ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

前世療法

2008-11-14 17:19:18 | 精神世界

オーラソーマのボトルのなかには、過去世とつながっているものもいくつかあります。

ただし、これについてはレベル2のときの授業でも割とスルー気味で、過去世とつながっているボトルを常にソウルボトルとして選ぶようになったら、あなたはどこそこの過去世を持っていると思ってまず疑いないですよ、ということなのか、逆にそのボトルをせっせせっせと使っているうちにふっとその過去世を思い出すこともありますよ、と言う意味なのか(その場所に過去世があった場合ですが)いまだに私にはよくわかりません。

でも、オーラソーマと関係なく以前から私は前世療法と言うものに興味がありました。

なぜなら、昔にテレビでペルー(だったかな?)には前世の記憶をもった子供たちが大勢いる、っていう話をやっていたことがあって、大人ならいざ知らずこどもがそんな流暢な嘘をつけるわけもなく、たちまち私は「これはホントの話だ!」と思って、そのときから興味深かったのでした。

これについてはオーラソーマには深く理解を示してくれる友達さえ、

「なぁ~んでぇ!? そんなものに興味があんのぉ? 人生、これから先が大切なんじゃないの。常に前向きに生きようよ。んな、後ろばっかり見てたってしかたないでしょーに。」
と言い放ち、私もそういわれるとそのとおりだな、と思って、なんで私は前世療法に興味があるんだろう・・・?と自分で自分の興味のありかに合点がいかないのでした。

それが、最近、ワイス博士の「前世療法」を読みましたら、自分がなぜ前世療法に興味があったのかが理解できました。(ワイス博士とは、1988年に世界中に前世療法という概念を広めたはじめての精神科医です。)

そこにはこのように書かれていました。

過去の記憶を取り戻すと「現在」をもっと鋭敏に感じられるようになると言うのは、矛盾する話のように聞こえますが、でも、本当のことです。「今」に集中し、「今」と言う瞬間を楽しめるようになった自分に気がつくのです。ひとつには、退行瞑想は意識を集中させる練習であり、続けて行っていると、私たちの中に今感じていることや認識していることに集中する力が育ちます。さらに、退行によって明らかになった過去は、今の一瞬を見えなくしている壁を壊します。その結果、必要以上に過去にくよくよしたり、未来を心配したりすることがなくなります。そして自由に「今」に存在できるようになります。私たちが喜びを体験できるのは「今」の中だけだからです。過去の重荷や未来に対する不安から自分を解放すれば、私たちは今と言う瞬間、「ここにある今」に集中することが出来るのです。』

そうだったのかぁ!

「今を生きる」「今に集中する」ために過去を知る。これだぁ!

私は、知ろうとすれば知ることができるものをそのままにしておくのがとってもイヤな性格です。

過去を知ろうとすれば、知ることができるかもしれない。なのに靄がかかったような状態で放っておくから「わたしってこういうところがあるのはどうしてなんだろう?」とか「いつも私は、こういうときこのパターンになるな。どうしてなのかな」ということに活路を見出せない。

それらに対して過去世を知ることによって、「そうだったのかあ!」と靄のなかから晴れた空の下にでることができたら、そりゃあそれだけですっきりしますもんね。

それから、こんなすばらしい効果についても書かれてありました。

『瞑想や退行から得られる数多くの利点の一つに、価値観の変化があります。自分にとって真に大切なことと大切ではないことを見分けるときの視点の変化、といってもよいでしょう。このような価値観の変化は、自分は不滅であること、つまり、肉体が滅びても自分はしなないということを知ったときに起こるものです。過去世退行を体験すると、私たちは自分が前にも生きていたこと、いつか再びここに生まれてくること、そして愛する人と再会することがわかるようんあります。さらに家族矢友人と、身体的なふれあいは失ってしまっても、向こう側の世界か、次の人生で再び出会えるとわかると、苦しみや悲しみの本質が変化していきます。私たちが実は魂の存在であることに気づくと、根本的な変化が促されて、愛、より深い人間関係、思いやりなどを大切にするようになります。そして、ほかの全ての存在とのつながりを、もっとはっきりと感じ始めます。このような新しい価値観が幸せの基礎になるのです。』

