ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

憑き物

2008-11-01 09:24:27 | 精神世界

ダーリンが京極夏彦原作のちょっと怖いDVDを借りてきたので、私としては本意ではありませんでしたが、一緒に見ました。(だって、京極夏彦のってちょっとオカルトチックっていうか、横溝正史ともちょっと違うんだけど日本古来の風習とかに基づいた伝奇モノが多くってあまり私は好みではないんです。そもそも怖いのがダメなんで・・・)

そのなかのあるシーンで、村に御払いをしてくれる人を呼んで村人が神妙にしていると、ひとりの少女が憑き物がついたように苦しみ始める、というところがありました。

そしてその場にいた全員が「やれやれ、御払いしてもらうとひとりやふたり、こういう輩が出てきちゃうんだよなあ。」というようにこんなこと日常茶飯事とばかりに外へ連れ出しました。

このシーンを見ていて、ふと私は「そういえば、今はあまり『憑き物』とか言わなくなったなあ。」とぼんやり映画の筋を追うことをやめてそんなことが頭に浮かびました。

今の若い人は「憑き物」なんていっても知らないんじゃないかなあ?

せいぜいテレビで霊を特集したような番組を見ていると「悪い霊がその人には憑いています。」なんていう霊媒師がいて、そういうときに出てくる言葉としてしか耳にしないだろうなあ、って。

私の若い頃には(あぁ、こういう表現を頻繁にするような年齢に自分がなろうとは・・・ とほほ)、「こっくりさん」というのが一時すごくブームだったときがあって、やたらと学校でもみんながやっていました。

例えば、1から100まで数字を書いた紙を置いて、そこにいる全員が(例えば5人なら5人が)「こっくりさん、こっくりさん、だれそれはいくつですか?」とまずは小手調べのように数字で答えられる問題で、かつ明らかに正解がわかっている、というものについて尋ねます。10円玉かなんかに全員が人差し指を置いて、誰かひとりだけの意志では動かせないようにして質問すると、あら、不思議!

自然に指が数字の紙の上を這って、正解に導くというわけです。

数字でなく「はい」「いいえ」の2つの言葉が書かれた紙を用意して、どちらをこっくりさんが指すか、というように行う場合もありました。

これが上級版になると「あ」から「ん」まで書いたひらがなの上を指が這い、どんなことにも「こっくりさん」が答えてくれるのよ~という遊び(?)でした。

私は、そういう少しでもおどろおどろしいニオイがするものが怖くて大嫌いでしたから参加したことはありませんでした。

第一「こっくりさんが降りてくる」って・・「こっくりさん」ってどうもみんなが言っているのを聞いていると狐のことらしかったんですが、狐がなんでそんなに何もかも知ってるのよ?! 狐にものを教えてもらわなくても結構!という当時はそんな気持ちでしたね。

で、こういうお遊びをしていると、必ずなかに「あ!今、こっくりさんが憑いた!」と言って、気を失ってしまう少女がいたんですわ。

憑依しやすい体質なのか、のめりこんでその気になりやすい性質なのか、単に演技だったのか、今では知るよしもありませんが・・

そのうち、この遊びは先生たちの耳にも入って、「危険だから学校ではやらないように」というお達しが出て、いつのまにかすたれてしまいました。

こういう現象も今思うと面白いですねぇ。

今なら、学校で禁止されたってそういうことが好きなグループは隠れて集まってやりたいことはやるでしょうし、第一学校の友人でなく、塾だの、ネットだのいろんなつきあいがありそうですが、当時は「学校で禁止」と言えば、それで自然消滅的にすたってしまっていたんですね。

生きるエリアが狭かったのか、単純な世の中だったのか・・

ま、いずれにせよこのように私たちの時代というのは、一度や二度、「憑き物」というのが身近で経験した、ということを言いたかったんですが。

そして、今日、言いたいことの核心というのは、いきなりのようですが、「潜在意識と顕在意識の力関係」についてです。

そもそも潜在意識と顕在意識がケンカしたら、必ず潜在意識が勝つ、と言われています。

よく私自身も例に取り上げることなんですが、たとえば、大勢の聴衆の前でなにか話さなければならないと言うシチュエーションになったとき、たいていの人はちょっとドキドキしてあがる、と思います。

でも、あがったって何のトクにもなりゃしない。

話そうと思っていた順序や内容を忘れてしまうのがオチです。

だからあがらないようにしよう、と思うのが顕在意識なのですが、そう自分に言い聞かせたらあがらなくなるかというとそうでもなくて、むしろ逆にかえってあがってしまう。それが潜在意識の力です。潜在意識のなかに「どうしよう。なんかトチって、変な人だな、とかバカなヤツだな、とか思われたらイヤだな。」なんて考えているからそちらの方が勝ってしまうからです。

だけれど、現代においては、私が少女だった昔のようにもし、こっくりさんの話をしてもこっくりさんが憑いた!と言いだす人はまず、いないでしょう。いたとしても、昔よりはずっと少ないでしょう。

これって、顕在意識が潜在意識に勝ったってことでね~の?

そんなもの憑くわけがない、という顕在意識の力が、「そうはいっても憑いたらイヤだな」という潜在意識を凌駕しているのだとしたら、それで憑くことが少なくなっているのだとしたら、潜在意識と顕在意識がタメで張り合ったら、必ず潜在意識のほうが勝つのだ、という説はひっくりかえってしまうのではないの?


顕在意識の正体が、科学の力に裏打ちされた情報によって培われた知識だとしたら、これこそ科学者がこの世で起こる説明のつかないことは信じないぞ、という源となっているものなんでしょうね。

科学者たちは顕在意識しか信じない。

だから、昔の人は今ほどいろんな情報がなかったわけですから、より潜在意識とつながりやすくなっていて不思議な現象を目の当たりにしても、「そういうこともある」と淡々と納得していたんではないでしょうか。

こう考えるといろんな情報の氾濫というものが潜在意識を片隅に追いやって、顕在意識こそが正しい知識だ、という現代社会を作る源になったと考えられます。


だから、顕在意識が潜在意識に勝つ世の中になっちゃってるのかなぁ・・

そんなことを京極夏彦の映画DVDをみながら、ふと思ったわけです。

オーラソーマでは、最初にボトルを選ぶとき、必ず左手でボトルのキャップをもってボトルを選んでもらいます。

それは、左手が右脳とつながっているからで、右脳は「思考」ではなく、「直感」や「潜在意識」とつながりやすいからです。

オーラソーマの一番最初の行為がすでに「潜在意識とつながること」を大前提としているので、私は自分の潜在意識をもっと開発したい、ということに最近興味深々です。

ということは、あまり多くの情報をとりこまないほうがいいのかなぁ、なんて。

だって、「情報」そのものが顕在意識が勝っている現代人の手によって一度は加工されたものだもんね。

あぁ、思い通りに生きるってむずかしいわぁ、なんて。

今の私の目の前に、こっくりさんをやっていた少女たちが再び現れたら・・・

やはり、私はやらないでしょうね。

でもそれは信じてないから、ということではなくて、そこで起こることをまざまざと目の当たりにするためには当の本人ではなくて傍観者のほうがよくわかるはずだから、というのが理由です。



オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
コンサルテーションの詳細をお知りになりたい方は、下記をクリックしてください。

コンサルテーションのご予約はメールにてお受けいたしております。

「プロフィール」の欄をクリックするとメルアドが出てきます。

http://houken.de-blog.jp/sasarasaron/