ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

宇宙の構造3

2008-11-08 07:37:19 | 精神世界

さて、宇宙が「神界」「天使界」「星辰界」「四大界」というそれぞれの階層で成り立っており、星辰界にはそのなかにまた恒星天球、土星天球、木星天球、火星天球、太陽天球、金星天球、水星天球、月天球があり、四大界のなかにはまた風、火、水、地の天球があるのだ、ということまでが古代宇宙論、すなわちカバラ的見解です、というのが前日でした。


今日はそれを体感する方法です。

それはやはり、瞑想でした。

まず、自分の周りから一切のものを消してしまうように思い浮かべます。

目をつぶって、自分の前に情景を思い浮かべ、それが闇のかなたにすっと消えていくと考える。

次は自分の後ろに何があるかを想像し、それが闇のかなたにすっと消えていくと考える。

それから自分の右のほう、左のほう、上のほう、最後に自分の立っている地盤そのものがすっと消えていき、自分はこの虚空の真ん中にいる、と考える。

この闇を考えられる限り大きく膨張させ、想像できない限界まで広げます。

これが旧約聖書での創世記第一2節の「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」という状態だといいます。

次に、突然、天頂、つまり一番高いところから「光あれ!」という神の声が聞こえ、1点の光が出現したかと思うとたちまち真っ白な雲になり、そのなかから一羽の白い鳥があらわれて、大きな光の軌跡を描きながら、回り始めるのをイメージします。

第一回目には、白い鳥は天頂から右に向かって円形に下降し、地底、つまり地の一番低いところを抜けると左に向かって登り、再び天頂に達します。

2
回目には、白い鳥が天頂から後ろに向かって円形を描きながら降り、地底からは前に向かって上昇し、再び天頂に達します。このふたつの輪は天頂と地底で交わっているはず、ということになります。

3
回目は白い鳥はするするっと二つの輪の中央まで降りてきて、今度は赤道を描くように水平に回る。そしてこの3つの光の輪の中心に自分が居ると言うことを確認する。


この3つの円は、互いに3次元に直角的に交わっている。

そしてこれが「最高天球」だというのです。

これが燃えて輝くところを思い描く。

天球の内側と外側の闇の区別をきっちりとする。

すると、ここ! ここで私はコペルニクス的転換でびっくりしてしまったのですが、ここまでの瞑想ができると闇の塊の間から光がもれて見えるような感じになり、それはまさに満天に星空をちりばめた夜空のようになり、星というものが燃え盛る光の炎の一部が闇を通して透けて見えるものだった、と言うことに気づく、というのです!

これってびっくりじゃな~い!

星がひとつひとつの「星」という物体ではなくて、その向こうに燃え盛っている炎を闇がベールのように覆っていて、そのところどころのほころびのようなところからもれる光だったなんて!

つまり、星は11個の独立した存在ではなくて、その向こうにある巨大な燃え盛る光の穴だったってことなわけで・・・

これってこの通りだとするなら
ものすごい発想の転換を強いられるよね~

この瞑想が難しかったら、夜空をみあげて、恒星の光はこの最高天球から発した光が内側の闇をかいくぐっておりてきたものと考えるようにすると誰でも最高天球が実感でき、気が楽になるというんですが・・

私もこの瞑想をイメージしてやってみよう、と思ったのですが、もう本を読んじゃってどうなるといいのかがわかってやってもそういう結論を先にイメージしてしまう自分がいるだけで、ごく自然にそれがイメージされる、というか自分のなかの原始的感覚が呼び覚まされてそのほうが自然だ、とは思えなかったですね。

まだまだ修行が足りないんでしょうが。

この擬似体験的なものにキャンドルを利用したものがあります。

キャンドルの灯りの真ん中からちょっと焦点をずらして灯りの周りをよく見るととても淡いものだけれどうっすらと緑や青や紫の光が幾重にも同心円状に取り巻いているのがわかります。(これはすぐに誰でもわかると思います)


それを90度角度を変えたところから見てみます。やはり同じように光の同心円が見えます。

360度どこから見ても同じ立体的な同心円が確認できます。

つまり球がいくつも入れ子になっている状態。

そう、これこそが小型の天球宇宙だ、というのです。

キャンドルが単なる灯りではなく、それが天界の秩序を現す宇宙モデルだなんて、すごい発見です!