「自分にとって真に大切なことと大切ではないことを見分けるときの視点の変化」。

確かにこれが身につけば、人生こわいものなしでしょう。

あ~ん、ぜひとも手に入れたい!その視点。

それから、それからこんなことも書いてありました。

『退行催眠を練習していると、自分のなかにある普段は気づかずにいるエネルギーを解放できることがわかった。するとやがて、霊的な目覚めもはじまって、人生に新たな深い意味がもたらされるでしょう。』

ちょっとお! すばらしいじゃないの。前世療法。

ふだんは気づかずにいるエネルギーの解放。

霊的なめざめ。

全部、手に入れたいわぁ。

というわけで、この本には過去世を体験できるCDが付いておりましたので、さっそく聴いてみました。

もちろん、本にも書かれてありましたが、1回や2回聴いただけでおいそれと簡単に過去世を体験できるものではないらしい。

私は、誘導の言葉の間隔が初めての人間にとっては短すぎてその世界に入っていけませんでした。

例えば、

「さあ、美しい階段を下へ下へ降りていきましょう。一段下るごとにあなたはさらに深いレベルへ向かっていきます。さあ、一番下へ着きました。」とかいうようなところがあったりするのですが、目を閉じ、瞑想モードにはいっていても、心の中では(ちょっ、ちょっと待ってよ。まだ、一番下へ着いてないの。もうちょっとゆっくりさせて)と言う感じなのです。

まあ、何回か試みるうちにどこかへインナートリップできるんでしょうかねえ。

私の魂のふるさとをみつけるまでとうぶん、続けてみたいと思っています。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/



ラッキーバッグ

2008-11-12 07:58:21 | 身辺雑事

ラッキーバッグというのは、「福袋」と言う意味じゃござんせん。

文字通り、ラッキーな、ついているバッグのお話でございます。

ちょっとダーリンと出かけた帰りに、ホームセンターに寄りました。

そこで、ダーリンがトイレに行きました。

出てきて、そのあと、ダーリンは仕事仲間の人たちとの会合があったので、その場所まで送り届けて私はそのまま、家に帰ることになっていました。


そして、会合の場所まで送り届けて「じゃあね。忘れ物はない?」と言ったとたん、

「あれ? 俺、バッグどうしたっけ!?」

ない、ないと2,3分騒いだあと、

「あ!! そうだ! ホームセンターでトイレに入ったときに棚に忘れた!」って。

「ありゃま。大事なもの、はいってたの?」と聞くと、

「今日はその会合の会費を預かってるから、8万円くらい現金もはいっているし、郵便局の通帳もはいっている。」って言うじゃないですか!

そりゃ、大変と言うことで、あたふたと車を戻らせながら、走っている車のなかで先ほどのホームセンターに電話し、順序だてて伝えるのもどかしくその旨を伝えると、電話口に出た方がすぐに、トイレに行って見てきます、と言ってくださり、その結果はこの番号の携帯にすぐに返信します、ということになりました。

折り返しの電話が鳴るまでの数分の車内。

「まあさ、もし盗まれてても気落ちしちゃだめだよ。事故にあったりとか命からがら、っていう話じゃないんだからさ。金で済んだ話さ、って思わなきゃ。」と私。

「うん、でもさ。俺、あのバッグ、ある気がする。」と根拠のない希望を述べるダーリン。

「だって、今までも何度もそういうこと、あったんだよ。だけど、そのたびにあのバッグは戻ってきてるんだ。だから、今回もきっとある。」と空元気なのかへんに強気なダーリン。

