電脳筆写『 心超臨界 』

憎しみを鎮めるのは憎しみではない
愛のみによって鎮まるのだ
それが永遠のルールである
( お釈迦さま )

◆東京裁判史観——東京裁判が歪めた戦後の歴史観

2024-11-21 | 05-真相・背景・経緯
§5-2 WGIP——GHQが推進した精神劣化政策
   WGIP;War Guilt Information Program(戦争犯罪情報宣伝計画)
◆東京裁判史観——東京裁判が歪めた戦後の歴史観


敗戦から、東京裁判が終結し戦犯の死刑が行なわれた昭和23年(1948)の暮までに、いわゆる東京裁判史観は、戦後の日本の思想と教育の大筋となってしまった観がある。しかも、日本がサンフランシスコ平和条約を調印した昭和26年(1951)の秋までは公職追放令が有効であったから、東京裁判を批判する声はないといってよかった。


◇東京裁判が歪めた戦後の歴史観

『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p399 )

日本が敗れた時、ビスマルクがオーストリアやフランスに対するごとく、アメリカが対等の態度で日本に対する、ということは期待しがたいことであったにしても、極東軍事裁判(東京裁判)は、やるべきでなかった。

これによって、日本は犯罪国家としての烙印を押され、戦前の日本の国際的行為が、すべて悪行のごとき印象を国の内外に残すことになった。

終戦直後の占領軍の権限は、絶大であって、しかも戦争犯罪人容疑者が逮捕されたり、広汎な公職追放が行なわれていたため、東京裁判は天下の正論として通用した感がある。そして、東京裁判を国際裁判として肯定するかのごとき破廉恥な、曲学阿世の論を述べた国際法学者が東大教授になったり、また、司法の最高の地位に上がる時代であった。さらに、この裁判の検事側証人として登場した左翼系の学者たちが、日本の学界の主流を占め、その方面で権威のある書店や、大新聞の論調を大幅に決定した。しかも、当時の占領軍の言論の検閲は、戦前・戦中の日本政府の検閲よりも悪質で徹底したものであったから、新聞なども甚だしい自己規制をやっていたのである。

このようなわけで、敗戦から、東京裁判が終結し戦犯の死刑が行なわれた昭和23年(1948)の暮までに、いわゆる東京裁判史観は、戦後の日本の思想と教育の大筋となってしまった観がある。しかも、日本がサンフランシスコ平和条約を調印した昭和26年(1951)の秋までは公職追放令が有効であったから、東京裁判を批判する声はないといってよかった。

東京裁判史観は、日本の言論界やマスコミや著述業界における一種のエスタブリッシュメント(思想的権威)となり、これを批判することはタブーとなった。そのうえ、その史観で教育を受けた者は、それを信じこんでいた。東京裁判史観は左翼政党の熱狂的に支持するところであるから、その影響下にある教員組合を通じて日本の児童・生徒の頭の中に、この史観が注ぎこまれた。

最も有力な大学の法学部教授たちが東京裁判史観を説けば、その出身者の少なからざる者は、その史観を持ったまま、高級官僚になり、司法官になる。そして、その史観に基づいて一度発言したり論文を書いた人は、それにコミットしてしまうのだ。

素人(しろうと)ならば、もっと説得力のある意見や発言を聞けば、こだわりなく見解を変えるが、専門家と称する人たちは、その切替えが、かえってできがたいのである。

もう一つ、東京裁判の結果に信憑性を与えたのは、その記録の厖大さであろう。日本語に翻訳された裁判記録でも、ほとんどワン・セット十数巻の百科事典ほどの分量で、私は1セットを買い求め関係部分を精読したことがある。一般の読者にそう簡単に読めるものではない。また、その審判の過程においては、連合軍の権力を背景にして証拠の蒐集や証人の喚問が行なわれたため、個人の歴史家などの調査力の及びもつかぬ調査が行なわれた、と信ずる根拠があった。

しかし幸いに、この東京裁判という批判を許さぬ大城郭に、その土台から崩すような大亀裂を入れてくれた人がいた。

それは、この裁判のインド代表裁判官であるパル判事である。彼の判決書は、東京裁判をも東京裁判史観をも、ぶっ飛ばすメガトン級の爆弾であった。

しかし、彼の判決書は法廷でも朗読されず、また、講和会議締結までは占領軍によって公刊を禁じられた文書であった。それは、占領政策に有害なものであるという理由からであったが、それほど、この判決書にはパワーがあるのである。

パル判事はインドの豊かならざる家庭に生まれたが、奨学金によって大学に進み、数学を研究し、数学教授となった。カルカッタ大学では卒業まで、つねに首席だったという。その後、さらに法学の研究を始め、法学博士となり、カルカッタ大学のタゴール教授という名誉ある地位についた。昭和12年(1937)にヘーグで開かれた国際法学会の総会では、その議長団の一人に選出されている。カルカッタ高等法院判事、カルカッタ大学総長を歴任したが、東京裁判のインド代表判事として、ネール首相に指名されて来日したのである。東京裁判の裁判長・判事11名、うちただ一人の国際法専攻の法学博士だったそうである(彼の伝記的事実は、田中正明『パール博士の日本無罪論』慧文社・昭和58年による)。

日本に来てからは、裁判終了までの2年8ヵ月の間、宿舎のホテルと市ヶ谷台の法廷を往復するほかは、一切の娯楽を求めず、他の同僚判事との交際をも断ち、ホテルに閉じこもりきりで、厖大な証拠書類や参考資料を検討、研究した。

彼は、後に自ら当時を振り返り、

「私は、1928年(昭和3)から45年(昭和20)までの歴史を2年8ヵ月かかって調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った……」(昭和27年=1952年11月6日広島弁護士会における講演)。

この言葉に、嘘はないであろう。つまり、東京裁判の全体について、彼ほど広く精(くわ)しく調べた人はないと言ってよいのである。この『パル判決書』を中心として、日本人として――また世界中の人が――知っておくべきことを、思いつくまま列挙してみよう。

  『パル判決書』は、講和条約締結後間もなく、『日本無罪論』(田
  中正明編・太平洋出版社・昭和27年。新版は慧文社・昭和58年)
  として出されている。

  判決書全文は、『パル判決書』(上・下、講談社学術文庫・昭和5
  9年)に収められている。これは朝日新聞法廷記者団と東京裁判研
  究会同人の刊行である。

  この『パル判決書』の理解を助ける読み物としては瀧川政次郎『新
  版・東京裁判をさばく』(上・下、創拓社・昭和58年)、清瀬一
  郎『秘録・東京裁判』(読売新聞社・昭和42年)、富士信夫『私
  の見た東京裁判』(上・下、講談社学術文庫、昭和63年)などが
  ある。
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