ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

薩摩紀行(1)ーー知覧に息づく優しい心

2017年08月24日 | 随筆
 人間は何処か不思議な結びつきがあって、出会ったり別れたり、すれ違ったりしているのではないでしょうか。何故その時に其処にいたのか、等と聞かれても説明出来ないのが普通です。
 薩摩(鹿児島県)は私達夫婦には、特に想い出が深く、様々なご縁があるのです。なかでも知覧の特攻平和会館や武家屋敷は、特筆すべきところです。
 10歳で終戦を樺太で迎えた夫と、辛うじて爆撃の街を逃れて田舎の古い家でその日を迎えた私と・・・。それから52年後に、九州一周9日間の個人旅行で鹿児島へ行ったのですが、それまでの経験や交友関係から、知覧特攻平和会館と武家屋敷は欠くことの出来ない場所でした。
 鹿児島市の山形屋デパートの一角にあったバスターミナルから、早朝に一本の枕崎行きのバスがあり、駅近くのホテルから未だ薄暗い道路を歩いてバスに乗りました。一時間半ほど掛かって着いた五月の知覧は、若緑一色に染まった風景が、一層哀しみを感じさせるたたずまいでした。
 石灯籠の並ぶ坂道を登ると、実物の零戦や出撃前夜を過ごしたという三角兵舎などがありました。夫はゼロ戦の前と、特攻英霊芳名の石碑の前で、私は特攻兵の母親のもんぺ姿の像の前での記念写真が、アルバムにあります。知覧というところは、その時代に一気に引き込まれるような雰囲気を持っていました。
 特攻平和記念館内には、特攻隊の兵士の写真(出撃前仔犬と遊ぶ特攻隊の若者・別れの杯を交わす姿・出撃を見守り手を振る女学生等々)や遺書の数々、様々な遺品が並べられていました。当時は入り口を入って間もなく、特攻隊の様子を語る案内人が居られて、入館者は真剣に聞き、もうそこから涙なしでは居られませんでした。
 解説のテープを借りて見学しましたが、遺書には特攻隊として死んで行く運命を悲しむものは無く、「お国の為に頑張ります」「残していく妻をよろしく」「親孝行出来ず申し訳ありません」などと書かれていました。本当に言いたいことが、書面を透かして見えて来るようで、読むものの心を一層切なく揺さぶります。 
 まだあどけなさを残している20歳未満の兵士の、屈託の無い笑顔が一層哀しく思われました。腕相撲に興じたり、小犬に戯れている無邪気さや、整備兵に感謝の寄せ書きを書く隊員。みな陰りの無い顔で、明るいのです。少年達を待ち受ける、世界に例の無い無謀な死を、少年達は本当に理解していたのか、と真剣にそう思わせられる程に無邪気な顔なのです。
 やがて私の目は特攻隊員への母からの別れの手紙に吸い寄せられました。母親からの別れの手紙は、「お国の為に・・・」でも、「天皇陛下の為に・・・」でもなく、「ただひたすらに南無阿弥陀仏を唱えていきなさい。阿弥陀様の足元でまた会いましょう。」とたどたどしい仮名を連ねて書かれていました。
 我が子を死地に送る悲しみが如何ほどか、時代を超えてもそれは変わりません。せめて阿弥陀様のご慈悲で子供の魂を救おうとするこの言葉は、私の胸に切なく届き、辛くもあり、また限り無く温かくも思えました。
 最近のことですが或るTV番組で、淡谷のり子の歌と想い出を再現する番組がありました。「別れのブルース」などで有名な歌手です。
 その中で或るコンサートの時に、淡谷のり子は主催者にこう告げられたそうです。「この会場には特攻隊員が来ています。途中で席を立つかも知れませんが、それは出撃命令が出た場合ですから、失礼をお許し下さい。」と。「歌手は涙を流しても良いけれど、決して泣いてはいけない」と厳しく教え込まれていた淡谷のり子でした。
 コンサートの途中でその時がやって来ました。静かに席を立つ一団の兵士が現れました。礼儀正しく敬礼をして退場する兵士を見た時に、思わず「すみません泣かせて下さい」と言って、マイクの前にしゃがみ込んで号泣したと言い、その時の様子が映し出されました。見て居た私達も思わず涙しました。
 特攻平和記念館の近くには、小じんまりとしているけれど、庭園の美しい武家屋敷が並んでいます。一軒一軒テープの説明を聞きつつ、奇麗に刈り込まれて咲き始めたサツキや石組みや池のしつらえを丁寧に見学しました。隅々まで手入れの行き届いた美しいお庭で、武家の気品を感じさせられました。
 さて万感胸に迫る思いでこれらの見学を終えた後、帰りのバスに乗りました。丁度高校生の下校時間に重なっていて、当時の世相を映した、茶髪の高校生達が乗ってきてバスは満員になりました。私はこの学生達を、異界から見つめる特攻隊員達は、どんな思いで眺めているだろうか。祖国の繁栄を祈って散った、同年代の彼らは納得出来るだろうか、と複雑な気持ちになりました。
 終戦から52年が経っていました。ところがそれから間もなく、思いがけない場面に遭遇したのです。
 それはそのバスに老女が乗って来た時のことです。例の茶髪にピアスの男子高校生の一人が、サッと席を立って老女に席を譲ったのです。私は思わず感激して見つめてしまいました。その高校生は何事も無かったように、友達と明るく会話している姿を見て、恐らくこの行為は日常的な行為に違いない、と思いました。
 「見捨てたものではない。今もなおこの薩摩の地には、延々と日本人の敬愛の温かく美しい心が引き継がれている」と思ったのです。
 私は今も、あの美しい知覧の茶畑で採れた深い味わいのお茶を古くからの友人に頂いたり、特攻隊員であって出撃しない内に終戦を迎えたために、先立った仲間に申し訳ないと、その後小児科の医師として滅私奉公された人を、夫は今なお尊敬しています。
 「小児科の医師に休みは無い」とお勤めの間中、元日しか休まなかったという有名な医師で、後に院長になられました。
 そのような立派な医師に出会い、「無言館」(長野県にある戦没画学生の作品が飾られている美術館)の画集を頂いたりしました。(無言館への旅は、その後にこのブログにも載せました)私達も車で、ひっそりと建つその静謐な美術館を訪ね、若くして散った兵士の豊かな才能を惜しみつつ、声も無く感動して見学して来ました。
 何年経っても忘れることの出来ない、知覧の旅でした。


 
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