「でもさ、バッグはあっても現金は抜き取られてる可能性はあるからね。」とあえて水を差すわたくし。

「うん、でも、そういうこともあろうかと札は財布には入れてないんだ。別の封筒に入れてあるから。」

そんな「そういうこともあろうかと」を考えられるくらいなら、そもそも忘れないようにしろよ!と突っ込みを入れようとしたら、ダーリンは、自分で自虐的に「その前に忘れんな、だわな。」と言いました。

まったく。

そんなことを言っているうちに私の携帯がなり、「ありました。」との返事。

「ありがとうございますぅ! すぐ戻りますんで」ともはや地獄の沙汰で神にあったかのように応答するダーリン。
で、ホームセンター、再びとうちゃあ~く。

気もそぞろにサービスカウンターに行くと、「あった、あった。」
中身を確かめると、中身もそっくりそのまま、何もなくなっていませんでした。

元気を取りもどし、テンションがあがるダーリン。

「しっかし、こんなことは奇跡やと思わなあかんよ。」とまたも釘を指すわたくし。

「なんでさ?」

「だって、トイレに忘れて私たちが気づいて戻るまでの数十分、誰もトイレに入らなかったと思われることがそもそも奇跡。そして、万が一入っても、誰も現金を盗もうと考えなかったことがまた奇跡。そして、最後の奇跡は、ホームセンターの人が電話を受けて、探しに行きましたけどありませんでした、って嘘をついて自分が盗ったってわからないわけだけど、正直に見つけてくれたこと。」と言うと、

「えぇ~、そんなこと考えもしなかった。ホームセンターの人がそんなことするわけないじゃん。」と言うので、

「そう思うのは日本だからだよ、きっと。こんなの治安が悪い国、ううん、アメリカでだって、まず、お店の人が知らん顔してなかったです、って盗っちゃうことのほうがきっと多いと思うな。だって、それで何の証拠も残らないし、そもそも一番悪いのは忘れた本人、っていう常識があるから他人のものを意識的に盗んだよりずっと罪悪感もないと思うし。」

「ふーん、そういうもんかなあ。」って何となく納得いかない感じのダーリン。

そうだってばさ!


それから嬉しそうに、バッグをなでて、「やっぱり、あると思ったんだよなあ。こいつは」だって。

なんだか私もそのバッグが単なるモノではなくて、何か生き物のような気がしてきて、

「わたし、そのバッグ、すごく薄汚れてるから今度新しいやつ買ってあげよう、と思ってたんだけど、もうずっと大事に使いな。なにかご加護があるわ、そのバッグには。」と言ってあげました。

皆さんもありませんか?

なんでだか、よく置き忘れたり駄々草に扱ったりしているのにずっといつまでも失くさないで身近にあるものと、気に入って買ったはずなのに「あなたとは縁がありませんでした。」とばかりにさっさと失くしてしまうものとが。

こういうのって、やっぱり何か必然の力というか波長の法則があるような気がしてしかたがありません。

そして、波長が合うってことはあまり意識せずともごく自然に身近にあるものだから、ついないがしろにしたり、それが大切だって気づいていないことがあるような気がする。

「大切にしている」っていう意識がなくても、なぜかずっとあるもの・・

そんなものを自分の身の回りでリストアップしてみませんか?

そこから自分の波長に合うもののキーワードがなにか浮かび上がってくるかもしれませんよ。



オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。
 

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/



オグリキャップ

2008-11-11 08:32:51 | 身辺雑事

おとといの日曜日、東京競馬場でアジア何とかデーというのだったから、ということでオグリキャップが久々にその勇姿を見せました。(どうしてアジアだとオグリキャップの登場となるのかはイマイチよくわかりません・・)

オグリは芦毛というより真っ白になっていましたが、23歳になり人間の年でいえば70歳くらいのはずだけれど、それはまさしく「勇姿」と言う名にふさわしい現役の馬のような姿でした。
私はうれしくて涙がでそうでした。

