ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

宇宙の構造

2008-11-06 07:37:01 | 精神世界

さて以前にカバリストはそもそも現在の宇宙論を信じてはいない、ということをちらっとこのブログに書きました。ビッグバンによって宇宙ができたということをカバリストは信じていないというような表現で書いたように思います。(全員のカバリストがそうなのかどうかは定かではありませんが、その根本の原理に根ざしているところを考えるとたぶんそうでなくてはカバリストにはなれないだろう、と思われます。)

そして、機会があればそれがどういう原理なのかをこのブログで書きます、と言いましたが、私自身が理解しきっていないということもあり、上手に表現しないとただの突拍子もないたわごとのように聞こえてしまうので、躊躇していました。

だけど、ここで書くことも私のひとつの気づきであり、勉強でもあるので、今日はそれを取り上げてみたいと思います。

まず、そもそも1543年にコペルニクスが地動説を提唱して、宇宙の中心を地球から太陽に移しました。このコペルニクスの地動説が長年、宇宙を解き明かした「実証された事実」として受け入れられてきたわけですが、ビッグバンによって宇宙ができて、ひとつの銀河系以外にもたくさんの銀河系によって宇宙は成り立っており、宇宙はどんどん膨張しているので宇宙の果てという話になるとよくわからない、というのが今の宇宙論だと思います。それをまた「実証された事実」とするならば、太陽も宇宙の中心とはみなされていないわけで、では、中心がどこにあるのか、というと現在の宇宙論では特定の場所に万物の座標を定める原点を措定することはできなくなっているわけです。

このために現代宇宙論は物質レベルの解明には長足の進歩をとげたけれど、その中身の解明となると空っぽになってしまった、というのがカバリストの意見です。

わかりやすく言うと、卵の殻を指して誰もそれを「卵」という実体として定義するわけではなく、中身の白身と黄身のことを卵と言っているのだ、と思いますが、今の宇宙論は卵の殻を指して「宇宙が解明できた」と言っているにすぎない、というわけです。

この真偽のほどはともかくとして(は!? そこが一番重要なとこじゃないのかぁ?という声が聞こえてきそうですが、ま、ま、抑えて抑えて)、現代宇宙論が卵の殻ばかりそなぞっているせいで、人間の内面性との連携を失い、宗教や道徳との繋がりも失ってしまった、一方、宗教や道徳も宇宙論的な基盤を失い、その結果、誰もが人生の原点と目標を設定できずに混迷している、というのが現代社会だ、と言われるとなるほどぉ・・と思ってしまいます。

そうでなくても、私たちが暮らしている現代社会においても生活に密着した考え方をすれば、天動説より地動説のほうに無理があるような気がしてきます。

例えば、毎朝、太陽が東の地平線から昇り、西に沈むことには誰も疑問をもっていない。(違う、と言うのはバカボンのパパだけでしょう。)

つまり、毎日の生活のなかでは大地は不動で、太陽が天空を一巡することが1日だ、と考えるほうが無理がないわけです。

そして、ここからが本論ですが、カバラーでは「宇宙はホロン構造でできている」というのです。

ホロンとは全体子という意味で、あるものの全体を構成する各部分がそれ自体、全体と同じ構造を持っている場合、その同じ構造をホロンと言います。


一番わかりやすい例として遺伝子をあげています。

人間の体はおよそ60兆個の細胞から成り立っているといわれているけれど、その細胞の一つ一つは同じDNA構造を持っています。つまり、全体を構成する元型がどの部分のなかにも浸潤しており、どんな小さな切片を取り出してみても、そこに小型の全体像が特定のパターンとして保持されているのがみてとれるわけです。

したがって、一部分を認識すれば全体の把握が可能であり、逆に全体を把握していれば、どんな細部の本質も認識することができる。全体と部分はオクターブのように階層を異にした対応の原理で結ばれている、という説です。

だから、カバラーでは、世界のどこを切断してみても、どこを抽出してみても、常に同一のパターンまたはパラダイムを見出すことが出来る、と考えるのです。

具体的に宇宙がどういう構造をしているか、というと宇宙の中心は自分自身なのだ、ということです。

ここでいきなり、はぁ?となってしまった人も多いでしょうねえ・・

せっかくここまではかなり論理的に進めてきたのに、いきなり科学の話から哲学の話にすりかえられてしまったかのようなインチキくささを感じてしまったかもしれません。(実は私がそうでした。)

だからこの部分の説明についてはもう少し時間をかけて丁寧にしたいので、ここから先は後日にしたいと思います。

しかし、実際の生活感覚と現代の最先端と言われる宇宙論がどうもかみあっていない、というのはおわかりいただけたのではないでしょうか?


もっと説明すると、私たちは今、この世には等質の時間と空間がくまなく行渡っていて、時間と空間に関してはどの国で暮らしている人も皆平等だ、と思っているのではないでしょうか?

しかし、これは19世紀にイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの唱えた科学方法論上の要請にすぎない、ということです。

彼は実験や観察から自然法則を帰納する近代自然科学の方法論に根拠を与えるために、帰納法が成り立つ要件として、自然は同じ状況の下では同じ現象を引き起こす、ある普遍的で永遠なる秩序を保っていると前提することが必要だと主張したのです。


はぁ~? 難しいね。

ただ、これだけはわかりますよね。これを唱えたのが科学者ではなく、哲学者であったということ。それも彼はひとつの仮説を元に、つまり近代自然科学が正しいと仮定するならばこういう前提が必要ですよね、と哲学者の立場から唱えたにすぎないわけです。


こんなあやふやなことのもとに自然の斉一性が成り立っていたなんて、驚きではないですか!?

このジョン・スチュアート・ミルの提唱の後、近代人は古代宇宙論をとても胡散臭く感じるようになってしまったのだけれど、カバラーでは古代宇宙論の方が正しい、と言っているわけです。


古代宇宙論では宇宙のどこででも時間や空間は同じものではない、としています。古代宇宙論ではいくつもの天球があると捉えており、それがまたいくつもの階層を織り成していると考えているので、心理的にも肉体的にも別の影響力を人に与えている、と考えているのです。

例えば、満月の夜は殺人が多い、という実際のデータもこれに基づけば、月という天球がその時点では特別な質を与えているから起こりえることなのだ、と捉えたほうが納得がいきませんか?

近代科学では、物理学上の時間は一定の時の間隔という量をあらわし、特定の時点の質は問題にしません。たとえば、ある現象が3時間かかると言うことは問題にしても、それが昼の3時からの3時間だろうが、夜中の3時からの3時間だろうが関係ありません。

しかし、実際には私たちにとって昼の3時間と夜の3時間は全く異なった時間でしょう。人間だけではなく、あらゆる生物にとって、この二つの3時間は生理的にも意識的にも全く違った作用をします。つまり、生命にとっての時間は決して均一ではなく、一刻一刻違った質をもっています。

古代宇宙論では刻々と質を変える時間を宇宙論を考える上で大切にしているのに対して、近代科学ではその差異を全く無視し、時間の量、つまり長さだけを問題にする。

時間という自然を記述する根本的観念がこんなに異なっているので、近代科学からみると古代宇宙論は迷信の塊のようにみえてしまうのだ、というのがカバリストの論です。

なんだか納得させられてしまう私がいるのですが、皆さんはどう感じましたか?

では、後日に具体的に宇宙がどういう構造をしているとカバラでは言っているのかをご紹介しますね。



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