ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

鼓の演奏に魅了される

2011年08月05日 | 随筆・短歌
 無知な私は、若かった頃は、日本伝来の和の芸術は、西洋の芸術に比べて劣るように思えて、余り理解を深めようとしませんでした。バイオリンやピアノの素晴らしさに比べたら、和楽器は一段劣るように思っていたのです。ところが年を取ってきますと、和の芸術の深さに俄然目覚めさせられて来ました。
 中でも能楽が好きなので、たびたび観に行くのですが、度重なると真正面の真ん中に陣取るような事はせず、かえって少し外れた席のチケットを買ったりします。真正面は意外と前の人の頭で、見えないことがあり、何回も通うとまた違った方向からの鑑賞も悪くないと思うようになりました。。
 芸術の「本物の善し悪しを理解しようと思ったら、最も優れたものを鑑賞しなさい」と言われます。そこで私も、最近図書館から人間国宝の人の、様々な演奏CDを借りてきて、孤独で静かな時間に耳を傾けています。
 鼓という楽器があります。何気なく見たり聴いたりしていたのですが、様々なドラマでも、しばしば鼓を打つ場面があり、その芸術性と精神性の高さに惹かれるようになりました。そこでこの度鼓の人間国宝の堅田喜三久氏のCDを借りて来ました。
 今までにも、箏曲、琵琶、尺八、謡曲(能)など借りて聴いていますが、やはり熟練した人の演奏は胸を打つものがあります。
 堅田氏の小鼓独奏曲「重陽」を聴いていて、初めは小走りに打ち出すのですが、やがて強・弱のふくらみのある響きが現れ、微妙な間を取って、打ち上げられていきます。この「間」の何という素晴らしさなのでしょう。また聞こえるか聞こえないか分からない程の微弱な音で有りながら、しっかりと打たれているというのも、「見事!」としか、言いようがありません。「ヨォ~ォッ 」「イョーッ・オォーッ・オーッ」「ヨホッ」いう様々なかけ声もただならぬ思いを伝えてきます。何故なのでしょう。この精神性の高さというか気品というか、貴族や身分の高い武士の間で伝えられて来ただけあって、私には、本当に近寄りがたい、けれども心が無限の宇宙を浮遊するような心地良さや、水分の多い瑞々しい空気をタップリと呼吸する安らぎが感じられて、とても気持良く、知らないうちに背筋がシャンとしているようです。
 「豊かな音と、凜としたかけ声にのせて、自分の心を思う人に届ける」そんな言葉にならない思いを伝える技に、うっとりしてしまいます。
 私は邦楽鑑賞も全くの素人ですが、多くの人の心を打つ響きには、矢張り同じように感動します。日本では古来から、奇数を「陽」、偶数を「陰」として、「陽」の重なった日を節句として、祝います。その「陽」の重なりで最も数の多いのが九月九日ですから、これを「重陽の節句」として祝いました。菊の季節なので、菊の節句、として祝い、宮中では「菊花の宴」が催されたそうです。
 その言葉から想を得て、邦楽の作曲家の第一人者であった杵屋正邦氏(故人)が堅田喜三久氏のために作曲したものだそうです。堅田氏はアメリカなど、海外の活動も広く行い、私には得難い機会でした。座して名演奏が聴ける幸せな時代になりました。
 以前は自分の本や音楽CDは、自分のものとして買う物でしたが、今はすっかり図書館で借りるものになりました。本当に幸せな時代です。
 本音を言えば、私もこの年ではありますが、鼓を習って、心の修行に励みたい気持があります。でも、肩が痛くて、鼓すら肩に載せられないのでは、と思いますし、第一音痴で、リズム感も悪いので、そんな訳にはいかないと諦めています。
 高齢であることに、また生まれ持った才能が無いことに気付き、現実に戻ってしまいましたが、聴く人があって、初めて名演奏も生きて来るのだと思えば、こんな私でも、存在することの意味は有るのかと思っています。

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