地震と原発のニュースに明け暮れている毎日ですが、余りに悲惨な映像や、怖いよ怖いよという原発のニュース解説に身も心も疲れ果てて来ました。そういう状態の中にあって、季節は確実に移っていて、気付かぬ内に春の花が開いていたりします。被害に遭われた方達や、その対応に日々追われている人達には季節の移ろいなど関心を持つ心の余裕など無いことでしょう。しかし国民全体が縮こまってしまって、全くの沈滞ムードで過ごすことが、被災者や国にとって良いことだともいえないように思います。
災害当初、即刻家族で義援金を出しましたが、その後家計を預かる者として、毎日幾ばくかを、再びの義援金の為に貯めています。復興には何年も掛かり、一回の義援金で済むとも思えません。ごく僅かでしかありませんが、今日も一日何とか健康で過ごせたことへの感謝の気持を込めて、今まで様々な形でお世話になった社会への恩返しに、と思っています。
それにしても被災者の皆さんは、どの様なテレビ番組をご覧になっておられるのでしょうか。直接の被害もなく、健康であった私でさえ、これだけ悲惨な情景を毎日毎日見ている内に、元気が無くなったのですから、同じ映像を見続けておられるとしたら、心の傷は深まるばかりで、今後の不安は一層増大するのではないかと案じられます。
時折は、昔のことでも想い出したり、咲き始めた花に心を寄せたりして、ストレスから心を解放してあげることが大切ではないかと思うのです。世界からの励ましのメッセージの特集とか、心を慰める音楽とか、人間の優しさに心を打たれる名画とか、もっと心を癒し元気付けてあげられる放送が必要な気がします。
そんな気持もあって、今日は少し現実から離れて昔の想い出にしたいと思います。間もなく私のふる里の祭りの日がやってきます。もうお墓参りしか縁の無いふる里ですが、毎年きょうだいの誰かから「間もなく祭りの日が来るね」とか「今年の祭りは良いお天気だったね」とかメールが届いたりします。
私が小学校に入学する前に、空襲を逃れてふる里に戻って住むことになったのですが、小さな集落にそれぞれにこぢんまりした神社があり、小さいながら舞の舞台も付いていました。宵宮からお店も出て、僅かなお小遣いを握りしめて、おもちゃを買ったりしました。祭りの当日は、その舞台で鯛釣りとか、ヒョットコなど、集落の踊り上手が、毎年踊っていました。
釣れそうで釣れない鯛釣りがなかなかに面白く、最後には舞台の下に控えている人が、鯛釣りを舞っている人の垂らした針の先に、描かれた大きな鯛を付けてやっていました。釣り上げた鯛を肩にして、意気揚々と引き揚げていく鯛釣りの様子に、上手いなあと何時も満足して観ていたものです。
ヒヨットコのひょうきんな事と云ったら、もう笑い出したら止まらないという状態でした。鄙びた娯楽でしたが、心の温かい想い出ではあります。
ふる里の家から1.5キロ程離れた、私の中学校のある町(現在はどちらも市になっています)では、稚児の舞や現在では無形文化財の大人の舞もあり、それは美しく優雅な一日が楽しめます。母の妹(叔母)が住んでいましたので、良くおよばれして、終日神社へ詰めて楽しみました。
私は祭りには決まって出る、あのフワフワとした綿飴がとても食べたかったのですが、両親が大道で造る綿飴は不衛生だといって買って貰えませんでした。ずっと長い間とても残念に思っていたものです。後に私が親になって、私達の子供をお祭りに連れて行くようになると、早速綿飴を買ってやり、私も三十歳を過ぎてから、生まれて初めて食べて見ました。その頃には衛生にも気を遣い、周りをビニルで覆っていました。フワフワな飴は、なめると瞬く間にしぼんで、大して甘くもなく、憧れていたものとは大きな違いでした。今考えてみると可笑しいような我ながらいじらしいような懐かしい想い出です。
現在の住む市では、三日ほどに渡って大きな夏祭りのあるところが近くにあって、子供達と毎年出かけて、決まって金魚掬いを楽しんだり、お化け屋敷に入って、さして怖くもないお化けを笑ったり、混雑している夜店を冷やかして歩きました。掬って来た金魚や、買ってきた緑亀は、毎年幾日か育てている内にみんな死んでしまいました。子供達はお墓を造って埋めてやり、墓標を建てて花を供えたりしました。そういった小動物のお墓には、今もヒヤシンスが植えてあり、丁度今紫の花が美しく咲いています。
この金魚や亀や生まれたばかりのひよこなど、私の子供達が世話をしたことに何かしら縁のようなものを感じて、ヒヤシンスが咲くたびに綿飴のこと、夏祭りの風景、そして無邪気な顔に目を輝かせていた幼い日の子供達の面影が浮かんでくるのです。
