電脳筆写『 心超臨界 』

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( マルセル・プルースト )

読む年表 古代~中世 《 平家滅亡――渡部昇一 》

2024-07-17 | 04-歴史・文化・社会
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悲惨だったのは、数え6歳の安徳天皇が、祖母にあたる二位尼(にいのあま=平時子(ときこ)。清盛の正室)に抱かれたまま海に沈んだことである。安徳天皇の母建礼門院(けんれいもんいん)と、安徳天皇の異母弟守貞(もりさだ)親王も入水したが、二人は助けられた。二位尼と安徳天皇とともに海中に没した神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されたが、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)すなわち草薙剣(くさなぎのつるぎ)はついに見つからなかった。


◆平家滅亡

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p60 )

1185(寿永4年=元暦2年)
平家滅亡
義経「英雄譚(えいゆうたん)」のクライマックスに演じられた悲劇

源頼朝に代わって京へ攻め込んだのは、同じく以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって信濃で挙兵した従弟の源(木曾)義仲であった。寿永(じゅえい)2年(1183)、十万余と称する平家の大軍は越中と加賀の国境にある礪波山(となみやま)の倶利伽羅(くりから)峠で木っ端微塵(みじん)に打ち砕かれた。義仲が数百の牛の角に炬火(たいまつ)をつけて敵陣を奇襲したという、有名な「倶利伽羅峠の戦い」である。

それからの平家軍は敗戦に次ぐ敗戦を続けた。その前々年に突如病死した清盛から後を託された三男宗盛(むねもり)は寿永2年7月、幼少の安徳(あんとく)天皇を奉じ、三種の神器とともに京都を去っていったん福原に逃げ、ついに九州筑前に落ちていく。

平家に圧迫されていた後白河法皇はすぐさま義仲に平家追討の宣旨(せんじ)を下した。官軍の立場が逆転したのである。しかし、京に入った義仲軍の狼藉もあって法皇と義仲の関係は悪化し、法皇は頼朝に義仲討伐を命じる。都を手中にする機会を狙っていた頼朝は、弟の範頼(のりより)と義経に命じて義仲追討軍を都へ向かわせた。義仲は京都の守りを固め、これを迎え撃ったが、義仲軍は惨敗する。義仲も近江国粟津(おうみのくにあわづ)で討ち取られた。源氏が同じ源氏を滅ぼしたのである。

義仲が従兄の軍勢に滅ぼされた後、範頼と義経に平家追討の院宣(いんぜん)が下った。

この源平合戦(治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱)で目覚しい活躍をしたのが義経である。平家が滅びるまでの戦いは、そのまま義経の英雄譚であった。

平家はこのときまでに勢力を盛り返していた。瀬戸内海までの西国を制圧し、讃岐国屋島(さぬきのくにやしま)を本拠として、かつて清盛が一時的に都を置いた福原に進出し、京都奪還を狙っていた。一ノ谷の砦に陣を敷いた平家は自信満々であった。

この一ノ谷を、本隊を率いる範頼が正面から攻め、義経は迂回して鵯越(ひよどりごえ)の難路を進み、わずか七十騎の兵を率いて断崖絶壁を馬で駆け下り、背後を突いて平家陣営を壊乱せしめた。これが有名な「鵯越の逆落(さかお)とし」である。まさに日本軍史に例のない、目の醒めるような戦いぶりであった。

さらに範頼を主力とする追討軍が山陽道から九州へ遠征したが、途中で兵糧が尽き、範頼軍は崩壊寸前に陥った。やはり源平合戦は義経の戦いだったのである。あらためて義経が出陣し、屋島・壇ノ浦で血湧き肉躍る戦いを繰り広げた。

義経の屋島攻撃は一ノ谷の戦い以上に激烈なものであった。義経はわずかな兵力で次々に敵陣を破り、圧倒的に優勢だった平家を海上に追い落とす。

追いつめられた平家軍は関門海峡の壇ノ浦で義経の水軍を向かえ撃った。これが源平最後の戦いとなるが、この戦いでは、平家を滅ぼすだけでなく、三種の神器を奪い返すことが重要だった。

海戦を得意とする平家の水軍は潮の速さを利して圧倒的に有利な戦いを進めたが、やがて潮の流れが変わって形勢が逆転したという。平家軍は壊滅状態となり、敗北を悟った平氏一門は次々と海に身を投じた。平家随一の猛将といわれた平教経(のりつね)は敵の大将と差し違えようと義経の舟に飛び乗ったが、義経は身軽に舟から舟に飛び移って逃げた。いわゆる「義経の八艘(はっそう)飛び」である。教経は組みついてきた源氏の安芸(あき)兄弟(太郎・次郎)を道連れとして両脇に抱えたまま海に飛び込んだという。

こうして平家は寿永4年(元暦(げんりゃく)2年。1185)、壇ノ浦で滅びた。

悲惨だったのは、数え6歳の安徳天皇が、祖母にあたる二位尼(にいのあま=平時子(ときこ)。清盛の正室)に抱かれたまま海に沈んだことである。安徳天皇の母建礼門院(けんれいもんいん)と、安徳天皇の異母弟守貞(もりさだ)親王も入水したが、二人は助けられた。

二位尼と安徳天皇とともに海中に没した神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されたが、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)すなわち草薙剣(くさなぎのつるぎ)はついに見つからなかった。もっとも、この剣は崇神(すじん)天皇の時に作られた儀式用の形代(かたしろ=神器に準ずる複製品)で、本物は日本武尊(やまとたけるのみこと)の歿後、熱田神宮に奉納されている。現在の剣は後に伊勢神宮より奉(たてまつ)られた。
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