電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
よいことば、正しいことば、美しいことばによって、絶対語感がつくり上げられれば、こどもは一生の宝物を与えられたようなものである。それは、まわりの話しことばによるのであるから、文字中心の学校の教育は絶対語感にはほんのすこししかかかわりがない。それだけに、人の子の親となったら、こどもにすこしでも美しく、正しい絶対語感を植えつけられるように、ことばをつつしまなくてはならない。
◆絶対語感が荒々しくなってきた
『大人の言葉づかい』
( 外山滋比古、中経出版 (2008/3/26)、p206 )
まっとうな、一人前の人間なら、めいめい“絶対語感”というものができていなくてはいけない。
“絶対語感”とはなにかというと、その人のことばの基本、構造である。文法もふくまれていて、「あの人はりっぱな本に持っている」などということばきけば、立ちどころに、まちがっていると判断する。本人は、よほどのことがないかぎり、この自分の文法がどういうものか、自覚したり、それを書きだしたりすることはできない。
リズム、調子も絶対語感にふくまれる。関西の人が、東京ことばを異質なものと感じるのも、絶対語感の違いによる。
「食べられる」「着られる」「寝られる」という人の絶対語感は、「食べれる」「着れる」「寝れる」という人のそれとは異なっている。おかしいと思っても、違っている、と口に出していうことはむずかしい。以前から「ら抜きのことば」を正しいものとして用いてきた方言もある。
絶対語感はどうして習得されるか。
くりかえしくりかえしきく。そして話す。
やがて慣用ができる。
このことばの習性が、絶対語感と呼ばれる。
さらにこの習性は精神性を帯びるようになり、ことばが心に結びつくのも、絶対語感によってである。
よいことば、正しいことば、美しいことばによって、絶対語感がつくり上げられれば、こどもは一生の宝物を与えられたようなものである。それは、まわりの話しことばによるのであるから、文字中心の学校の教育は絶対語感にはほんのすこししかかかわりがない。
それだけに、人の子の親となったら、こどもにすこしでも美しく、正しい絶対語感を植えつけられるように、ことばをつつしまなくてはならない。
女子高校生たちが、大声で、
「テメータチ、メシ、クウノカヨー」などとさけんでいるのをきくと、この人たちがこどもをもつようになったら、まともなことばを使えるようになるだろうか、と心配になる。いくらなんでも、親になったら、まさか「テメー、ハヤク、メシクワンカ」などといったことばづかいはすまい。けれども、このあいだまで使っていたことばが、ことばである。急にやさしいことばがでてくるはずがない。どうしても、こどもの絶対語感も乱暴になる。実際、そういう若ものが、年々ふえているようで、ことに若い女性のことばが荒々しくなってきた。男性的になっている。これはけっして進歩ではない。
女性がむかしから、男以上に、“よいことば”を使うようにしつけられてきたのは、母親がこどものことばの主任の先生になることをふまえた庶民の知恵であった。
男だって、ことものことばの先生であるのは変わりがない。変なことばが絶対語感になってしまっているとすれば、こどもにとってたいへん大きな不幸である。
だからといって、急に、親が自分の絶対語感を改良することはできない。どうすればよいのか。見通しは暗いといわなくてはならないが、努力の余地がまったくないわけではない。
比較的、年齢が高くなってから固まる敬語の絶対語感を、改造、改良するのである。ただ、まわりで、正しい敬語を使う人がすくないのが現状だから、とくに敬語に注意して生活するようにする。
いまの家庭は、親子が友だちのようであるのが望ましいと考えられる。友だちは敬語を要しない関係である。こどもは家庭で敬語を身につけることができなくなってから、日本語は美しくなくなりはじめた。敬語の心は日本文化の中枢にはたらいていることを考えて、家庭でも、できるだけ敬語に注意するようにしたい。