世界中どこでも死者に灯明をささげる習慣があるけれど、これも死後に赴く天界の構造を明示し、そこに無事にたどり着けるように導いているものだそうです。これもすごい発見!

モノには何でも深い意味があるなぁ、と感動しきりです。



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宇宙の構造2

2008-11-07 06:52:37 | 精神世界

さて、宇宙の構造が近代科学に基づくものではなくて、カバラでは古代宇宙論を採択している、と言う話でした。


今日は、具体的にどのような構造で成り立っていると言っているのかをご紹介いたします。

カバラでは宇宙の果てまで何もない、音もなければ光もない、色もなければ形もない、果てしない闇のなかに「最高天球」があると考えます。

この球体は燃えて輝いているために「炎上天球」とも呼ばれます。

最高天球は燃えて光を放ち、輝いており、それは球体の外側に向けて行われていると考えると、球体の中身は闇となります。

そこはとてつもない力が充満していて、自分自身の始末がつかない状態で振動しています。つまり、天球の外側には果てしない闇が広がっていますが、内側は天球に沿って輝く光と、中心の闇とがせめぎあっている状態だといいます。

この最高天球は天使たちの棲家で「天使界」と言います。

天使界の外側、つまり、光と闇の共通の源泉、それが「神界」です。

つまり、神が最初に創造した光の世界が天使界であった、というわけです。

そして、その内側で光から遠ざかる度合いに応じて「星辰界」と「四大界」があります。

「星辰界」は上から順に恒星天球、土星天球、木星天球、火星天球、太陽天球、金星天球、水星天球、月の天球が入れ子となって重なっており、それぞれ異なった比率で回転しています。このうち恒星天球だけがほかの7惑星と逆の回転をしているそうです。

一方、「四大界」のほうには火の天球、風の天球、水の天球、地の天球があります。

そして近代人の使っている地球と言う言葉は、古代人の四大界に相当します。

地球のうちには地ばかりでなく、水も風も火も含まれるからです。

地の天球だけでは生きていない、そのまわりには水の天球と風の天球が取り巻いており、地殻や海や川、雨や雲などの水圏に取り囲まれ、さらに風の天球に相当する大気圏に包まれているからです。そして火の天球はオゾン層と呼ばれているものに相当するらしく、星辰界からエーテルを取り入れ、一方、四大界の穢れから星辰界を守っている保護膜のような働きをしている、一種の守護霊のようなものだそうです。

しかし、四大界を単なる物質世界のコトね、とみなしてはいけないそうで、地殻、水圏、大気圏、オゾン層は惑星としての地球がもっている地水火風の対応物ではあるけれど、そのような科学的に観察可能な領域だけを四大界というわけではない、とのこと。

地の天球とは物体、あらゆる有機物、無機物の領域と考えられているけれど、実はそうではなく、大地のもっているある不可視の力の影響圏内を意味するのです。その影響圏内のことを古代人は人格化して「妖精たちの影響圏内」としました。

地の精を小人の姿であらわしたグノーメー、水の天球はウンディーネ(水の精)、風の天球はシルフェ-(風の精)、火の天球はサラマンデル(火の精)の活動する範囲としたのです。


つまり、地水火風の四大界を単なる物質界だとすると、それだけでは生物は生まれない。月から上の星辰界からエーテルを介してある波動を受け取らないと、地上の生物は生まれることも生きることも出来ない。その働きを古代人は妖精の活動と見たのです。

火の天球の上にはアメジストのような色をした透明な月の天球が重なっており、一定の回転比率で回っている。目に見える月が軌道を描いて地球の周りを回っているのではなく、目に見えない月の天球が回転し、私たちが三日月や満月だと言って見る月はこの月の天球の一角に張り付いているに過ぎない。(!)

