電脳筆写『 心超臨界 』

神は二つの棲み家をもつ;
ひとつは天国に、もうひとつは素直で感謝に満ちた心に
( アイザック・ウォルトン )

日本史 古代編 《 再考すべき「中国」の呼称――渡部昇一 》

2024-07-01 | 04-歴史・文化・社会
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不思議なことは、シナ文学の研究者たちが、シナ文学と言わずに中国文学などと言っていることである。私の愛読する学者に内藤湖南と桑原隲蔵(じつぞう)がいる。この二人は当時最高のシナ学者で、シナ本土の学者よりも研究が進んでいたことが知られている。この人たちは自分の学問を「支那学」と呼んでいたはずである。その後継者である今日のシナ学者たちが、この光輝ある伝統を持つ学問名を、古くなった下駄でも捨てるように惜しげなく捨てて、中国研究などと言っているのは、いかがなものであろうか。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p53 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(3) 「日本の神」と「ゲルマンの神」の同質性

◆再考すべき「中国」の呼称

ついでながら、「中国」という名称の使い方について一言しておこう。

戦後いつごろからか知らないが、気がついてみたら、シナのことを日本のジャーナリズムや出版界がすべて「中国」と言いはじめていた。シナの正式の国名が、戦前においては中華民国であることを知っていたので、その略称として中国と言っているのかと思ったら、どうもその本来の意味で用いているのでびっくりした。

「中国」というのは自分の国が世界の真ん中であるという意味の美称であって、よその国に使うことを強制できる性質のものではない。

それだけならまだよいのだが、日本には先に述べたように「中国(なかつくに)」という神代以来の言い方があるうえに、『日本書紀』にも「中国」を日本の言い方に使っている。それ以後その用法が廃れたのならまだよい。

9世紀の後半には(『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』元慶(がんぎょう)2年〔878〕)、山陽道を「中国(ちゅうごく)」と呼んでいる。これは山陰道と南海道の間にあったからだという。また、これより先に大宝令(たいほうりょう)(701年)にも、この語が用いられたことが知られている。その後、山陰と山陽を合(がっ)して、「中国」と呼ぶようになり、『太平記』にも「備後(びんご)の鞆(とも)に座し給(たま)ひて、中国の成敗(せいばい)を司(つかさど)るに」(〔足利直冬(あしかがただふゆ)は〕備後の鞆津(とものつ)に赴任され、中国地方の裁判を担当したが)とある。その後、この言い方は普通で、秀吉の毛利攻(ぜ)めも、中国征伐と言っていたことは、誰でも知っている。

そして江戸時代を通じてこの用法は確立し、現代の日本地理の教科書に至るまで、一貫して用いられている言葉である。たしか「中国新聞」や「中国銀行」というのもあるはすである。

こうしたところに、シナが「中国」と呼ぶ言い方をしているからといって、日本のジャーナリズムや出版界が、挙げてこの用法に飛びつくというのは混乱以外の何ものでもない。事実、シナにおいては、「中国」の民でない民族が王朝を作った時代が何回かあった。元(げん)国はモンゴル族が、清(しん)国はツングース族が、つまり元来は「北狄(ほくてき)」と言われた連中が建国しているのである。

シナにおいては「中国」が何度も断絶しているのに、ともかく日本は千数百年間、確実に連続してこの語法を用い、地名としても確立しているのだから、たとえ現在の「中国政府」に圧力を受けても、「日本はこういうふうに昔から中国という言葉を使っていますから、一般には使うことができません。外交文書にだけ使わせていただきましょう」と言ってもよいはずであった。それがそうならなかったことに、戦後の日本人の卑屈さがまざまざと現われている。

『日本書紀』が作られた時代の日本とシナの文化の程度は、大きな開きがあったのに、そのころの日本人は「中国」というのは、「自国」というのと同意義の美称であることを知っていた。それが、文学的な面においても、物質的な面においても、はるかに栄えている現代の日本人が、このことを心得ていないのは不思議である。

いな、もっと不思議なことは、シナ文学の研究者たちが、シナ文学と言わずに中国文学などと言っていることである。私の愛読する学者に内藤湖南と桑原隲蔵(じつぞう)がいる。この二人は当時最高のシナ学者で、シナ本土の学者よりも研究が進んでいたことが知られている。この人たちは自分の学問を「支那学」と呼んでいたはずである。その後継者である今日のシナ学者たちが、この光輝ある伝統を持つ学問名を、古くなった下駄でも捨てるように惜しげなく捨てて、中国研究などと言っているのは、いかがなものであろうか。

それほどシナを中国と呼びたいならば、中国(ちゅうごく)などという日本語なまりの発音をやめて、本当のシナ語式の発音にしたらよいであろう。そうすれば「中国人」はチャンコロとなる。
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