電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ひとつひとつ
ひらいていった
『随筆集 念ずれば花ひらく』
( 坂村真民、サンマーク出版 (2002/3/13)、p11 )
足利紫山(しざん)師(安政6年生まれ、昭和34年101歳にて示寂)に相見したのは、老師93歳のときであった。そして「夢」という墨跡をいただいたのは、老師97歳のおん時であった。それ以来この一字を床に掲げて礼拝してきたわたしの瞼に、何かと浮かんでくる、夢のような美しい思い出のいくつかがある。その一つは、まだ幼いわたしをおんぶした母が、田んぼの中にある共同墓地に入っていき、「乳が多くて、乳が出すぎて」といいながら、乳も充分飲めずに死んでいった童男童女の墓石に、白い温かい乳をしぼってはかけ、しぼってはかけて拝んでいる母の姿である。体格のよかった母は、わたしの妹に飲ませて、なおあまるほど乳が出ていたのだろうと思う。本当にたらちねのははという歌詞(うたことば)そっくりの、大きな乳であった。
父は40の厄を越えきらず亡くなったが、遺された5人の子たちは、この母の念力で、大きな病気ひとつせず育った。
母は36歳で未亡人になった。それから母の悪戦苦闘の歴史が始まったのであるが、わたしの読んだ『女の一生』という本と同じように、母の一生も多事多難の連続であった。
「念ずれは花ひらく」――これは、そうした母の念仏といってもよい自己激励の言葉であり、また遺言どおり5人の子たちを育て上げようとする、悲願の念誦(ねんじゅ)であったであろう。
その頃わたしたちの仏さまは、父の「のどぼとけ」であった。それは美しいのどぼとけであった。この舎利仏に、わたしは花をあげ、明かりをともし、香をたき、毎暁お水を供えて礼拝してきた。それは長男でありながら、死に目に会えなかったわたしに、母がいいつけた務めであった。わたしの詩に
念ずれば花ひらく
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ひとつひとつ
ひらいていった
というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ひとつひとつ
ひらいていった
『随筆集 念ずれば花ひらく』
( 坂村真民、サンマーク出版 (2002/3/13)、p11 )
足利紫山(しざん)師(安政6年生まれ、昭和34年101歳にて示寂)に相見したのは、老師93歳のときであった。そして「夢」という墨跡をいただいたのは、老師97歳のおん時であった。それ以来この一字を床に掲げて礼拝してきたわたしの瞼に、何かと浮かんでくる、夢のような美しい思い出のいくつかがある。その一つは、まだ幼いわたしをおんぶした母が、田んぼの中にある共同墓地に入っていき、「乳が多くて、乳が出すぎて」といいながら、乳も充分飲めずに死んでいった童男童女の墓石に、白い温かい乳をしぼってはかけ、しぼってはかけて拝んでいる母の姿である。体格のよかった母は、わたしの妹に飲ませて、なおあまるほど乳が出ていたのだろうと思う。本当にたらちねのははという歌詞(うたことば)そっくりの、大きな乳であった。
父は40の厄を越えきらず亡くなったが、遺された5人の子たちは、この母の念力で、大きな病気ひとつせず育った。
母は36歳で未亡人になった。それから母の悪戦苦闘の歴史が始まったのであるが、わたしの読んだ『女の一生』という本と同じように、母の一生も多事多難の連続であった。
「念ずれは花ひらく」――これは、そうした母の念仏といってもよい自己激励の言葉であり、また遺言どおり5人の子たちを育て上げようとする、悲願の念誦(ねんじゅ)であったであろう。
その頃わたしたちの仏さまは、父の「のどぼとけ」であった。それは美しいのどぼとけであった。この舎利仏に、わたしは花をあげ、明かりをともし、香をたき、毎暁お水を供えて礼拝してきた。それは長男でありながら、死に目に会えなかったわたしに、母がいいつけた務めであった。わたしの詩に
念ずれば花ひらく
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ひとつひとつ
ひらいていった
というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。