そしてその上を覆うように、薄い橙色の水星の天球が重なっており、この天球はわれわれの知性、思考、言語、情報に関わっている。

その上にはかすかな緑色の金星の天球があり、そこから私たちの情念、愛情、快楽、美意識は大きな影響を受けている。その上は淡い黄色の太陽の天球で、ここからは活力、想像力、個性、自己意識がやってくる。

透けるような赤い火星の天球からは意志力、行動力、主導権、達成感がやってきて影響を与える。

青い紗のかかった木星の天球からは膨張、拡大の気運がやってくる。向上心に富み、常に理想を追う人はこの天球に感応する。

一方、うっすらと黒い土星の天球は凝縮、抑制の力が働いており、現実化に向けて地道な努力をさせる。

この7重の惑星の天球を、抜けるような高みから恒星の天球が取り巻いている、というのです。

ここの記述だけからも、色彩が私たちに与える心理的な影響がいかに根源的なものであるかがわかります。

そして、地水風火がまさに「生命の木」の源になっていることにも気づかれたかと思います。

どうしてこのように最高天球から四大界までのことが見てきたようにわかるんだよ? どうやってそれが実証されてるわけ? と言う疑問が当然わきあがりますよね。

そもそも古代宇宙論は、科学的でないものなのですからそれに説明をつけようとした前日のジョン・スチュアート・ミルの提唱はあてはまらないわけで、実証しろ、と言われてもできないものなのでしょう。

しかし、それを体感することは可能なようです。

まさに見てくることができるわけです。

自分が宇宙の中心なのだから、自分でそれは体感できる、というのがカバラの考え方です。そもそも知識ではなく、体験で得ていくのがカバラなのだそうですから。

その方法についてはまた後日ご紹介いたしましょう。

私はこれでそれこそコペルニクス的見解といいましょうか、天と地がひっくり返るくらいびっくりした理論にであいました。




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宇宙の構造

2008-11-06 07:37:01 | 精神世界

さて以前にカバリストはそもそも現在の宇宙論を信じてはいない、ということをちらっとこのブログに書きました。ビッグバンによって宇宙ができたということをカバリストは信じていないというような表現で書いたように思います。(全員のカバリストがそうなのかどうかは定かではありませんが、その根本の原理に根ざしているところを考えるとたぶんそうでなくてはカバリストにはなれないだろう、と思われます。)

そして、機会があればそれがどういう原理なのかをこのブログで書きます、と言いましたが、私自身が理解しきっていないということもあり、上手に表現しないとただの突拍子もないたわごとのように聞こえてしまうので、躊躇していました。

だけど、ここで書くことも私のひとつの気づきであり、勉強でもあるので、今日はそれを取り上げてみたいと思います。

まず、そもそも1543年にコペルニクスが地動説を提唱して、宇宙の中心を地球から太陽に移しました。このコペルニクスの地動説が長年、宇宙を解き明かした「実証された事実」として受け入れられてきたわけですが、ビッグバンによって宇宙ができて、ひとつの銀河系以外にもたくさんの銀河系によって宇宙は成り立っており、宇宙はどんどん膨張しているので宇宙の果てという話になるとよくわからない、というのが今の宇宙論だと思います。それをまた「実証された事実」とするならば、太陽も宇宙の中心とはみなされていないわけで、では、中心がどこにあるのか、というと現在の宇宙論では特定の場所に万物の座標を定める原点を措定することはできなくなっているわけです。

このために現代宇宙論は物質レベルの解明には長足の進歩をとげたけれど、その中身の解明となると空っぽになってしまった、というのがカバリストの意見です。

わかりやすく言うと、卵の殻を指して誰もそれを「卵」という実体として定義するわけではなく、中身の白身と黄身のことを卵と言っているのだ、と思いますが、今の宇宙論は卵の殻を指して「宇宙が解明できた」と言っているにすぎない、というわけです。

この真偽のほどはともかくとして(は!? そこが一番重要なとこじゃないのかぁ?という声が聞こえてきそうですが、ま、ま、抑えて抑えて)、現代宇宙論が卵の殻ばかりそなぞっているせいで、人間の内面性との連携を失い、宗教や道徳との繋がりも失ってしまった、一方、宗教や道徳も宇宙論的な基盤を失い、その結果、誰もが人生の原点と目標を設定できずに混迷している、というのが現代社会だ、と言われるとなるほどぉ・・と思ってしまいます。

そうでなくても、私たちが暮らしている現代社会においても生活に密着した考え方をすれば、天動説より地動説のほうに無理があるような気がしてきます。

例えば、毎朝、太陽が東の地平線から昇り、西に沈むことには誰も疑問をもっていない。(違う、と言うのはバカボンのパパだけでしょう。)