オグリキャップはまさに私の青春と言っても過言ではありません。

オグリキャップにどれくらい勇気を貰ったことか・・

いまだに私は定期入れにオグリキャップの現役のときの写真をひそかにしのばせているくらいの実は隠れオグリファンなんです。(別に隠れる必要もないが)

あの、ゲートインする前にみせる武者震い(のように人間には見える)しぐさ。

笠松から中央入りして驚異の6連勝をとげて一躍「怪物」と全国区になった人気モノ。

毎日王冠のときの壮烈な4頭でのたたきあい。

宿敵タマモクロスやスーパークリークと戦いあった日々。

マイルチャンピオンシップからジャパンカップへと何と連闘でのぞみ、同着2位となったものの当時のレコード2分22秒2というタイムで駆け抜けた東京競馬場。ゴール後もホーリックスを抜かそうと騎手の南井が手綱をゆるめているのにオグリはスピードをゆるめずまだ走っていました。

6歳になって天皇賞、ジャパンカップと惨敗し、オグリは終わったといわれてのぞんだ最後の引退レースの有馬記念で優勝。

全てが昨日のことのように思い出されます。

(ちなみにこのとき私はオグリキャップの単勝1万円を手に握り締めていました。後にも先にも1点に1万円という金額を馬券につぎこんだのはこのときだけです。)

私はいつもくじけそうになるとオグリキャップのビデオを見てはそのたびに新鮮な涙を流し、よし!頑張ろう、という気にさせられていました。

競馬が好きになったのも馬券が好きなのではなく、あくまで馬が好きなのでした。とくにオグリが・・

そのオグリキャップが引退してオグリキャップの子供がまた勇姿を見せてくれることを密かに期待していたのですが、どうもどの仔も鳴かず飛ばずで、そのうち種付けもなくなってしまったのか今ではオグリキャップの仔なんて見ることも聞くこともなくなってしまいました。

まあ、当時からダンシングキャップとホワイトナルビーというたいした血統でもないオグリキャップがこれだけ走るのは血ではなく、個体の能力だとは思っていましたが、やはりオグリキャップの血が絶えてしまうというのは寂しいものです。

そして、種付けがなくなったオグリがどうして暮らしているのだろうと時々思い出しては心配していました。

でも、テレビながら、勇姿を見ることができて懐かしさとうれしさでいっぱいになりました。

そして、「やはり、頭のよい馬というものは自分で自分の体をつくるのだなあ。」と言う思いを強くしました。

だって、今にもまだ走れそうに見えましたもん。

オグリも久々の競馬場に興奮していたみたいだったし。走りたかったんじゃないのかなぁ。

シンザンも頭のいい馬で、現在競馬で活躍した馬としては日本で最高齢で亡くなった馬としても有名ですが、かなり老齢になるまで今にも走れそうな体つきをしていました。

そして馬にとって「頭がいい」ということは、「人間を信じきる能力」ということに尽きるといえます。

競走馬のようにガラスの脚をもったある意味、人工的につくられた動物はその作り出した創造主のいうことを聞かなければ決して生きてはいけないでしょう。

それをシンザンもオグリキャップもよく知っていた、と思います。

まだオグリキャップが現役のとき競走馬としては致命的かもしれない「喉鳴り」という病気にかかったことがありました。

そしてその治療のためには動物だったら必ず嫌がる口を大きくあけてのどの奥のほうまで治療器具を入れたり、人間に見せるということをしなければいけなかったわけですが、それだけのことができなくて全身麻酔だの手術だの、と言う騒ぎになってしまうと弱ってしまう馬が多い中、オグリはおとなしく口をあけて治療をさせた、といいます。

たぶん、イヤだけれど、そうしないと治らない、この人たちは僕を救ってくれる人たちなんだ、ということが本能的にわかっていたからでしょう。

人間も人間の創造主である神を信じきれば、もっとラクに生きられるのにね・・

ということがストーリーとしてわかるようになっているシリーズがオーラソーマにはあります。

マスターセットの50番から56番にかけて、です。

私は最初、この話をレベル3のときの授業で聞いたときには感動で、天と地がひっくりかえるほどの衝撃を受けました。

50番はエルモリア。

上下ともペールブルーのボトルです。

ブルーは「最初に出来た色」。なぜなら私たちは魂のときに神様からブループリント(青写真)を見せられて、「はい、今度の人生はこれで結構です。」と納得して生まれてきているから。

