電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

念ずれば花ひらく――坂村真民

2024-05-26 | 06-愛・家族・幸福
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  念ずれば
  花ひらく

  苦しいとき
  母がいつも口にしていた
  このことばを
  わたしもいつのころからか
  となえるようになった
  そうしてそのたび
  わたしの花が
  ひとつひとつ
  ひらいていった


『随筆集 念ずれば花ひらく』
( 坂村真民、サンマーク出版 (2002/3/13)、p11 )

足利紫山(しざん)師(安政6年生まれ、昭和34年101歳にて示寂)に相見したのは、老師93歳のときであった。そして「夢」という墨跡をいただいたのは、老師97歳のおん時であった。それ以来この一字を床に掲げて礼拝してきたわたしの瞼に、何かと浮かんでくる、夢のような美しい思い出のいくつかがある。その一つは、まだ幼いわたしをおんぶした母が、田んぼの中にある共同墓地に入っていき、「乳が多くて、乳が出すぎて」といいながら、乳も充分飲めずに死んでいった童男童女の墓石に、白い温かい乳をしぼってはかけ、しぼってはかけて拝んでいる母の姿である。体格のよかった母は、わたしの妹に飲ませて、なおあまるほど乳が出ていたのだろうと思う。本当にたらちねのははという歌詞(うたことば)そっくりの、大きな乳であった。

父は40の厄を越えきらず亡くなったが、遺された5人の子たちは、この母の念力で、大きな病気ひとつせず育った。

母は36歳で未亡人になった。それから母の悪戦苦闘の歴史が始まったのであるが、わたしの読んだ『女の一生』という本と同じように、母の一生も多事多難の連続であった。

「念ずれは花ひらく」――これは、そうした母の念仏といってもよい自己激励の言葉であり、また遺言どおり5人の子たちを育て上げようとする、悲願の念誦(ねんじゅ)であったであろう。

その頃わたしたちの仏さまは、父の「のどぼとけ」であった。それは美しいのどぼとけであった。この舎利仏に、わたしは花をあげ、明かりをともし、香をたき、毎暁お水を供えて礼拝してきた。それは長男でありながら、死に目に会えなかったわたしに、母がいいつけた務めであった。わたしの詩に

念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ひとつひとつ
ひらいていった

というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。
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