美しい日本語を使おうなどと叫んでいるだけでは、次の世代によいことばを伝えていくのは困難である。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
よいことば、正しいことば、美しいことばによって、絶対語感がつくり上げられれば、こどもは一生の宝物を与えられたようなものである。それは、まわりの話しことばによるのであるから、文字中心の学校の教育は絶対語感にはほんのすこししかかかわりがない。それだけに、人の子の親となったら、こどもにすこしでも美しく、正しい絶対語感を植えつけられるように、ことばをつつしまなくてはならない。
◆絶対語感が荒々しくなってきた
『大人の言葉づかい』
( 外山滋比古、中経出版 (2008/3/26)、p206 )
まっとうな、一人前の人間なら、めいめい“絶対語感”というものができていなくてはいけない。
“絶対語感”とはなにかというと、その人のことばの基本、構造である。文法もふくまれていて、「あの人はりっぱな本に持っている」などということばきけば、立ちどころに、まちがっていると判断する。本人は、よほどのことがないかぎり、この自分の文法がどういうものか、自覚したり、それを書きだしたりすることはできない。
リズム、調子も絶対語感にふくまれる。関西の人が、東京ことばを異質なものと感じるのも、絶対語感の違いによる。
「食べられる」「着られる」「寝られる」という人の絶対語感は、「食べれる」「着れる」「寝れる」という人のそれとは異なっている。おかしいと思っても、違っている、と口に出していうことはむずかしい。以前から「ら抜きのことば」を正しいものとして用いてきた方言もある。
絶対語感はどうして習得されるか。
くりかえしくりかえしきく。そして話す。
やがて慣用ができる。
このことばの習性が、絶対語感と呼ばれる。
さらにこの習性は精神性を帯びるようになり、ことばが心に結びつくのも、絶対語感によってである。
よいことば、正しいことば、美しいことばによって、絶対語感がつくり上げられれば、こどもは一生の宝物を与えられたようなものである。それは、まわりの話しことばによるのであるから、文字中心の学校の教育は絶対語感にはほんのすこししかかかわりがない。
それだけに、人の子の親となったら、こどもにすこしでも美しく、正しい絶対語感を植えつけられるように、ことばをつつしまなくてはならない。
女子高校生たちが、大声で、
「テメータチ、メシ、クウノカヨー」などとさけんでいるのをきくと、この人たちがこどもをもつようになったら、まともなことばを使えるようになるだろうか、と心配になる。いくらなんでも、親になったら、まさか「テメー、ハヤク、メシクワンカ」などといったことばづかいはすまい。けれども、このあいだまで使っていたことばが、ことばである。急にやさしいことばがでてくるはずがない。どうしても、こどもの絶対語感も乱暴になる。実際、そういう若ものが、年々ふえているようで、ことに若い女性のことばが荒々しくなってきた。男性的になっている。これはけっして進歩ではない。
女性がむかしから、男以上に、“よいことば”を使うようにしつけられてきたのは、母親がこどものことばの主任の先生になることをふまえた庶民の知恵であった。
男だって、ことものことばの先生であるのは変わりがない。変なことばが絶対語感になってしまっているとすれば、こどもにとってたいへん大きな不幸である。
だからといって、急に、親が自分の絶対語感を改良することはできない。どうすればよいのか。見通しは暗いといわなくてはならないが、努力の余地がまったくないわけではない。
比較的、年齢が高くなってから固まる敬語の絶対語感を、改造、改良するのである。ただ、まわりで、正しい敬語を使う人がすくないのが現状だから、とくに敬語に注意して生活するようにする。
いまの家庭は、親子が友だちのようであるのが望ましいと考えられる。友だちは敬語を要しない関係である。こどもは家庭で敬語を身につけることができなくなってから、日本語は美しくなくなりはじめた。敬語の心は日本文化の中枢にはたらいていることを考えて、家庭でも、できるだけ敬語に注意するようにしたい。
美しい日本語を使おうなどと叫んでいるだけでは、次の世代によいことばを伝えていくのは困難である。