そして、その人生を歩むためには神様は必要な才覚や能力を授けてくれている。

だから、そのとおりに生きられれば悩むことも苦しむこともないはずなのに・・


そして、51番のクツミ。

上下ともペールイエローのボトル。

そうはいっても、オギャアとこの世に肉をもって生まれてきた瞬間から、私たちはそのブループリントを忘れてしまって、自分が、自分が、自分の人生だから自分で切り開かなきゃ、と言ってヘンに頑張るから混乱する。

黄色は「混乱」の色。

それを通り過ぎると、52番のレディ・ナダ。

上下ともペールピンクのボトル。ピンクは赤をさらに強烈にした色。

ここで青、黄、赤の3原色がそろい踏みとなります。

自分を離れて、ひとつ高みから自分を見ることができるようになる。

赤は「超然」の色。


そして53番の、ヒラリオン。

上下ともペールグリーンのボトル。

超然と観ることができるようになると、「平穏」「安泰」が生まれます。

まだ続くんですけどね。

このように人間の魂の成長の過程がボトルで描かれているわけですよ!

言葉だけでこうして追っても私の感動は伝わらないと思うし、皆さんにはぜひとも実際にボトルを通してこの感動を体験してもらいたい!


なんだか、オグリキャップの話から力技でオーラソーマの話にもってきちゃったみたいですけど。

マスターセットにご興味のある方はぜひともオーラソーマのプラクティショナーへ。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/



「食べること」2

2008-11-10 07:52:29 | 芸能ネタ

「ブタがいた教室」という映画が公開されましたね。

東京国際映画祭で、観客賞と審査員賞をとったということで公開前から話題になりました。

実話をもとにしたお話で、ある小学校で担任の先生が幼いブタをつれてきて、「これを育てて、大きくなったらみんなで食べようと思っています。」というところから物語ははじまります。

クラスのみんなで世話をしていくわけですが、さていざ、と言うころになると児童の間でも意見はわかれます。

さあ、ブタを殺して食べるべきか、下級生に世話をひきつぐべきか、どっち?というお話、らしいです。(らしいです、というのは私もまだ観てませんので)


そして、やはり「飼っていたブタを殺して食べるべきか、どうか」という問題が賛否両論を巻き起こし物議をかもすようにしてワイドショーなどでも「さあ、あなたならどうする?」という問題提起的に取り上げられていました。

有名なキャスターや有識者たちがあ~でもない、こーでもないとさんざケンケンガクガクやっていましたが、ひとりも私と同じ意見の人がいないのに、なんで?とちょっとイラッとしていました。

そうしたら、いた、いた!

私の言わんとするところを代弁してくれる人が!

それは、なんと意外にも(と言っては失礼ですよね)三船美佳ちゃん。

「私は、食べることには賛成です。だけれど、最初に飼うときから家畜として飼うのか、ペットとして飼うのかはきっちりしておかないといけないと思います。」

パチパチ(拍手)

も~う、全くその通り。


私は、この物語のなかでも実話でも、このブタが「Pちゃん」と名づけられているのを聞いたとたん、「そりゃ、ないだろう」と思っていたのです。

名前をつけた時点でそれはもう、ペットでしょうが。

ワン・オブ・ブタから「Pちゃん」という固有名詞をつけたときから、それはそれ以外のブタとは違う性格を帯びるのはあたりまえです。

それを三船美佳ちゃんは過不足のない言葉でピシャリと言ってくれました。

そこに触れずして、ただ食べるべきか食べないべきかの論争をしているほかの人たちの神経がわかんな~い!というくらい私はなぜか勝手にテレビの前で熱くなっていました。

例えば、道端に生み捨てられて幾日もたっていないような子猫が死にそうにぶるぶるふるえながら座っていたとする。

そこで、「捨て猫にはエサをやらないでください。」とか「猫がふえると近隣の住民が迷惑するわけです」というような行政的な発言は人間らしい心を無視したものだ、と思うのです。

