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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心を揺さぶる名画との出会い

2009年03月23日 | 随筆・短歌
 私達夫婦は映画が好きです。特に夫は学生時代からの大ファンで、退職してから暫く経ってからというもの、毎週テレビ番組の雑誌を買って来ては、テレビの番組を詳しく調べ、夜の七時のニュースの後は、見るべき番組の無い日とか、番組の空き時間に映画を見ます。 予め取り溜めたビデオであったり、それが無い場合は一週間分、まとめて近くのレンタルビデオ屋からDVDを借りてきて見ています。平均して一週間に3~4本位借りるでしょうか。
 良い映画は何回みても感動し、それが実話の場合には尚更繰り返し見たりします。古い映画でも良いものは何度見ても感動します。特に心に残る作品に、「ビューティフルマインド」「クレーマー・クレーマー」「東京物語」「人間の条件」などがあり、三回以上は見ました。皆さんにもなじみ深いものかも知れませんが。
 始めは何だか夜の時間をテレビと映画で過ごす事は、勿体ないような気がしていた私ですが、今ではすっかり虜になってしまい、借りる映画の選定も二人でするようになってしまいました。
 ラッセルクロウが主演の「ビューティフル・マインド」は経済学者の主人公を支えて来た夫人の、実に忍耐強い大きな愛に依って、度々襲う統合失調症の幻覚、幻聴を乗り越えてノーベル賞を手にする実話ですが、本当に涙無しでは見られません。
 最近のアメリカでは、直ぐに離婚するケースが増え、再々婚も珍しく有りません。或る意味では大人の身勝手で、子供達が犠牲になっている状態とも言え、それによって青少年の犯罪が増えているとも思えます。「クレーマー・クレーマー」の美しい父子の愛にも泣かされました。片親でも、強い愛に包まれて育つ子供は、きっと立派に成人すると思っています。
 日本も少しずつアメリカナイズされて来て、離婚が増え、青少年の犯罪や犯罪の低年齢化が云われる様になって来て心が痛みます。
 困難にぶつかった時や病める時こそ、お互いが助け合って乗り越えて行くのが夫婦の筈なのですが、それには愛情と忍耐力が必要です。そういった事を、良い映画は噛みしめるように教えてくれて、我と我が身の生き方まで教えられる思いです。
 映画は私達にとって、愛情のすばらしさや、勇気の美しさ、ほのぼのとした癒しなど、加えてスリルとサスペンス等日頃不足しがちな感情を引き出してくれる有り難い存在になっています。   
 どの様な時間をもって一日を過ごすか、それは各人各様ですし、ひいては人生を左右することに繋がっていくわけですが、昼間はテレビと関係なく過ごすことの多い私達には、「映画って実にいいものですね」という映画評論家の声が聞こえて来るようです。

 モーガン・フリーマンの柔和な瞳に引き込まれ映画に融け入る冬の一人居
                    (実名で某誌に掲載)
          

義父の願(がん)かけ

2009年03月22日 | 随筆・短歌
 夫の父は大変真面目で、筋道の通らない事には妥協しない人でした。義母から聞いた話では、義父が学生として、函館高等水産学校(現北海道大学水産学部 )に通っていた頃、青函連絡船から飛び込み自殺を図った事があったそうです。実行には移されませんでしたが、余程の悩みや苦しみが有ったのでしょう。
 その後四国の金比羅様に願を掛けたのだそうです。何を願掛けしたのか、一生話しませんでしたので誰も知りませんでした。
 結婚をし、子供二人を育てながら、文部省に一時勤めていた義父が、厳しい勤めに耐えられず、樺太のある旧制中学校に赴任して、やっと平和な生活が出来たと思ったのに、終戦で自分一人抑留されて樺太に残り、家族を田舎の生家へ帰しました。
 やがて幾多の苦難の後、自分も帰って来る事が出来たのですが、子供の頃小児結核を病んで、身体が弱かった私の夫を育てるのにも、苦労したようです。
 私達が結婚して後、今住んでいる所に土地を買い、子供も生まれる事になったので、家は義父が建ててくれて、以来私達は義父母と同居になりました。
 孫の育児を積極的に手伝ってくれた義父は、孫に手が掛からなくなった頃、人生の苦悩から解放されたのでしょうか、四国の金比羅様へ願を解きに行きました。
 本四架橋のない頃でしたから、船で四国に渡り、矢張り船で東京湾へ回って帰って来ました。「是非とも行って来たい」と口癖のように云っていましたので、さぞホットした事でしょう。それ以後、それ程遠くへ出かける旅行はしませんでした。
 義父母が亡くなってから、私達は、四国遍路の旅に出かけ、金比羅様へもお参りに行きました。義父が昇った階段を一段一段昇りながら、願を掛けに来た時、解きに来た時の義父を偲びました。
 家族思いの優しい義父でした。お彼岸には、義母に習った漉餡や胡麻のおはぎを作って食べるのが我が家の習慣となって、もう二十年も続いています。買ってくれば簡単なのですが、それでは亡き義父母を偲ぶよすがとならないような気がするのです。

