまう。雨が下界に降っていても、山上には青空が澄み渡っている。さとりのこころ(禅者は本来の面目という)は、形而下の諸現象にかかずらわない。

西国札所の詠歌には仏法の大意や禅のこころがよく詠じられている(拙著『同行二人』)。この語のこころも、西国第十四番近江の三井寺の詠歌に見ることができよう。

  いでいるや なみまの月を みいでらの 鐘のひびきに あくるみずうみ
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