そりゃあ、普段はそう言っていたとしても、今、この瞬間、目の前に、私が手を差し伸べなくては灯が消えるかもしれない命がひとつ、あるわけよ。となったら、理屈ぬきでとりあえず介抱してやろうとかミルクを与えてやりたい、と思うのが人情というもんでしょ~が。

このブタの話にしても同じことです。

目の前に1年間をPちゃん、Pちゃんと言って可愛がってきた魂がいるわけですよ。

それを殺せない、と思う気持ち、それで十分じゃないですか。

こどもたちも「Pちゃんだから食べられないのか、ほかのブタなら食べられるのか。ほかのブタなら食べられるというならそれもおかしい、ってとこから考え直さないといけないことになるんじゃないのか。」などという意見も出たみたいですけれど、こんな意見をこどもから出るように追い込むこと自体がもうおかしい、と思います。

Pちゃんだから、食べられない。」

「なぜ?」もくそもない、それがすべてでしょう。名前つけて一個の感情ある個体としてそこに在るのを認めてしまったんだから。

だから、このお話に限って言えば、最初にブタを連れてきた教師が、

「みんなで飼いましょう。」と呼びかけたときに、

「家畜として飼うのだから、そのために守ること」という決め事のなかに「名前をつけないこと」というのを入れないといけなかったと思います。
映画のタイトルだって、「ブタがいた教室」じゃなくて、「Pちゃんがいた教室」にしないと嘘でしょ。

もしタイトルが「Pちゃんがいた教室」になっていたとしたら、それだけで観客も審査員もテレビのキャスターたちの意見も違ったものになっていたに相違ありません。

なんだか熱くなってしまいましたが、私も三船美佳ちゃんと同様に、基本的には賛成なんです。「命を維持するということは、悲しいかな、ほかのものの命を奪って成り立つ」ということなんだ、ということを実感として重く受け止めるためにはスーパーでこぎれいな切り身になっているようなものしか見ない、ということではなくて、の現場を知るべきなんじゃないか、ということについては。

私も、の現場は見たことも立ち会ったこともありません。

だけど、私の家は串かつやホルモンを扱っている居酒屋で、父はその昔場まで行ったことがあるといいました。

牛たちは列をなしてまでの細い柵の道を歩かされるのですが、最初はおとなしく歩いていても現場が近づくと何かを察知して前に進まなくなる牛、どうしても嫌がる牛が出てくるそうです。

それをひっぱたいて前へ無理やり歩かせる。

牛の目からは涙が出るそうです。

そして、眉間の間を斧のようなものでかち割る。

上手な人は一発でしとめますが、嫌がって暴れている牛やなかには仕損じるときもあるとそれは修羅場だそうです。

これを見た父はしばらくの間、肉が食べられなかった、と言っていました。

ず~っと食べられない人もいるかもしれない。

そして代替品でも十分に命が維持できるのなら私はそっちを選ぶ、と言う人もいるかもしれない。

泣く泣く食べる人もいるかもしれない。泣く泣く食べて、それでも牛肉っておいしいよな、と矛盾するような気持ちを抱えて・・・

それでいいと思うんですよね。

所詮、人間が生きていくってことは矛盾なんだから。

魂の成長のためだけだったら、肉体は存在しなくて最初から魂の存在だけでよかったんじゃないの、と思うかもしれないけれど肉体があるがゆえに感じる喜怒哀楽や生老病死を経て、私たちははじめて成長するのだと思いたい。



オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。
 

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/



「食べること」

2008-11-09 10:19:41 | 芸能ネタ

小室哲哉が逮捕されましたよね。

わたし、ちょっと意外でした。

「そんなことをする人だとは思わなかった。」ということでなのですが、この意味は通常の「そんな悪いことをする人だとは思わなかった。」という意味とはちょっと違います。

「そんなギラギラとした、動物的な欲望を持っている人だとは思わなかった。」という意味なんです。

と言いますのは、なぜか私は小室元プロデューサーが全盛期の頃にテレビの特番で「小室哲哉の素顔」的ドキュメンタリー番組をやっていたのを見たことをまざまざと鮮明に覚えていて、当時彼は忙しかったということもあるのでしょうが、なんと

「僕は食べる、ということにあまり興味がない。」と言い放ち、ほとんど食事らしい食事をとらず、それをフォローするためにか、手のひらに山盛りのいろいろな種類のサプリメントを飲んでいました。

そして、唯一信じられるというお母さん的な存在の人がやっているマッサージサロンに通い、マッサージを受けているときの彼の素肌をみて、なんだかかよわ~い草食動物をみているようなキモチになりました。

一言で言うならば、うさぎみたい。

やせてるんだけど、ぷよぷよした妙にやわらかそ~な肌で・・ う~ん、わかりやすく言うと二の腕の内側あたりの肉で全身構成されているって感じ。

私は、「食べることに興味がない」と言う人が信じられません。

そういう気持ちになることが信じられない、と言うのもありますが、文字どおり、そういうことを言う人間の人間性が信じられない。

正直、あまりお友達にはなりたくありません。

でも、最近、ちらほらいるんですよね~、こういう人。

以前、会社にもいました。

若い子でしたが、「ときどき家でも食事を抜かす」と言うので、「どうして?」と尋ねると「箸をもつのがめんどくさいから」と答えたので、びっくりした覚えがあります。

箸をもつくらいがめんどくさいなら、後のほとんどのことは面倒で面倒でしかたがないだろうに。あんた、生きてることがめんどくさいでしょ?とよほど喉辺りまでその言葉が出掛かりましたわ。

そして、その子はやはり、小室哲哉と同じような皮膚をして、やせ気味でした・・

「食べることに興味がない」ということは、「生きることに興味がない」と言っているのと同じだと思います。

だって、「食べる」ことは「生命維持活動」なのだから。

生きることに大して興味がないなら、お金やいろんな生々しい欲望もさぞや希薄なんだろうと小室哲哉のことをそう思っていたので、今回の逮捕の罪名に驚いたわけです。

そんなことを感じながらニュースで小室哲哉が連行されるシーンなどが映し出されるのを見て、「あ!」と思いました。

昔より、「肉」の感じがふつーになってる・・

昔はぷよぷよでちょんと指先でつついてもすぐにアザになりそうな感じの肉をしてたのに、現在は年をとって肉はたるんではいるけれど50前後のふつーのおっさんの肉体になってたように見えました。

だからかぁ・・

この10年か15年くらいの間に彼はきっと食べることの楽しみも知ったんじゃないかなぁ。だから、逆にあんな犯罪をもおかすくらいの金に執着ももちはじめた、ってことか、と。

へんな納得の仕方をした次第でございます。

彼は「肉」への興味を悪いほうへ使ってしまったけれど、これはこの世に「肉体」を授かりながら、いかに「魂」は高邁なものを探求し目指すことが難しいか、ということの表れでもあります。
そして、そのバランス感覚を養い、自分にとっての一番最良なポジションを見つけることがオーラソーマでもあります。

以前に「芸能人にオーラソーマが広がったわけ」というブログをアップしたことがありますが、奥さんのkeikoさんはオーラソーマに親しんでいたはず。

小室哲哉はオーラソーマを日々のなかに取り入れなかったのかなあ?

オーラソーマに親しんでいれば、もっと自分のなかでも折り合いがつき、こんなことにはならなかったはずなのに。

惜しい、と思いました。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/