つまり、毎日の生活のなかでは大地は不動で、太陽が天空を一巡することが1日だ、と考えるほうが無理がないわけです。

そして、ここからが本論ですが、カバラーでは「宇宙はホロン構造でできている」というのです。

ホロンとは全体子という意味で、あるものの全体を構成する各部分がそれ自体、全体と同じ構造を持っている場合、その同じ構造をホロンと言います。


一番わかりやすい例として遺伝子をあげています。

人間の体はおよそ60兆個の細胞から成り立っているといわれているけれど、その細胞の一つ一つは同じDNA構造を持っています。つまり、全体を構成する元型がどの部分のなかにも浸潤しており、どんな小さな切片を取り出してみても、そこに小型の全体像が特定のパターンとして保持されているのがみてとれるわけです。

したがって、一部分を認識すれば全体の把握が可能であり、逆に全体を把握していれば、どんな細部の本質も認識することができる。全体と部分はオクターブのように階層を異にした対応の原理で結ばれている、という説です。

だから、カバラーでは、世界のどこを切断してみても、どこを抽出してみても、常に同一のパターンまたはパラダイムを見出すことが出来る、と考えるのです。

具体的に宇宙がどういう構造をしているか、というと宇宙の中心は自分自身なのだ、ということです。

ここでいきなり、はぁ?となってしまった人も多いでしょうねえ・・

せっかくここまではかなり論理的に進めてきたのに、いきなり科学の話から哲学の話にすりかえられてしまったかのようなインチキくささを感じてしまったかもしれません。(実は私がそうでした。)

だからこの部分の説明についてはもう少し時間をかけて丁寧にしたいので、ここから先は後日にしたいと思います。

しかし、実際の生活感覚と現代の最先端と言われる宇宙論がどうもかみあっていない、というのはおわかりいただけたのではないでしょうか?


もっと説明すると、私たちは今、この世には等質の時間と空間がくまなく行渡っていて、時間と空間に関してはどの国で暮らしている人も皆平等だ、と思っているのではないでしょうか?

しかし、これは19世紀にイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの唱えた科学方法論上の要請にすぎない、ということです。

彼は実験や観察から自然法則を帰納する近代自然科学の方法論に根拠を与えるために、帰納法が成り立つ要件として、自然は同じ状況の下では同じ現象を引き起こす、ある普遍的で永遠なる秩序を保っていると前提することが必要だと主張したのです。


はぁ~? 難しいね。

ただ、これだけはわかりますよね。これを唱えたのが科学者ではなく、哲学者であったということ。それも彼はひとつの仮説を元に、つまり近代自然科学が正しいと仮定するならばこういう前提が必要ですよね、と哲学者の立場から唱えたにすぎないわけです。


こんなあやふやなことのもとに自然の斉一性が成り立っていたなんて、驚きではないですか!?

このジョン・スチュアート・ミルの提唱の後、近代人は古代宇宙論をとても胡散臭く感じるようになってしまったのだけれど、カバラーでは古代宇宙論の方が正しい、と言っているわけです。


古代宇宙論では宇宙のどこででも時間や空間は同じものではない、としています。古代宇宙論ではいくつもの天球があると捉えており、それがまたいくつもの階層を織り成していると考えているので、心理的にも肉体的にも別の影響力を人に与えている、と考えているのです。

例えば、満月の夜は殺人が多い、という実際のデータもこれに基づけば、月という天球がその時点では特別な質を与えているから起こりえることなのだ、と捉えたほうが納得がいきませんか?

近代科学では、物理学上の時間は一定の時の間隔という量をあらわし、特定の時点の質は問題にしません。たとえば、ある現象が3時間かかると言うことは問題にしても、それが昼の3時からの3時間だろうが、夜中の3時からの3時間だろうが関係ありません。

しかし、実際には私たちにとって昼の3時間と夜の3時間は全く異なった時間でしょう。人間だけではなく、あらゆる生物にとって、この二つの3時間は生理的にも意識的にも全く違った作用をします。つまり、生命にとっての時間は決して均一ではなく、一刻一刻違った質をもっています。

古代宇宙論では刻々と質を変える時間を宇宙論を考える上で大切にしているのに対して、近代科学ではその差異を全く無視し、時間の量、つまり長さだけを問題にする。

時間という自然を記述する根本的観念がこんなに異なっているので、近代科学からみると古代宇宙論は迷信の塊のようにみえてしまうのだ、というのがカバリストの論です。

なんだか納得させられてしまう私がいるのですが、皆さんはどう感じましたか?