  願解きに金比羅参りをしたる亡父いかなる願かつひに云はざりき
                 (実名で某紙に掲載)

子供からのプレゼント

2009年03月20日 | 随筆・短歌
 何処の家庭でも子供から親へのプレゼントは、まだ子供が小さい頃からいろいろとあった事と思います。幼稚園の頃は、母の日や父の日の似顔絵や、女の子からは手紙や紙の人形、男の子からは、一生懸命に手作りされたペンダントだったり、父親には感謝状といったものなど、それはそれは子供らしい発想で作られていて、親にとっては何時までも心に残る嬉しいプレゼントでした。
 成長してから、特に心に残っている嬉しかったものの一つに、銀婚式を祝う真っ赤なバラを25本、娘と息子が共同で届けてくれた事です。
 自分たちさえ忘れていて祝う計画もなかったのに、こっそり準備してくれていた事が今も忘れられません。形だけのプレゼントではなく、心の籠もったプレゼントは、どんなに小さなものでも、その心が伝わってきて、温かさに胸を打たれるのです。成長したのだなあと、様々なプレゼントを受け取る度にしみじみと思ったことでした。
 還暦の祝いとか旅行土産とか、折々のプレゼントのカーディガンやマフラー小倉織の小物入れ等、使う度に温かさを思い出して嬉しい思いをしています。きっとどちらの親ごさんも同じような思いをお持ちのことと思います。
 子供はすっかり親を越え、今では教えられたり労られる立場になってしまいました。それもまた、親にとってはこの上ないプレゼントです。
 
   吹雪く日は亡き子の買ひ呉れしカーディガンわれを抱くごと深々と着る 
    他人(ひと)の痛み察して赦す人であれ子に諭されて我が老いを知る
                          (実名で某雑誌に掲載)

介護保険と介護施設

2009年03月19日 | 随筆・短歌
 私の二人の妹は、90歳を越えた老人を抱えて、その介護に日夜努力しています。私も夫の両親と同居していましたので、介護の経験があります。二人の妹の心の籠もった介護を見ていて、私にはこのようにこまやかな心遣いが出来ていたただろうか、と時折反省しています。どちらも施設に入居している訳ではなく、一人は夫も病身の為、デイサービスとショートスティを使いながら、もう一人はかり離れている老親に、日々のおかずを運んだりしながら何とか過ごしている状態です。介護は日々厳しくなるばかりですから、この先が案じられます。
 もうじき後期高齢者になる私達には、その介護を見たり聞いたりしながら、とても気がかりな事があります。それは、私達が老いて介護施設に入居したくなった時、果たして充分な介護施設が整っているか、と云う事です。
 現在は介護保険料を支払いながら、介護施設は何百人という単位で入居待ちの状態だと聞きます。同じ保険料を支払いながら、介護施設に入れる人と入れない人が居て、家に介護してくれる人が居ない場合は、一体どうなるのでしょう。
 多くの老人と、その介護者が不安に思っている事だと思います。私達の市では、公共の介護施設は作らない方針だそうで、施設は民間に任せ、専ら家庭介護の為のヘルパーの派遣が主のようです。
 或る市では、廃校を活用して、介護施設に改造して活用していると聞きました。我が市も大きな市ですが、少子化の波に洗われて、市の中心部でも廃校になっています。何故老人が安心して暮らせる施設に転用出来ないのか不思議です。介護保険料を年金から否応なしに差し引いておいて、後は運の良い人だけしか入居出来ません、と云うのでは、余りに不公平に思います。国民が介護保険料を払うのは義務だというのなら、国はこの不公平を無くして、要望に答える義務があるのではないでしょうか。
 きっと多くの老人が不満を抱えておられる事と思っていますが、声を上げようにも組織を持たない老人にはその力が足りず、時代の片隅で小さくなって暮らしている状態です。
 どの老人も以前は第一線で大いに働き、世の中を支えて来た人達です。そして、今の若い人達もやがて老いてゆくのです。せめて安心して老いる事の出来る、施設の充実を望みたいのです。現在毎日の介護にご苦労されている皆さんの為にも、介護保険料を徴収いるのですから、それに見合ったサービスが出来るようにお願いしたいのです。
 国民が安心して老いていけることの出来る国にするのが、政治の大切な責務だと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。

