ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「食べること」2

2008-11-10 07:52:29 | 芸能ネタ

「ブタがいた教室」という映画が公開されましたね。

東京国際映画祭で、観客賞と審査員賞をとったということで公開前から話題になりました。

実話をもとにしたお話で、ある小学校で担任の先生が幼いブタをつれてきて、「これを育てて、大きくなったらみんなで食べようと思っています。」というところから物語ははじまります。

クラスのみんなで世話をしていくわけですが、さていざ、と言うころになると児童の間でも意見はわかれます。

さあ、ブタを殺して食べるべきか、下級生に世話をひきつぐべきか、どっち?というお話、らしいです。(らしいです、というのは私もまだ観てませんので)


そして、やはり「飼っていたブタを殺して食べるべきか、どうか」という問題が賛否両論を巻き起こし物議をかもすようにしてワイドショーなどでも「さあ、あなたならどうする?」という問題提起的に取り上げられていました。

有名なキャスターや有識者たちがあ~でもない、こーでもないとさんざケンケンガクガクやっていましたが、ひとりも私と同じ意見の人がいないのに、なんで?とちょっとイラッとしていました。

そうしたら、いた、いた!

私の言わんとするところを代弁してくれる人が!

それは、なんと意外にも(と言っては失礼ですよね)三船美佳ちゃん。

「私は、食べることには賛成です。だけれど、最初に飼うときから家畜として飼うのか、ペットとして飼うのかはきっちりしておかないといけないと思います。」

パチパチ(拍手)

も~う、全くその通り。


私は、この物語のなかでも実話でも、このブタが「Pちゃん」と名づけられているのを聞いたとたん、「そりゃ、ないだろう」と思っていたのです。

名前をつけた時点でそれはもう、ペットでしょうが。

ワン・オブ・ブタから「Pちゃん」という固有名詞をつけたときから、それはそれ以外のブタとは違う性格を帯びるのはあたりまえです。

それを三船美佳ちゃんは過不足のない言葉でピシャリと言ってくれました。

そこに触れずして、ただ食べるべきか食べないべきかの論争をしているほかの人たちの神経がわかんな~い!というくらい私はなぜか勝手にテレビの前で熱くなっていました。

例えば、道端に生み捨てられて幾日もたっていないような子猫が死にそうにぶるぶるふるえながら座っていたとする。

そこで、「捨て猫にはエサをやらないでください。」とか「猫がふえると近隣の住民が迷惑するわけです」というような行政的な発言は人間らしい心を無視したものだ、と思うのです。

そりゃあ、普段はそう言っていたとしても、今、この瞬間、目の前に、私が手を差し伸べなくては灯が消えるかもしれない命がひとつ、あるわけよ。となったら、理屈ぬきでとりあえず介抱してやろうとかミルクを与えてやりたい、と思うのが人情というもんでしょ~が。

このブタの話にしても同じことです。

目の前に1年間をPちゃん、Pちゃんと言って可愛がってきた魂がいるわけですよ。

それを殺せない、と思う気持ち、それで十分じゃないですか。

こどもたちも「Pちゃんだから食べられないのか、ほかのブタなら食べられるのか。ほかのブタなら食べられるというならそれもおかしい、ってとこから考え直さないといけないことになるんじゃないのか。」などという意見も出たみたいですけれど、こんな意見をこどもから出るように追い込むこと自体がもうおかしい、と思います。

Pちゃんだから、食べられない。」

「なぜ?」もくそもない、それがすべてでしょう。名前つけて一個の感情ある個体としてそこに在るのを認めてしまったんだから。

だから、このお話に限って言えば、最初にブタを連れてきた教師が、

「みんなで飼いましょう。」と呼びかけたときに、

「家畜として飼うのだから、そのために守ること」という決め事のなかに「名前をつけないこと」というのを入れないといけなかったと思います。
映画のタイトルだって、「ブタがいた教室」じゃなくて、「Pちゃんがいた教室」にしないと嘘でしょ。

もしタイトルが「Pちゃんがいた教室」になっていたとしたら、それだけで観客も審査員もテレビのキャスターたちの意見も違ったものになっていたに相違ありません。

なんだか熱くなってしまいましたが、私も三船美佳ちゃんと同様に、基本的には賛成なんです。「命を維持するということは、悲しいかな、ほかのものの命を奪って成り立つ」ということなんだ、ということを実感として重く受け止めるためにはスーパーでこぎれいな切り身になっているようなものしか見ない、ということではなくて、の現場を知るべきなんじゃないか、ということについては。

私も、の現場は見たことも立ち会ったこともありません。

だけど、私の家は串かつやホルモンを扱っている居酒屋で、父はその昔場まで行ったことがあるといいました。

牛たちは列をなしてまでの細い柵の道を歩かされるのですが、最初はおとなしく歩いていても現場が近づくと何かを察知して前に進まなくなる牛、どうしても嫌がる牛が出てくるそうです。

それをひっぱたいて前へ無理やり歩かせる。

牛の目からは涙が出るそうです。

そして、眉間の間を斧のようなものでかち割る。

上手な人は一発でしとめますが、嫌がって暴れている牛やなかには仕損じるときもあるとそれは修羅場だそうです。

これを見た父はしばらくの間、肉が食べられなかった、と言っていました。

ず~っと食べられない人もいるかもしれない。

そして代替品でも十分に命が維持できるのなら私はそっちを選ぶ、と言う人もいるかもしれない。

泣く泣く食べる人もいるかもしれない。泣く泣く食べて、それでも牛肉っておいしいよな、と矛盾するような気持ちを抱えて・・・

それでいいと思うんですよね。

所詮、人間が生きていくってことは矛盾なんだから。

魂の成長のためだけだったら、肉体は存在しなくて最初から魂の存在だけでよかったんじゃないの、と思うかもしれないけれど肉体があるがゆえに感じる喜怒哀楽や生老病死を経て、私たちははじめて成長するのだと思いたい。



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