では、後日に具体的に宇宙がどういう構造をしているとカバラでは言っているのかをご紹介しますね。



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信頼

2008-11-05 07:46:08 | オーラソーマ

今日から私が新たに使うことになったボトル、76番「トラスト」、つまり「信頼」というネーミングのボトルです。


76_2 このボトルを2番目に選んだということは・・

今の私に何を信頼する力が欠けているんだろう?・・

誰かを信頼すること?

自分自身を信頼すること?

はたまた自分自身の人生のあるべき道筋を信頼すること?

などということをとつとつと考えていますと、ふとこんなことを思いました。

「信頼」と言う字は、「信じて、頼る」と書きます。

自分を信じることはなかなか難しいとしても、私は、私の周りの人たちのことは信じています。

しかし、「頼る」ことをしていたか、というとどうも違う。

真逆に近い。

なるべくならヒトに頼らずに自分だけで完結すればそれにこしたことはない、と今まで生きてきたし、そういうつもりで生きていると大概のことは自分で完結させることができるので(どの程度の時点で、まっ、いいかにするかは別としても)、ほとんど考えてみるとヒトを頼ったことがない。

その最たるものが親です。

私の歴史は、いかに親に頼らずに生きていけるようになるかの闘いでもあった、と言っても過言ではないくらいです。

小さい頃は、「親に頼らずに一人で勉強できるように」塾に通ったり・・

思春期の頃は「親に頼らずに一人で精神的な悩みを解決できるように」本を読んだり・・

成人してからは「お金の問題だけは親に頼らずにすむように」それだけを考えた仕事を選んだり・・

今でも親に頭を下げてお金を借りるくらいなら、サラ金に手を出して首をくくることになったほうがましだ、と思うくらい私にとってそれはご法度なことなんです。

だけど、「頼る」と「寄りかかる」コトとは違うよなあ。

「寄りかからずに、でも、あなたのことを頼りにしてるよ。頼もしいと思ってるよ。」ということはいくらあってもいいよなあ。

私は上手に、ヒトに「あなたのことを頼りにしてるよ。」という態度を表すことがヘタだったように思います。

それが、この76番を使って、何か変化があるといいなあ・・

そんなことを思いました。


そんなことを考えながら、「新ネーミングオブザボトル」の76番のところを読んでみると・・ふ~む、相変わらず難しいことが書いてあるわ。

「ピンクのエネルギーがゴールドとつながるところが、信頼と呼ばれるのは、もし私たちがインカネーショナルスターに、真のオーラに、信頼すれば、そして私たちが配慮と気づきをゴールドの領域にとどめておくことが出来れば、それが私たちが世界に持つ信頼の要素を増します。」

つまり、配慮と気づきというのはピンクの領域だけれど、それをインカネーショナルスター、つまり私たちがこの世に肉あるものとして生を受けたところにしっかりと腹におさめれば、より何事をも信頼できるようになるってことかしら・・

逆に言えば、配慮と気づきはそれほどまでに本当の意味では腹に落ちないものなのかしら・・

まだ、続きます。

「もし、私たちが自分を信頼すれば、人も信頼できるようになります。もし、自分を信頼しなければ、誰も信頼することが出来ません。」


これは比較的手垢がついた表現だけれど、やっぱ、自分が先かぁ。

私は「条件付」であれば自分を信頼できているけれど、「無条件に」信頼できているかなあ・・

まだまだ続きます。

「信頼は手に入れにくいものです。ここに関連する1つのことは、私たちのもっとも深いところにある恐怖に直面することです。この恐怖に直面する唯一の方法はピンクを通してです。『愛は、恐怖を手放すことです。』私たちが、意識のマインドで本当の愛に至るとき、自己の深みにある恐怖を手放すことを許します。そして、それが信頼の表現です。」

