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渡部昇一「日本の歴史」(3)戦国篇
『戦乱と文化の興隆』http://tinyurl.com/7fzufb2
【 渡部昇一、ワック (2010/09)、p11 】
《日本の大変動》
徳富蘇峰(とくとみそほう)の『近世日本国民史』は画期的な歴史書である。織田信長の時代から筆を起こし、明治の西南戦争とそれに続く大久保利通の死までを記述した全百巻の膨大な近世史で、大正7年(1918)から執筆を始め、昭和27年(1952)にようやく完結した。
蘇峰はそもそも明治天皇一代史を書くつもりだった。ところが、そのためには先代の孝明(こうめい)天皇について書かなければならず、そのためには豊臣秀吉を、それには織田信長を……という具合にどんどん歴史をさかのぼり、ついには「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」で一区切りというところまで考えた。しかし、きりがないからというので、日本の近世史を織田信長から書き始めたのである。
それはたしかに一つの見識と言えるだろう。だが、歴史のディテールを考えると、私は「応仁(おうにん)の乱」から始めてもいいのではないかと思う。
この大乱をきっかけに戦国時代がはじまるということもあるが、それだけではない。現代の日本の家系は、大名家であれ、名門の家であれ、皇室と一部の公家を除けば、そのほとんどが応仁の乱以降に始まる。それより前にはさかのぼれないのである。源氏とか平氏を名乗る大名は多いが、実は応仁の乱を境にほとんどの家系がそれ以前と切り離されてしまうので、勝手に「誰々の子孫」と称するようになっただけのことだ。
内藤湖南(ないとうこなん)は、的確にこう言っている。
「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆(ほとん)どありませぬ。応仁の乱以降の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって……」(大正10年8月 史学地理学同攻会講演『増訂 日本文化史研究」弘文堂書店 大正13年 193ページ)
応仁の乱とは、それほどの歴史的大変動だったのである。このとき歴史上の大断層が生じたと言ってもよい。
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渡部昇一「日本の歴史」(3)戦国篇
『戦乱と文化の興隆』http://tinyurl.com/7fzufb2
【 渡部昇一、ワック (2010/09)、p11 】
《日本の大変動》
徳富蘇峰(とくとみそほう)の『近世日本国民史』は画期的な歴史書である。織田信長の時代から筆を起こし、明治の西南戦争とそれに続く大久保利通の死までを記述した全百巻の膨大な近世史で、大正7年(1918)から執筆を始め、昭和27年(1952)にようやく完結した。
蘇峰はそもそも明治天皇一代史を書くつもりだった。ところが、そのためには先代の孝明(こうめい)天皇について書かなければならず、そのためには豊臣秀吉を、それには織田信長を……という具合にどんどん歴史をさかのぼり、ついには「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」で一区切りというところまで考えた。しかし、きりがないからというので、日本の近世史を織田信長から書き始めたのである。
それはたしかに一つの見識と言えるだろう。だが、歴史のディテールを考えると、私は「応仁(おうにん)の乱」から始めてもいいのではないかと思う。
この大乱をきっかけに戦国時代がはじまるということもあるが、それだけではない。現代の日本の家系は、大名家であれ、名門の家であれ、皇室と一部の公家を除けば、そのほとんどが応仁の乱以降に始まる。それより前にはさかのぼれないのである。源氏とか平氏を名乗る大名は多いが、実は応仁の乱を境にほとんどの家系がそれ以前と切り離されてしまうので、勝手に「誰々の子孫」と称するようになっただけのことだ。
内藤湖南(ないとうこなん)は、的確にこう言っている。
「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆(ほとん)どありませぬ。応仁の乱以降の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって……」(大正10年8月 史学地理学同攻会講演『増訂 日本文化史研究」弘文堂書店 大正13年 193ページ)
応仁の乱とは、それほどの歴史的大変動だったのである。このとき歴史上の大断層が生じたと言ってもよい。
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