電脳筆写『 心超臨界 』

人間にとって世の中で最もたやすいことは自らを騙すこと
( ベンジャミン・フランクリン )

日本史 古代編 《 駘蕩たる男女共演の文化——渡部昇一 》

2024-05-11 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


春の月は、いくら明るいといっても朧(おぼろ)月夜であり、しかも室内照明は皆無に近い。そこで物語りしながら徹夜する。男もいれば女もいる。和歌のやりとりがある。このような生活形態は、現代の若い者がいくらナウがっても、まだ及ばない生活であった。ヒッピーも及ばぬ、ヒップ(頭が進んでいて洗練されていること)な状況であったのである。しかも、それが宮廷なのであり、このような駘蕩(たいとう)たる雰囲気の中で、音楽や文学が身についたものとして栄えていた。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p243 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(1) 和歌に見る文化的洗練の達成

◆駘蕩(たいとう)たる男女共演の文化

今年(昭和48年)の5月ごろ、私は「文科の時代」という一文を雑誌に書いた(文藝春秋刊『文科の時代』所収)。これは現代というものが、武力や自然科学の値打ちによって妙なことになっていることを論じたものであった。

たとえば、「働けばよい」とか「新しい発明をすればよい」とか「より強い軍隊を作ればよい」とかいう今までの価値が疑われ出し、それが青年の考え方に微妙に影響している。ヒッピーや麻薬の話は陳腐になったが、アメリカの工学・科学のメッカで音楽の人気が急に出てきたり、またオカルテズムが流行したり、今までとは異質の現象が出て、生まじめな人(スクエアな人)を困惑させている。

しかし、このような新しい時代を迎えるには、日本人はそれに対する免疫が出来ていて、最も慌てないで対処できる民族ではないかと思っている。つまり、先祖のこと、平安朝のことを思い出せばよいからだ。その意味で平安時代の宮廷は、ひじょうにナウなところがあるのである。そのような点を思いつくまま、2、3、採りあげてみよう。

まず平安時代の宮廷は、武力のことは第二義的であった。平和は既定のこととされ、宮廷だから喰うに困らない。意識の当面にあるのは「愛」と「美」(特に和歌)であった。

まず「愛」の面において、日本の宮廷はまことに鷹揚であった。当時の雰囲気を示すために『百人一首』からエピソードを採ってみよう。

周防内侍(すおうのないし)の歌に、

  春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
  かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

というのがある。

周防内侍は、周防守平継仲(すおうのかみたいらのつぎなか)の娘であるが、長いこと女官として勤め、歌も上手で、なかなか幅が利いたらしい。

ある春の夜に、多くの人たちが夜明かしで物語りなどしていた。そのうち周防内侍が、ものによりかかり「枕もがな」(枕があればよいのですのに)と言った。そうしたら大納言忠家(だいなごんただいえ)が、御簾(みす)の間から腕を入れて、「これを枕にどうぞ」と言ったわけである。

そのときに即座に彼女が作ったのが上の和歌である。つまり「春の短夜(みじかよ)のほんのつかの間に、あなたの腕を借りたぐらいで、つまらない噂を立てられたんじゃ間尺に合わないわ」と言ったのである。

もちろん忠家も黙って引っ込まない。ただちに歌で答える。

  契(ちぎり)ありて 春の夜深き 手枕を
  いかがかひなき 夢になすべき

つまり「こういう縁があって手枕を貸すことになったのですから、絶対にこれきりにしませんよ」と言ったのである。

その後、この二人はどうなったかわからないが、このように調子よくいけば、関係があったと見てよいであろう。

しかし、それが隠しごとでないのだ。それは勅選(ちょくせん)集に堂々と載っているのであり、しかも勅選集に載ることは、当時の人にとっては文化功労賞か文化勲章をもらうぐらいの名誉なことであったと思われる。しかも、このような天下公知の歌を作った周防内侍は、のちに大和守義忠(やまとのかみよしただ)の妻になっているのである。「浮き名を流した」ことは少しも不名誉でなく、そういう女性と結婚した男は、おおいに自慢だったにちがいない。

忠家と周防内侍のエピソードは、けっして特別な出来事ではなかった。

春の月は、いくら明るいといっても朧(おぼろ)月夜であり、しかも室内照明は皆無に近い。そこで物語りしながら徹夜する。男もいれば女もいる。和歌のやりとりがある。このような生活形態は、現代の若い者がいくらナウがっても、まだ及ばない生活であった。ヒッピーも及ばぬ、ヒップ(頭が進んでいて洗練されていること)な状況であったのである。しかも、それが宮廷なのであり、このような駘蕩(たいとう)たる雰囲気の中で、音楽や文学が身についたものとして栄えていた。

それは18世紀のパリのサロンやハプスブルグ家の宴会にも匹敵すべき、ある意味ではそれ以上のものだったのである。というのはヨーロッパの18世紀の洗練・教養は、確かに文明の輝きではあったが、女性は文学にしろ、音楽にしろ、鑑賞したり、パトロンとなって助けるという、まだ受動的立場にすぎなかったのだが、わが国では女性自身が創造者として参加していた。ここでは、女官を裸にして、犬や羊と交接させて楽しんだシナの帝王たちの後宮のような趣味の悪さは考えられもしなかったし、ハレムのような文明的な乾上(ひあ)がり状態もなかったのである。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 向上心 《 “地の塩”になる生... | トップ | 悪魔の思想 《 加藤周一=売... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事