電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
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( ゲーテ )

デカルトの二元論が抹殺したもの――梅原 猛

2024-06-21 | 07-宇宙・遺伝子・潜在意識
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デカルトに始まる思惟する人間と延長する物質の独占的存在権の主張は、けっきょく、二つのことを引き起こすのである。


◆デカルトの二元論が抹殺したもの――梅原 猛

『哲学する心』
( 梅原 猛、講談社 (2002/4/10)、p34 )

デカルトに始まる思惟する人間と延長する物質の独占的存在権の主張は、けっきょく、二つのことを引き起こすのである。

1、神と天使の抹殺。ここで神と同時に天使、仏と同時に菩薩などの存在権がうばわれてしまったのである。そのことによって二つの現象が起こっているわけである。神が存在を抹殺されることにより、人間は人間を超えた力と、同時に価値をもった存在者を失ってしまったのである。そのことによって二つの現象が起こっているわけである。神が存在を抹殺されることにより、けっきょく、人間は、おのれの上にいかなる支配者ももたなくなった。人間が神となったわけである。人間が神となることによって、人間はその向かうべき目的を失ってしまうと同時に、おのれ自身を裁(さば)く倫理的な基準を失ってしまったのである。

かつては神や仏に近づく方向に人生の目的があった。いまはどういう社会が人間の目標なのか。よりよい生活。テレビの数がふえ、酒の味がよくなり、性行為が自由にできるのが社会の進歩であろうか。人間の目標が、もしも霊的なものにありとすれば、人間がはたして純粋霊の世界である神や仏の存在を否認してしまうことは、人間の生にとって得策であろうか。

神を失った人間は限りなく傲慢になっている。数億の動物たちを殺したというより、生存を不可能にした人間は、こういう殺生を犯しながら、その殺生について、ついぞ反省しないのである。まったく人間のエゴイズム、そのエゴイズムを人間はヒューマニズムというのである。この人間の傲慢は、いつの日か、人間という殺生獣をして、前例のない殺人獣に変えるかもしれない。この無数の生物の反省なき虐殺者には、けっきょく、おのれの種族を、おのれ自身の手で皆殺しにしてしまうという悲劇が適当かもしれない。

2、動植物の抹殺。動植物の抹殺は、デカルト哲学に含まれる運命であった。デカルトは動物をけっきょく一つの機械と考える。それは精巧な機械にすぎない。人間の身体もやはり機械である。ただ人間にはこのような機械としての身体に、思惟する自由な精神が加わっているだけなのである。

ここで動植物は物質にまで堕してゆく。このデカルトによってたてられた原理には動植物のしめる座はないのである。もっとはっきりいえば、そこには生命あるものの場所はないのである。あるのは思惟する自我と、延長する物質、その中間にある生命あるものは、けっきょく、単なる物質の場所に下ろされてしまうのである。このような世界観にもとづく科学は、その原理の中に、すでに生命の否定を含んでいるのである。物質の生産、それをのみ目ざす近代文明は、けっきょく、生命の無視に走るのである。一輪の花の中に、生命の深さをみ、一匹の動物の中に人間と同じ悲しみをみる思想は、そこにはない。真に存在するのは人間と物質。したがって真に実在する人間のために、生ける実体を、死せる実体にかえたって、そこに実体としてなんらの損失は起こらないのである。

こうして近代文化は急速な勢いで、生命の種類と数量をへらしていった。生命の中で繁栄をしているのは、人間とその人間に寄生するバイキンその他の生命のみ、他の生命は、一日一日ほろぼされてゆくのである。

こうして生きた生命の減少とともに、物質がむしろ生命の位置に上がってゆくのである。機械はまさに生命のもっている動力を、生命体以上にもちつづけるものである。自動車や飛行機、そこにむしろ近代人は生命を感じる。しかし、それはしょせん、死せる機械なのである。死せる機械が、生きた生命に代わろうとするのである。

生の概念の否定、それが近代哲学の中にすでに含まれている前提なのである。つまり近代哲学は最初から生命を疎外した哲学だったわけである。生命の概念はそこにはない。したがって死という概念もそこにはない。
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