愛は、恐怖を手放すこと、かぁ・・

確かに恐怖があるから、なにかにしがみつきたくなり、しがみついていることが愛だと勘違いしていることが多いのかもしれない。

例えば、いつ今までどおりの仕事があるかどうかわからないという生活の不安。

そんな経済の不安がひとりでいることの恐怖を感じさせ、ふたりで渡れば赤信号も怖くない、とばかりにふたりでいることにしがみついていることが愛だと勘違いしているだけなのかも・・なんて。

確かにそんな恐怖を全部手放してしまえれば、それでも残るものに本当に愛や信頼を純粋に感じることができるのかもしれない。

う~ん、でも難しいよねえ。

恐怖を手放しながらも精霊のように生きていけばいいわけではなく、インカネーショナルスターにちゃんとこの世に地に足つけて生きていく人間としての正をまっとうするんだぞ、と言い聞かせなければならないし。


この世で生きていく、ということは、アンビバレンスなことを上手にバランスを崩さずに自分の足ですっくと立つ、ということなんでしょうね。

あ、そうか。

オーラソーマってそもそも「バランスを取り戻すこと」そのものだった。

だから、そりゃそうなんだろうね。

だけど、言葉でわかってもそれこそ腹に入って理解できるようになるには大変なことでしょうねぇ。


76番を使って、どの程度ふに落ちるか、楽しみです。




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76


ちょこっとお出かけ4

2008-11-04 08:14:17 | まち歩き

彦根に行ってきました。

ダーリンが前にこの地を仕事で訪れたことがあって、もう一度行ってみたい、と言ったからです。

彦根はいまトレンドの天障院篤姫にもかかわってくる井伊直弼の居城ということもあり、「開国150年祭」でにぎわっていました。

002 城内の敷地に入るとすぐに時期的なこともあって、菊の展覧会も行われていました。

彦根城に行ってみました。001

彦根城は敷地がとても広く、そして結構アップダウンがきつくて散策するにもいい運動になりますね。

入り口で「ご自由におつかいください。」と杖が置いてあったので、私は何もそこまで年寄りでも足腰が不自由でもありゃしませんが、そいつぁ、あれば便利かな、ぐらいのキモチで手に取ったところ、どんなじいさんばあさんでも杖を使っている人なんていやしないじゃないの! 恥ずかしいったらありゃしない。こうなったら、足が不自由なフリをするしかないかしらんと思って、いかにも「私にはこの杖が必要なんです」的な歩き方をしていたら、本物のばあさんになったような気がしてきました。いかんいかん。

モノが人をつくる、という例ですね。すっかり、ばばくさくなってしまいました。

003 井伊直弼の開国にまつわる展示会も入場無料で行っており、拝見してまいりました。

井伊直弼が桜田門外の変で死んだのって、45歳だったのね!

んじゃあ、よく私たちが教科書で目にしていたあの肖像画はいったいいくつのとき? どう見ても70過ぎにしか見えないんだけど・・

おまけに老中とか大老とか「老」と言う言葉になんとなくだまされて、てっきりいい年こいたじいさんだとばかり思ってました。

それが、なんと今の私より年下だったとは! なんちゅう老成しとるんじゃ!

しかし、やはり偉い人とは心がけが違うもんだ、と思いましたのは、彼は自分のことを「埋もれ木」と常々言っており、(ちなみにこの名前の和菓子が銘菓としてお土産屋さんで売ってます。なんでも「はなまるマーケット」のおめざで沢口靖子が取り上げたとかで人気みたいです。)毎日睡眠4時間でいろいろな学問をおさめていったとか。

005 さて、いざ天守閣へ、と思いきや、「みなさ~ん、本日最後の彦にゃんの登場になりま~す。ごらんになりたい方は門の近くまでどうぞ!」という声がかかり、皆さん、わらわらとそちらのほうへ。

彦にゃんとは<msnctyst w:st="on" address="彦根市" addresslist="25:滋賀県彦根市;">

彦根市

</msnctyst>のシンボルキャラクターでゆるキャラで人気なんだそうです。

どれ、一目拝見してきましょうかね、と行ってみると、びっくり!

想像以上にたくさんの人が彦にゃんを取り巻いていました。

彦にゃんはしゃべるわけでもなし、とくに芸をするわけでもなし、ただ、ときどき場所をかえて、多少ポーズらしきものをとるだけ。

それだけのことにこんなにたくさんの黒山の人だかりが!

