電脳筆写『 心超臨界 』

現存する良品はすべて創造力の産物である
( ジョン・スチュアート・ミル )

日本史 古代編 《 古代日本人の死と魂の観念――渡部昇一 》

2024-07-17 | 04-歴史・文化・社会
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死んだとされるイザナミノミコトは黄泉国(よみのくに)に行ったのであり、その死体(?)になったところを、夫のイザナギノミコトに見られ恥をかかされたというので、雷神(らいじん)たちと一緒にイザナギノミコトを追い回すという武勇伝があるのだ。日本の死者は死んでもなくならない。それはギリシャ神話のオルフォイスとユーリダイスの物語とよく似ている。死ぬというのは「退去」なのであり消散ではない。だから日本の死者はカミなのである。だから日本では死ぬことを「おかくれになる」と言うのである。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p99 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(6) 「伝統への敬意」こそ民主主義の精神

◆古代日本人の死と魂(たましい)の観念

ここから当然出てくる疑問は、なぜ日本にはこれほど古代がよく生きているのか、ということである。

外国人による長期の征服や民族移動的流入がなかったという外的理由がまず考えられるが、このほか、日本人の「死」に関する特殊な観念にもよるものであろう。

「死」という日本語の語源は「過(す)ぎ」の省略形だと説く国語学者もいるが、きわめて古い時期からシナ語の「死」がはいっていたのではないかと思われる。

許慎(きょしん)の『説文』には「死ハ澌(シ)ナリ」とあるのを解して、加藤常賢(かとうじょうけん)博士は「水が全然なくなる」の意味に取り「シ」の音は「尽きてなくなる」という意味に解しておられる。これに対して藤堂明保(とうどうあきやす)博士は「澌」を「バラバラになる」の意味に解しておられる。さらに「シ」の音は、歯を閉じたままシーッと言うことによって、息が歯の間からバラバラに分かれて出たものであるという。このことを「四」または「泗(シ)」と言うのだそうである。口から八印(じるし)に息が分散する様子を「口+八」→四という字で表したものという。いずれにせよ完全消滅という感じである。

日本の記録で最初に死んだ例は、火神であるカグヅチをお産みになったイザナミノミコトであるが、このときの『古事記』の表現は神避坐也(かみさりましぬ)となっているし、『日本書紀』のほうでは、終矣(「一書ニ曰ク」として神退去矣)と漢文ふうに書いてあるが、これも「かみさりましぬ」と読むのである。「避」にしろ「終」にしろ、「退去」にしろ、バラバラになって消えてしまうのでないことは、これに続く記紀の記事を読めばよくわかる。

死んだとされるイザナミノミコトは黄泉国(よみのくに)に行ったのであり、その死体(?)になったところを、夫のイザナギノミコトに見られ恥をかかされたというので、雷神(らいじん)たちと一緒にイザナギノミコトを追い回すという武勇伝があるのだ。日本の死者は死んでもなくならない。それはギリシャ神話のオルフォイスとユーリダイスの物語とよく似ている。死ぬというのは「退去」なのであり消散ではない。

だから日本の死者はカミなのである。だから日本では死ぬことを「おかくれになる」と言うのである。

このセンスが生き生きとしていたから祭り事が政治(まつりごと)だったのであり、顕のことより幽のことが大切だったのである。これは一種の不死の思想であり、これのために、のちに仏教がはいったときにも、仏教が骨抜きにされてしまったことは、あとに述べることにする。

古代の日本人が人格の不滅、霊魂の不滅を信じていたことは、出雲系の神話にも歴然としている。たとえばスサノオノミコトの御子オオアナムチノミコト(いわゆる大国主命(オオクニヌシノミコト)、後世は大黒様とも見なされる)が、あるとき、海の側(そば)にいたら、光りが海を照らして、突然、不思議な人が現われてきた。「お前は何者だ」とお訊きになると、「私こそはお前の幸魂(さちみたま)・奇魂(くしみたま)である」と答えたので、オオアナムチノミコトは、「私の幸魂・奇魂はどこに住めばよいか」と尋ねた。すると「大和(やまと)の三諸山(みむろやま)に住みたい」と答えたので、自分で自分の幸魂・奇魂を大和に祀るようになったという。

自分で自分の魂を祀ったというのもおかしな話だし、それが海から出てきたというのも、まことにおかしい。しかし、これと類似の信仰は古代のゲルマン人にもあり、死んだ人間の霊魂は北の海に行って、次の出番を待つという具合であった。

したがって、今日でもドイツ語の Seele(ゼーレ)(霊魂)は See(ゼー)(海)の派生語なのである。語尾の l(エル)は「……に帰属するもの」という意味を示す接尾語である。くわしく言えば古代ゲルマン祖語 saiwaz(海、湖)の派生語として saiwalo(海に属するもの)という語があり、これがゴート語 saiwala、ドイツ語 Seele、古英語 sawol、現代英語 soul になった。したがって、英語で人間の霊魂の不滅などを論ずるときは、spirit とか mind とか言わずに、soul を用いるのである。
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