電脳筆写『 心超臨界 』

現存する良品はすべて創造力の産物である
( ジョン・スチュアート・ミル )

般若心経 《 知識の衣(ころも)を脱ぎ捨てよ――松原泰道 》

2024-07-16 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


現代の私たちは、過剰に知識を吸収したため、知識の自家中毒を起こしているのです。なお悲しいことに、その自覚症状を感知できないので、症状は悪化して“知識ある悪魔”が後から後から輩出するのです。“物知り”的知識を思い切って捨てて、心経の説く「空」の境地に帰って、“一文不知(一つの文字も知らない)”になる洗脳が必要のように思われます。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p214 )
6章 不生不滅の教え――刻一刻、死に向かいつつある生(せい)を生き抜くために
(2) 眼(め)で聴(き)き、耳で視(み)る
是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい

◆知識の衣(ころも)を脱ぎ捨てよ

冒頭の「是(こ)の故(ゆえ)に」は、前節の「諸法の空相は、不生不滅・不垢不浄・不増不滅」を受けています。そして「空の中には」は〈空の見方からすれば〉というほどの意味で、空の見地からすれば「色(しき)もなく、受(じゅ)も想(そう)も行(ぎょう)も識(しき)もなく、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)もなく、色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)もなく、眼界(げんかい)もなく乃至意識界(ないしいしきかい)もなし」というのです。

色受想行識は、先に学んだ五蘊(ごうん)です。「色」は人間の場合は肉体で、「受想行識」は人間の持つ心の四つの機能(はたらき)であることも前に学んだところです。

ただ、本節で学ぶ五蘊は、人間の構成要素だけでなく、人間を囲むさまざまな事象、つまり森羅万象――仏教用語でいう一切法(万法)のことをいいます。それらもまた空であるというのです。

「色」は、ここでは人間の持つ六根(ろっこん=眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)でキャッチされる事象のことです。「根」は根本の意味だけでなく機関・能力の意味もあるのです。神聖な霊山詣(れいざんもうで)や寒参(かんのまい)りの行者(ぎょうじゃ)が“六根清浄(ろっこんしょうじょう)”と唱えるのは、修行の福徳によって、行者の六根が清浄になることを願うのです。

いつでしたか、天台座主(ざす)の山田慧諦(やまだえたい)さまが「“どっこいしょ”という掛け声は“六根清浄”が詰まってできたのです」と笑いながら教えてくださいました。私と違い謹厳な山田座主さまのお話ですから、あるいはそうかもしれません。

六根の眼の見る対象の「色」、耳の聞く「声」、鼻の嗅(か)ぐ「香」、舌の知る「味」、身(皮膚)でさわってわかる「触」、意が知覚するところの「法」の六つを「六境(ろっきょう)」といいます。六根と六境とを合わせて「十二処(しょ)(十二支とも)」といいます。

さらに、六根が六境を認識する、六つの範囲の六識界―眼識界(視覚)・耳識界(聴覚)・鼻識界(臭覚)・舌識界(味覚)・身識界(触覚)・意識界(認識)――を十二処に加えて、「十八界」と名づけます。

心経の「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」は、この六根・六境・六識界の十八界を挙げて、そのすべてを「ない、ない」と否定するのです。本分の「無眼界乃至無意識界」の乃至は、六識界のはじめの「眼(識)界」から中間を省略し、終わりの「意識界」にとんでいるからです。

それは一体どういうことなのでしょう。一方的に打ち消してゆくずいぶん乱暴な断定ではありませんか。私たちはみな六根の大切な感覚器官を具えて、この感覚器官により、客観をそれぞれ把握して正確な認識を身につけ、社会生活をしているというのに――。

実は、そこに大きな落とし穴があるのです。いま申しました感覚器官による認識の過信は、今にはじまったことではありません。紀元前数世紀の時代に、古代インドで、そうした知的経験が高く評価されていたのです。心経に登場する舎利子も、偉大なる知的経験論者の代表です。

現代の私たちは“この眼で見たから間違いない”“実際に体験したのだから確実だ”と、六根によって得た合理的な認識を過信しています。それらを思い切って捨ててしまえ、捨て切ったら、新しい別次の“非合理の知識”が、自然に身体の毛穴から入ってくるであろう――というのが、十八界の全否定です。

心経をよく読んでいると、観自在菩薩が舎利子に「合理的な知識の衣(ころも)を脱ぎ捨ててて、裸になれ」と命じているのです。このことはまた、観自在菩薩の私たちへの叱責として、心して読むべきです。

現代の私たちは、過剰に知識を吸収したため、知識の自家中毒を起こしているのです。なお悲しいことに、その自覚症状を感知できないので、症状は悪化して“知識ある悪魔”が後から後から輩出するのです。“物知り”的知識を思い切って捨てて、心経の説く「空」の境地に帰って、“一文不知(一つの文字も知らない)”になる洗脳が必要のように思われます。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生きるための杖ことば 《 聖... | トップ | セレンディビティの予感 《 ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事