祭りにはいつもヒョットコ踊りゐし剽軽(ひょうきん)なりし人も逝きたり
香具師(やし)の口上夜店の楽しみ大花火同郷の夫と偲ぶふる里
篠笛の甦りくる里神楽(さとかぐら)笑ひさざめく時の幻 (全て某誌、紙に掲載)
災害当初、即刻家族で義援金を出しましたが、その後家計を預かる者として、毎日幾ばくかを、再びの義援金の為に貯めています。復興には何年も掛かり、一回の義援金で済むとも思えません。ごく僅かでしかありませんが、今日も一日何とか健康で過ごせたことへの感謝の気持を込めて、今まで様々な形でお世話になった社会への恩返しに、と思っています。
それにしても被災者の皆さんは、どの様なテレビ番組をご覧になっておられるのでしょうか。直接の被害もなく、健康であった私でさえ、これだけ悲惨な情景を毎日毎日見ている内に、元気が無くなったのですから、同じ映像を見続けておられるとしたら、心の傷は深まるばかりで、今後の不安は一層増大するのではないかと案じられます。
時折は、昔のことでも想い出したり、咲き始めた花に心を寄せたりして、ストレスから心を解放してあげることが大切ではないかと思うのです。世界からの励ましのメッセージの特集とか、心を慰める音楽とか、人間の優しさに心を打たれる名画とか、もっと心を癒し元気付けてあげられる放送が必要な気がします。
そんな気持もあって、今日は少し現実から離れて昔の想い出にしたいと思います。間もなく私のふる里の祭りの日がやってきます。もうお墓参りしか縁の無いふる里ですが、毎年きょうだいの誰かから「間もなく祭りの日が来るね」とか「今年の祭りは良いお天気だったね」とかメールが届いたりします。
私が小学校に入学する前に、空襲を逃れてふる里に戻って住むことになったのですが、小さな集落にそれぞれにこぢんまりした神社があり、小さいながら舞の舞台も付いていました。宵宮からお店も出て、僅かなお小遣いを握りしめて、おもちゃを買ったりしました。祭りの当日は、その舞台で鯛釣りとか、ヒョットコなど、集落の踊り上手が、毎年踊っていました。
釣れそうで釣れない鯛釣りがなかなかに面白く、最後には舞台の下に控えている人が、鯛釣りを舞っている人の垂らした針の先に、描かれた大きな鯛を付けてやっていました。釣り上げた鯛を肩にして、意気揚々と引き揚げていく鯛釣りの様子に、上手いなあと何時も満足して観ていたものです。
ヒヨットコのひょうきんな事と云ったら、もう笑い出したら止まらないという状態でした。鄙びた娯楽でしたが、心の温かい想い出ではあります。
ふる里の家から1.5キロ程離れた、私の中学校のある町(現在はどちらも市になっています)では、稚児の舞や現在では無形文化財の大人の舞もあり、それは美しく優雅な一日が楽しめます。母の妹(叔母)が住んでいましたので、良くおよばれして、終日神社へ詰めて楽しみました。
私は祭りには決まって出る、あのフワフワとした綿飴がとても食べたかったのですが、両親が大道で造る綿飴は不衛生だといって買って貰えませんでした。ずっと長い間とても残念に思っていたものです。後に私が親になって、私達の子供をお祭りに連れて行くようになると、早速綿飴を買ってやり、私も三十歳を過ぎてから、生まれて初めて食べて見ました。その頃には衛生にも気を遣い、周りをビニルで覆っていました。フワフワな飴は、なめると瞬く間にしぼんで、大して甘くもなく、憧れていたものとは大きな違いでした。今考えてみると可笑しいような我ながらいじらしいような懐かしい想い出です。
現在の住む市では、三日ほどに渡って大きな夏祭りのあるところが近くにあって、子供達と毎年出かけて、決まって金魚掬いを楽しんだり、お化け屋敷に入って、さして怖くもないお化けを笑ったり、混雑している夜店を冷やかして歩きました。掬って来た金魚や、買ってきた緑亀は、毎年幾日か育てている内にみんな死んでしまいました。子供達はお墓を造って埋めてやり、墓標を建てて花を供えたりしました。そういった小動物のお墓には、今もヒヤシンスが植えてあり、丁度今紫の花が美しく咲いています。
この金魚や亀や生まれたばかりのひよこなど、私の子供達が世話をしたことに何かしら縁のようなものを感じて、ヒヤシンスが咲くたびに綿飴のこと、夏祭りの風景、そして無邪気な顔に目を輝かせていた幼い日の子供達の面影が浮かんでくるのです。
祭りにはいつもヒョットコ踊りゐし剽軽(ひょうきん)なりし人も逝きたり
香具師(やし)の口上夜店の楽しみ大花火同郷の夫と偲ぶふる里
篠笛の甦りくる里神楽(さとかぐら)笑ひさざめく時の幻 (全て某誌、紙に掲載)