ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

難解な表現

2008-11-25 08:02:42 | オーラソーマ

アザイアクトから、プラクティショナーに向けての新しいニュースレターが届きました。

いつも思うのですが、アザイアクトからの文章というのは、どうしてこうも持って回ったようなわかりにくい難解な表現なのでしょう。

どのくらいわかりにくい表現かということで、ここである記事をそのまま皆さんにもご紹介いたしましょう。

それは「漏れるティーポット」と題したコラムで、自分自身をティーポットにたとえると自分自身のエネルギーを否定的なことに無駄につかってはいませんか?というような記事でした。

そして、ある茶人のエピソードを使って紹介しているのですが、その部分を抜粋してみます。

『高い位にある、とても名高い人にお茶を出す準備をしていた茶の達人の素晴らしいストーリーを最近私は読みました。彼は自分の両手のひらが湿っていることに気づきました。その結果として、彼は自分の弟子のところにもどり、彼らにもう自分は彼らのマスターである価値がないことを伝えました。なぜなら彼がまだ階級と言う概念に動かされていたからです。それは謙虚さの欠如に彼がまるで囚われていたかのようでした。どちらにしても彼はその状況で対等で居ることができませんでした。


自分は普通で、十分ではない。彼は自分自身をジャッジしていました。そしてそれゆえにそのジャッジがその役人に投影され、「もし自分が失敗したら、その役人は自分を見下すだろうか?」と思いました。そしてさらに悪いことには、そういった投影に打ち勝とうとして、私たちはさらに踏み込んで、仮定をし、ジャッジする者をジャッジしてしまう傾向があります。

ある種のお茶のほうが、ほかのお茶よりも優れているといえるのでしょうか?あるいはある反応の方が他の反応よりも優れていると? それは、違いをつくる煎じる期間への私たちの態度です。こういったことを新しく測ってみてはどうでしょうか? どんな否定性もジャッジも、私たちが物事を本来見れるようにははっきりと見れていないことを意味しているに違いないとしたらどうでしょうか? このようにして、その茶の達人はもう一度物事の基盤に戻る必要があることを知りました。結局のところ彼はまだ教えたくないと思いました。

私たちは漏れるティーポットでしょうか? 自分の貴重なエネルギーを否定性に、助けにならないものに自己を同一化することに無駄にしていますか?』

ふう~っ。

こうして書き写していても疲れます。

私にわかったのは、最初のくだりで、ある茶の達人が位の高い人にお茶を出すときに人を立場の高さで見ることをせずに対等に向き合うのが茶の精神なのに、いざとなるとそういう人の前でまだあがっちゃってる自分に気づいて愕然とした、ということだけです。


それですら、私は1回目に読んだときには、何のことだかわかりませんでした。

というのは、単に「手のひらが湿っていた」という事実しか書いていないために、茶の葉という乾燥したものを扱うのに湿っていては役に立たない、ということを言いたいのか?と勘違いしてしまったからです。

つまり、手のひらが湿っていたことを文字通りに受け取りすぎたわけで、それがあがっている証拠とは受け取らなかったわけですね。

それ以降の文章にいたっては、もはや何をいっているのかちんぷんかんぷん。

アザイアクト流に言うならば、

「私は、この文章において、自分を見失っていることに気づいたようです。それは私の内に問いかけるべきことなのか、ライターに問いかけるべきことなのかすら不明です。少なくとも私にわかっていることは、私は文字を追っているだけで、文脈を追うことができていることではない、ということだけです。これは私が文字を読む視力はあるのだ、ということを喜ぶべきことかもしれません。」

とでも言いたい気分ですわ。

これは、いったい、英語が理解できる人ならば、原文を読めばさほどわかりにくいことではないのかどうか知りたいところです。
欧米の人はこういった持って回った言い方に慣れているのでしょうか?

それとも、翻訳の段階であまりに直訳がなされているためにこうなるのでしょうか?

いずれにしても、アザイアクトの文章にはもう1人、通訳を間にいれてください、と皮肉ではなく言いたくなります。

そもそも、昔から本を読むことは好きでしたが、海外文学にはどうしてもなじめませんでした。

今でも覚えていますが、「少年少女名作文学シリーズ」というようなある有名な名著に挑戦しようとしたときです。

登場人物にはウィリアムとメアリーがいました。

ふん、ふん。このふたりが主人公ね、と読み進めます。

すると、突如として、ビルという人物があらわれるのです。

なんじゃ、これは?  えーと、いつから紹介されてたっけ? この人・・と前のページに戻って何ページも何ページも本を繰ります。

しかし、わからない。

そんな人が何人もあらわれ、もうストーリーがよくわからないので、読むのをやめてしまいました。

ずいぶん、後になってわかりました。

ビルがウィリアムの愛称だってことに。

今でこそ、ビル・クリントンやウィリアム王子に代表されるように、日本人の誰もがビルとはウィリアムの愛称だということを知っているかもしれません。

しかし、小学生や中学生が知らんよ、そんなこと。

ウィリアムがウィリーになるならまだしも予測をつけようもあるというものだけれど、なんでウィリアムがビルなの?! どこにも「ビ」も「ル」も入ってないじゃん!

まあ、これは幼い私の読書におけるトラウマですが、このように欧米では当たり前の言い回しや表現で、日本人にはなじみがない、というものが往々にしてアザイアクトの文章のなかにはあふれているのではないか?と私はかなり懐疑的なのです。

アザイアクトは、シドニー・シェルダンの超訳でも多少みならって、もう少しかみくだいた表現にしてほしいわ。

少なくとも、アザイアクト日本支部に働いている日本人の人がこの文章を全国のプラクティショナーにそのまま印刷して渡せばいいと思っていること自体が信じられない。


なんだか、アザイアクトからの文章を読むと、そのたびにかゆいところに手が届かないようなもどかしさを感じる私なのでした。


オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/