電脳筆写『 心超臨界 』

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( ブリガム・ヤング )

ヨーロッパの三区分法――西尾幹二

2024-05-26 | 04-歴史・文化・社会
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いったい日本に中世はあるのだろうか。あるいは世界のどこでも使われていない、近世などというきわめて特殊な時代区分法を用いて江戸時代を説明することは、はたして適切であろうか。あえて日本の歴史を室町末で区切ってそこまでを古代とし、そのあとを近代とするという、二つだけしかなかったと考えることになにほどか不明な点があるであろうか。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p74 )
2 時代区分について

◆ヨーロッパの三区分法

まず、古代、中世、近代というヨーロッパ流の三区分法だが、これは16世紀のルネサンス人がこれから始まろうとする新時代を近代と呼ぶとともに、ギリシャ・ローマの古典文化を念頭において、模範としたい古典文化時代を古代として崇め、その中間にあるキリスト教教会中心の時代を、中間であるがゆえに中世と呼んだことに始まったとされている。この場合の中世は、近代の明るい未来への展望をはらむ時代と、模範としていくべき古代ギリシャ・ローマとの中間にあって、両者との対比において暗黒の時代とされ、克服されるべき過渡期として低く評価された点に、三区分法による時代区分の特色がある。

この三区分法は、16世紀ヨーロッパ人に固有の進歩史観、未来待望論めいたイデオロギーの反映であって、歴史の実際とはいちじるしく異なる。彼らは古代ギリシャ人の直系の子孫でもなんでもない。4世紀以降、ゲルマンの大移動があり、近代ヨーロッパの担い手となった人々の先祖は、人種的にも不明である。しかも地中海はほぼ全面的にイスラム教徒に制圧され、大略1千年にわたる長期にかけて、古代ギリシャ・ローマの文明から完全に切り離されていたのである。ルネサンスは自分たちの古い歴史の復活なのではなく、イスラム教徒のアラビア人を介しての間接学習の結果にすぎない。言い換えれば、ヨーロッパ人の歴史には、古代はなかったのである。あえてそういってよいであろう。あるいは4-5世紀から15世紀までの期間を古代と名づけ、中世はなかったというふうにいうことも可能である。呼び名はしょせん呼び名にすぎない。

三区分法を初めて歴史記述に用いたのは、ドイツのクリストフ・ツエラリウス(1638-1707年)で、コンスタンティヌス大帝の治世(306-337年)までを古代、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノーブル陥落までを中世、それ以後を近代とした。

その後、三区分法は境界に若干の変更を加えて、19世紀から大多数の歴史家によって普通に用いられるようになった。4世紀のゲルマン民族大移動までを、あるいは西ローマ帝国滅亡(467年)までを古代とし、ルネサンス、大航海時代、宗教改革のいずれかをもって近代の始まりとし、その中間を中世と定める習慣が確立された。しかし基本は歴史には進歩があり、目的があり、終末があるとするキリスト教文化圏の固有の、近代主義的観念の産物であることに変わりはない。

いったいどうしてわれわれ日本人は、日本に固有の歴史のリズムというものを知っているにもかかわらず、ヨーロッパのきわめて一時代に特有のイデオロギーを自国の歴史に当てはめ、ひたすら墨守しなくてはならないのであろう。ヨーロッパの国民国家、ドイツ、フランス、イタリア等々の原型がおぼろげに現れるのが10世紀、かなりはっきりしてくるのは13-14世紀である。7-8世紀に国家的自覚をもった日本に比べても、相当に年代の浅い若い国々である。

私は、今、目の前にフランスの中高校生のための歴史教科書をおいている。時代区分がなされていて、古代は紀元前3000年から西ローマ帝国の滅亡した紀元前467年までとされる。つまりエジプト、ギリシャ、ローマを古代の内容としているのである。中世になって初めてヨーロッパ地域の歴史となる。中世はその後10世紀にわたり、1492年を区切りとする。カール大帝(シャルルマーニュ)の載冠やオットー1世の神聖ローマ帝国の成立などを中世の内容とする。

中世に終止符を打った1492年は、イスラム教徒をイベリア半島からキリスト教徒が追い落としたレコンキスタ、失地回復運動と呼ばれる祝福すべきキリスト教徒大同団結の証(あかし)の日付である。と同時に、コロンブスによるアメリカ大陸発見の年でもあった。ここから1789年のフランス革命までを近代とし、それ以降を現代というふうに名づけている。

フランスという国が登場するのは、古代でもなければ中世の早いほうの時代でもない。ドイツ、フランス、イタリアなどといった各国のおおよその原型ができ始めるのは10世紀ぐらいであり、フランスがなんらかの自覚を持つのも12世紀を待たなければならない(フィリップ2世尊厳王在位1180-1223年)。ヨーロッパが強大な古代を持つと主張するのは、古代ギリシャ・ローマ文明を自分の過去に同一視したい、あるいはまたしようとするたんなる願望であって、逆にヨーロッパに古代はなく、中世の1千年間に文化的なアイデンティティの根拠を求めていくのがむしろ自然であり、そうすべきだという考え方は、ヨーロッパの歴史学会においてもルネサンスの幻想が終わった頃から、中世の独自性の認識というかたちでむしろ強調されるようになって、今日に至っている。例えば歴史家アンリ・ピレンヌという大きな名がそこに結びついている。とすれば、わが国の歴史に無理にこの三区分法を当てはめるというのはあまりにも当を得ていないであろう。

いったい日本に中世はあるのだろうか。あるいは世界のどこでも使われていない、近世などというきわめて特殊な時代区分法を用いて江戸時代を説明することは、はたして適切であろうか。

あえて日本の歴史を室町末で区切ってそこまでを古代とし、そのあとを近代とするという、二つだけしかなかったと考えることになにほどか不明な点があるであろうか。

日本史には中世はなく、大きく分けて二区分法で十分と考えた人に内藤湖南、石田一良、尾藤正英といった人がすでにいるが、私はそこでこの問題をさらに深く考える前に、日本における時代区分法の歴史を少し顧みてみたい。
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