   介護靴片方いくらと売られをりそを履く人に思いを寄せる
                        (実名で某誌に掲載)

不思議な体験

2009年03月18日 | 随筆・短歌
何ともあり得ないような不思議な体験というものは、誰にも有るものでしょうか。数年前に岡山の後楽園を訪れる機会に恵まれて、私と夫は広々としてなだらかな芝生の公園を歩いて、奥の梅園へ行こうとしていました。丁度左手に孟宗竹の大きな林がある道にさしかかったた時、突然1~2メートル先の目の前に、バサッととても大きな音がして、太い孟宗竹が横倒しに倒れたのです。驚いて足を止めた私達は、辺りを見渡しましたが、誰一人居らず、風も無く、メリメリと折れて倒れて来たのではなく、スパッと切れたというような倒れ方で、それはまるで「此処から先へ行ってはいけない」と警告を発しているようで、暫く二人はその場に立ちすくんでしまいました。
 しかし、迷信を信じる方ではないので、そのまま倒れた竹をまたいで梅林まで行き、何事もなく旅行から帰って来ましたし、身の回りにも何の変化も起きませんでした。もう一度ここを歩いて同じような事が起きるかどうか試して見たいと思っていますが、まだその機会がないままです。
 もう一つは、幻の橋を夫婦二人して見たという体験です。山陰道を南に向かって海沿いに車を走らせて、天橋立を見学し、その日はかんぽの宿但馬海岸豊岡という所に宿泊する予定でした。可成りの距離を走ったので、疲れていたせいも有るかも知れませんが、三原峠辺りで道を間違えてしまって、私達としては橋を越えれば城崎、というところへ出た積もりだったのですが、道が行き止まりになっていて、仕方なく下車して近所の家を訪ね回りました。
 しかし、宿の名前をいっても不思議なことに「知らない」と言う返事ばかりで、仕方なく車を元来た道の方に返しました。その時です。左手の川に橋が架かっているのを確かに見たのです。二人とも「明日はこの橋を渡れば良いのだな」と思ったのでしたが、川沿いに戻っては見たものの、どう行ったらよいのか分からなくなってしまいました。川沿いに走ってみたり、峠の方にかなり戻ってみたり、右往左往している内に気もそぞろになってきました。
 たまたま川の近くに道路工事の人が数人いて、おろおろと車を走らせている私達に「何処へ行きたいのか」と声を掛けて下さったのです。行き先を云うと「今来た道を峠の上迄戻りなさい、此処は海ですよ」とおっしやいました。「えっ、橋がありましたけど」と云いましたら「いいえ此処は海です。橋なんか何処にも無いでしょう」と指さす先には確かに海があるだけで、橋など何処にも見あたりません。
 宿にたどり着いたのは、予定より一時間ほど遅れていましたが、未だ明るさが少し残っていて、本当に助かったとホットしたものです。落ち着いてから、二人して「確かに橋は有ったよね」とお互いに確かめ合いました。しかし良く話してみると、夫は赤い太鼓橋だったというし、私が見たのは薄いグリーンのアーチ型鉄橋の様な橋だったのです。二人共同時に幻視を見たということになるのでしょうか。今だに納得できず、時々話題に上がっています。皆様はどのような体験をお持ちでしょうか。