そしてまた、皆さんが、

「彦にゃん、こっち向いて~」とか、

「彦にゃん、可愛い~!」とか声をあげるでもなく、ひたすらもくもくとデジカメか、携帯のカメラを彦にゃんにおとなしく向けているのみ。

004 これは結構不気味でしたよ。

かたわらにはスタジャンを着た若いお兄さんが万が一に備えて待機しているだけで、彦にゃんはただひとり(?)ほったらかしでゆる~いポーズをとるのみ。

司会などでその場を仕切る人がいるわけでもなし、誰も声をあげないなかで、薄汚れた着ぐるみを着た彦にゃんが佇むのみ、というとてつもなくゆる~い時間が流れていきます。

なんなんだ? これは!?


そして、みなさん、お気に入りの1枚が撮れればそれで満足、と言わんばかりにくるりときびすを返し、彦にゃんなんていたの?と言わんばかりの冷たい態度でその場を後にします。

これで、ほんとうに彦にゃんは人気だといえるのだろうか・・?

そして、この人たちはこうまでして一生懸命とった写真をあとでどうするというのだろう・・?


彦にゃんがどこでブレイクしたのか知りませんが、誰も自分の判断で「確かに可愛い」とか「このキャラに会ってみたい」と思ったわけでもなんでもなく、「

なんだか知らないけど今トレンドらしいから、ほらぁ、あの彦にゃんを知らないのぉ?私はそばで写真とってきちゃったよぉ」と周りの人間にチラと見せるためだけに必死に写真を撮っているとしか思えない。


昔むか~し、ヒットしたドラマに「想い出づくり」というのがありまして、当時、この「想い出づくり」という言葉自体がヒットしました。

皆、それで想い出をつくるためにせっせと東奔西走する(例えば、卒業旅行に行く、コンパに行く、など)ことになったように思います。

私は、当時からこの言葉にすごく反発を感じていました。

本末転倒じゃないか、と。

体験してみたら思わぬすてきだったから結果として想い出になる、と言う順序でコトは運ぶのであって、その想い出を最初から作ろうと画策して行動しても大して感動は得られないんじゃないの?という思い。

単純になんかそんなことって、不純じゃん、という思い。

想い出をつくろうとするために行動するなんて、なんだか自分で自分の人生に踊らされているみたいでヤダ、と言う思い。

そうはいいつつ、みんながせっせとそういう動きをしていると、なんだか自分だけ置いていかれるような気がしてそれもヤダ、という焦りみたいなもの。

色々な思いがあって、とにかくイヤだったんですが、この彦にゃんに対する撮影にふとそんな昔のことを思い出しました。

009 さて、彦根城の散策を終え、帰りは「夢キャッスルロード」というお土産物屋さんが立ち並ぶストリートをぶらぶら冷やかして(っていうか、けっこういろいろ買っちゃったけど)帰ってきました。

銀行や公衆トイレというような公共的なものまで、町並みを古い川原町風のつくりに一貫して整備してあり、なかなか風情がある雰囲気でした。

そして、いったんこういう雰囲気にすると元をとらなきゃ、という思いなのか、やたらめったら高い値段を通してしまうようなところも全国にはちらほらあるなかで、ま        あ、比較的善良な値段設定だと思います。


010 でも、なんだかなぁ・・

こういう後でわざと古びた感じを演出している感をちょっとでも感じちゃうともう私たち夫婦はひいちゃうんですよねぇ。

もっとカッコよくなくてもいいから、「本当の」街の顔が見たい、って思っちゃう。


いつもダーリンとちょこっとお出かけしたときには、その町の地酒とおちょこを1個だけ買って帰ることにしています。

そしてウチに帰ってどん燗でいっぱいやりながら、

「今日は、どのおちょこにする?」と選びながら、

「そういえば、あそこに行ったときはこうだったよねぇ。ああだったよねえ。」と言い合いながらさしつさされつ、一杯かたむけるのが無上の楽しみです。

今回は、「金亀」というお酒とフナ寿司、赤いこんにゃくを買ってきました。

「金亀」なかなか、いけましたよ~