ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

仏像に心をよせる

2012年08月12日 | 日記
 古寺巡りが好きで、仏さま大好き人間だと何時か書きました。最近ある人達と、様々な仏像について話し合う機会がありました。真っ先に一番大好きな仏像についての話になりました。勿論私は、奈良の中宮寺の弥勒菩薩像です。あの優しいほほ笑みに包まれると、心身が陶然とした気分に満たされていくのが不思議です。機会ある毎に訪れています。もう長い間私の一番好きな仏像です。
 友人は、興福寺の阿修羅像だと言いました。私も大好きな仏像の一つです。ずっと以前は、弥勒菩薩と共に、自分の部屋に可成り大きな写真を額に入れて、長く飾っていたくらいです。仏法の守護神と言われていますが、三面六臂の姿、その腕の長さ、微妙に異なる三つの顔が、怒っているのか、泣いているのか、はたまた悲しんでおられるのか、僅かに眉根を寄せた顔立ちは、けがれのない神々しさとも言うべき感じを、見る人に与えます。現物は一層神々しいです。
 他のもう一人は、奈良の聖林寺の十一面観音像だと言いました。私は、この観音像の実物は、まだ見たことがありません。遠くに住んでいる友人もやはり好きだといいますから、一度は見に行きたいと思いつつ、今だに行けないでいます。
 好きな仏像も、年と共に感じ方が変わっていくようです。一般に如来とか、菩薩といった仏像は、ややうつむき加減の目をしておられるので、何時も心静かに眺めて、穏やかな一時を頂きます。 私のような仏像に関する知識の無い人間は、その表情や姿態全体から感じ取られるものと、自分の心のどこかが響き合うときに、取り分け美しいと感じるように思います。その眼から何かを感じることは難しいですし、大方はうつむき加減で、何を見て居られるのかは伺えませんし、目がしっかり見開かれていている仏さまも、遠い表情をしておられます。
 ところが憤怒の形相をした仁王となると、また違います。眼をしっかり見開き、こちらを睨みつけておられます。仁王と言われる像の中で、最も心が引かれるのは、東大寺の南大門の金剛力士像です。その目が私に何を語りかけているのか、年と共に考えるようになりました。以前は、その迫力の美しさ、筋肉一つ、開いた手のありようから体の傾け方まで、全てに神経が行き届き、全く無駄のない美しさにほれぼれとしたのです。でも今は、まるで私の心を見透かすように、じっと見つめられていると、心の底から自分の生き方がこれで良いのかと、つい考えてしまっているのです。
 この仁王は鎌倉時代に出来ていますから、800年を越えて、大仏を守って来ている訳ですが、南大門を通って行き来した多くの人々を見つめてこられていて、「あなたは、人間本来の心をどこかに忘れて来てしまっていませんか」と問いかけられているように思えるのです。そうするとその恐ろしいお顔が、どこか哀しみを湛えているようにも見えてくるのです。
 仏像は、作られた時から、長い時間をそこにじっと居られると思っていましたが、実は年齢によって、感じ方が違うとしたら、仏さまは見る人の年齢に合わせて、生きておられるようでもあります。
 おかしな話になって来てしまいましたが、私が行った寺院を奈良と京都だけに限って、簡単に指折り数えてみましたら、ざっと80くらいになりました。ですから、心に残った寺院も仏像も数多く、浄瑠璃寺、室生寺、法隆寺、新薬師寺、白豪寺・・・などと数え上げたら際限もありません。それぞれに旅の想い出のある寺院であり、仏像であります。
 このような旅の時間が持てたことに、今はとても感謝しています。この先もう行けなさそうだからでもあります。
 奈良や京都の博物館で行われた仏像展などの場合でさえ、思わず手を合わせてしまったことがあります。かれこれ30年近く巡っているわけですが、どんなに眺めても飽きないのが、私には仏像なのです。仏像を静かに眺めながら、心を通わせることは至上の喜びです。

我が存在無視するが如阿修羅像に取り込まれゆく夫(つま)の魂

慈光寺の憤怒の仁王の眼(まなこ)さへ白く晒され哀しく老ゆる
(全て某紙・誌に掲載)