電脳筆写『 心超臨界 』

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デズモンド・ツツ

不都合な真実 歴史編 《 藤原(近衛)文麿というピエロ―—林千勝 》

2024-07-19 | 04-歴史・文化・社会
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近衛の真意は、実は、昭和天皇を廃して、藤原氏の筆頭として自らの覇権を打ち立てることにあったのです。そのために、共産主義者たちを利用して戦争を泥沼化させて大日本帝国を存亡の淵に陥れ、アメリカ軍をして皇軍を潰させるのです。皇軍を失い丸裸となり、かつ敗戦の結果として戦争責任を負う昭和天皇には退位して貰い、進駐してくるアメリカ軍を御しながら文麿が国の統治を担うのです。正に20世紀の「藤原道長」です。


◆藤原(近衛)文麿というピエ――林千勝

『日米戦争を策謀したのは誰だ!』
( 林千勝、ワック (2019/2/20)、p192 )

近衛が日本で果たした歴史的役割は、ルーズベルトがアメリカで果たした歴史的役割と似ています。詳しくは順を追って見ていきますが、近衛は、共産主義者や国際金融資本家と繋がりがある者たちを身近に登用します。共産主義者たちは日本破壊の推進役、国際金融資本系列の面々はそのサポート役です。近衛の知らぬことですが、彼らは近衛の監視役でもあります。従来あまり言われてこなかったのですが、共産主義者たちを政権中枢や政権周辺に招き入れたという点で、近衛とルーズベルトが共通点を持つということは大事な真実です。

但し、ルーズベルトと近衛では動機が違っていました。近衛は己の野望のために、ルーズベルトは国際金融資本のお抱え大統領としての役割を果たしていました。この日本における動きを、残念ながら「平和」の天使フーバーは全く気付いていませんでした。

後述するように、近衛は「自前で」昭和研究会という国策研究組織(シンクタンク)を持ちました。この点はルーズベルト以上の構えです。昭和研究会は共産主義者の拠点として人材を輩出していく、いわばアメリカ共産党のような役割を果たします。昭和研究会の主張は近衛内閣の施策に反映されていました。

ここで近衛の首相在任期間を確認しておきます。

彼は、支那事変勃発直前から真珠湾攻撃の50日前まで、正に戦前の激動期に日本の政治中枢を担いました。第1次近衛内閣は、昭和12年(1937年)6月から昭和14年(1939年)1月まで、第2次・第3次近衛内閣は昭和15年(1940年)7月から昭和16年(1941年)10月まで、通算では3年弱です。第1次内閣と第2次との間の1年半は枢密院議長でした。枢密院は天皇の諮問機関です。第1次近衛内閣の後継の平沼内閣には近衛自身が無任所大臣として入り、大部分の閣僚も近衛内閣からの留任、かつ内務大臣に近衛の盟友、木戸幸一が就任しました。平沼内閣も近衛色が強かったのです。

近衛は「国民的人気」を勝ち得ていました。首相就任時の年齢は初代の伊藤博文に次いで若く、家柄の点では下級武士上がりの伊藤とは比較にならず、更に180センチ近い長身で容姿は「貴族的な風貌」と評されました。彼に組閣の大命が下った時、狂喜した朝日新聞は次のように報じます。

「白面の青年宰相 わが内閣史上画時代的 四十七歳の近衛公 歴代老齢者をもって誇るわが内閣史上において、これは当年四十七歳(数え年)の青年宰相! まさに画時代的なことだ」

近衛内閣の下で起こった様々な出来事を並べてみます。

――支那事変は中国共産党による巧みに誘導された結果ですが、そもそも日本の北支那進出に肯定的であった近衛首相は、共産主義者である風見章内閣書記官長と共に事変拡大を扇動する声明を出し、陸軍や世論を煽りました。更に陸軍参謀本部の反対に抗して「国民政府を対手とせず」と声明し、事変拡大を予算面で手当てしながら、不拡大政策については不作為の連続でした。

首相肝入りの昭和研究会は、『朝日新聞』出身で近衛内閣嘱託として首相官邸内に部屋を構えた共産主義者尾崎秀美たちオピニオンリーダーを擁して、事変「完遂」の世論を形成しました。近衛首相は事変遂行の理念として「東亜新秩序」を謳い、更には東南アジア(南方)を指向して「大東亜共栄圏」構想を打ち出します。国家総動員法によって統制を強化して総力戦体制を確立すると共に、第2次近衛内閣成立後まもなく、三国同盟を締結して反英の枢軸陣営に入り、続いて大政翼賛会を始動させ、支那では汪兆銘政府を承認しました。陸軍が熱烈希求した日米和平のための「日米諒解案」はその謀略性もあってあえなく頓挫し、他方、対米英戦を想定して設立された「秋丸機関」の研究報告に基づいて勝利をめざす戦争戦略の原型がつくられました。「秋丸機関」の研究リーダー有沢広巳は、昭和研究会が発表した社会主義的な統制経済を企図する「日本経済再編成試案」の執筆者で、「秋丸機関」には他にも共産主義の学者たちが参加していました。

近衛首相は南部仏印進駐に同意して、米英蘭による資産凍結と対日石油全面禁輸を招来し、大東亜戦争の道を完成します。仕上げは、東條英機陸相に首相のバトンを渡したことです。東條陸相は最後の閣議で第4次近衛内閣を望む様子であったようですが、近衛たちは舞台裏に下がります。

これらの出来事がひとりの首相の下で起きたのです。大東亜戦争への道はイコール近衛内閣です。そして近衛自身は共産主義者ではありませんでしたが、多くの共産主義者たちを政権や政権周辺に取り込みます。近衛はとかく優柔不断であったとか、何かあるとすぐ病気になって寝こんだと語られています。そんな彼の真意は、実は、昭和天皇を廃して、藤原氏の筆頭として自らの覇権を打ち立てることにあったのです。そのために、共産主義者たちを利用して戦争を泥沼化させて大日本帝国を存亡の淵に陥れ、アメリカ軍をして皇軍を潰させるのです。皇軍を失い丸裸となり、かつ敗戦の結果として戦争責任を負う昭和天皇には退位して貰い、進駐してくるアメリカ軍を御しながら文麿が国の統治を担うのです。正に20世紀の「藤原道長」です。

近衛に関する同時代の証言として、真っ先に『鳩山一郎日記』が挙げられます。鳩山一郎は政友会で鳩山グループを形成する有力な衆議院議員で、戦後に総理大臣となります。同日記では、近衛の共産主義者利用に厳しい警鐘を鳴らし、昭和15年(1940年)11月1日に「コミンテルンの東亜に於ける活動についての報告を読む。近衛時代に於ける政府の施策すべてコミンテルンのテーゼに基づく、実に怖るべし」とした上で、近衛の策動から国体を護るため「一身を犠牲として御奉公」する覚悟を表明します。
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