電脳筆写『 心超臨界 』

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D・パイプス

日本史 古代編 《 天武天皇に見る「日本らしさ」の展開――渡部昇一 》

2024-08-13 | 04-歴史・文化・社会
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天武天皇的発想は、お盆に寺詣(てらまい)りをし、クリスマスにはケーキを子どもに買って帰り、「サイレント・ナイト」を歌い、新年には明治神宮に出かけ、初夢には七福神の絵を枕に敷くような普通の日本人のものである。したがって平均的日本人が戦死した場合、その兵士の霊は、靖国神社と、自分の家の寺との両方で祀ってもらうほうを喜ぶにちがいない。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p169 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(4) 「カミ」と「ホトケ」の共存共栄

◆天武天皇に見る「日本らしさ」の展開

これについては、たいへん面白い偶然がある。

天武天皇(第四十代)はきわめて篤く仏教を信じられた方であり、諸国に金光明経(こんこうみょうきょう)や仁王経(におうきょう)を講ぜしめられたり、薬師寺を建立なされた方である。そして685年には、大和法起(ほっき)寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じられた。

しかし、まさにこの685年に、同じ天武天皇が伊勢神宮の式年遷宮(正遷宮。定期的に神宮を建て直すこと)をお決めになったのである。この定めに従って、持統天皇の年代に、第一回の式年遷宮が行なわれて以来、本年度(昭和48年度)の第60回正遷宮に至るまで、約1300年間、そのことが廃らなかったことは、世界史の奇跡といっても誇張ではない。何度も言うが、石でできたピラミッド――それでさえ、表面のアラバスタ―石はだいぶはがされ持ち去られている――が残っているのとわけが違うのだ。

ここに、さらにもう一つの不思議が残る。神宮を20年ごとに造り替えるようになった理由は、おそらくその屋根がかやぶきのため、鳥の巣や鼠の巣などが出来たり、雨漏りするからであると思われる。まさか八咫鏡(やたのかがみ)が祀られている上に屋根職人が上がるわけにもいくまいから、全部建て直すより仕方がなかったのであろう。

だが神代(じんだい)ならいざ知らず、天武天皇の時代には、もうそれより半世紀以上も昔に法隆寺さえ建っているのだから、瓦を用いれば何のことはない、はるかに耐久性のある社殿が容易に造れたはずである。しかし天武天皇はそうなさらなかった。それで神代以来の復元の繰り返しを1300年間近く、日本人はやってきたのである。法隆寺や薬師寺を建てながら、神宮は史前史の建築様式のままで、というのが日本人の生き方であった。

このメンタリティが藤原時代になると和魂漢才と言われ、明治以降は和魂洋才などと言われるものになるのであるが、この奇妙な取り合わせが、すでに天武天皇のときに鮮明な形で出ていることに注目したい。

これは明らかに、近代的工場を作るときに地鎮祭をやったり、超高層ビルの上に小さい社(やしろ)を残す現代日本人の心と連なっているものである。

ちなみに天武天皇は伊勢神宮のみならず、日本じゅうの神社の修理を命じておられるのだ。まさにカミもホトケも平等に扱っておられるわけで、こんな仏教信者がいることを知ったら、お釈迦様も、ど肝を抜かれる思いをなされたことであろう。

この天武天皇的発想は、お盆に寺詣(てらまい)りをし、クリスマスにはケーキを子どもに買って帰り、「サイレント・ナイト」を歌い、新年には明治神宮に出かけ、初夢には七福神の絵を枕に敷くような普通の日本人のものである。

したがって平均的日本人が戦死した場合、その兵士の霊は、靖国神社と、自分の家の寺との両方で祀ってもらうほうを喜ぶにちがいない。

私の知っているキリスト教信者の中には、信教の自由に反するという理由で靖国神社反対運動なんかやっている人もいるが、こういう人たちは日本のことがよくわかっていないのだ。

筋の通った日本の神社のカミは、日本人の先祖であり、靖国神社も先祖、ないしは血族の記念に捧げられたもので、それをお参りするのは、血の繋がりという事実の確認行為が根底にある。われわれが先祖から生まれたというのは事実であり、キリストやマホメットや釈迦を信ずるのは信仰である。

事実と信仰はぶつかり合う必要のないことは、聖徳太子や天武天皇がとっくにお示しになっていることだ。
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