私は今短歌を趣味にしていますが、このような趣味を持つことは予想だにせずに60歳近くまで生きて来ました。その後約20年何故こんな趣味がうまれたのかとても不思議です。私は長く自分を理系人間だと思ってきました。何故なら長兄も弟も理系の大学を出ましたし、私は高校生の頃は、数学については特に何も勉強しないでも済みました。でもその驕りが裏眼に出て
あの入試得意でありし数学の解けざりてある今の幸せ
ということになりました。
苦労したのは英語です。今でも英語が苦手なことを、英語の教師であった父に済まなく思っています。歌を詠み始めて10年位経った頃のものを書き出してみます。
ああすれば良かったこうもしたかった如月二十日娘(こ)は先立ちぬ
玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
近付かんとすれども及ばぬ思いあり遠き信号赤に変わりぬ
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る
秋冷えに息子の入れし茶を飲みぬ萩焼茶碗の無言のぬくもり
用は無いでも元気かと母の電話会いに行くべし私も独り
職を退き自由な身分になりましたのに、娘が先だってしまいした。義母が逝き義父が逝き母も逝って、介護から離れてなんでも出来る時間が生まれましたが、しばらくは何も手に付かずぼんやりとしていたのでした。
そんな時、夫が「そんなに暇なら短歌でも詠んでみたら」と庭から顔を向けて、居間にいた私に声を掛けたのです。それではとばかりに、ノートを取り出して短歌を作り始めました。短歌の本を買ったり、図書館で短歌の本に良く目を通すようにもなりました。
ただ詠んでばかり居ても・・・、と日頃読んでいる新聞に投稿を始めました。三ヶ月は出さなければ採って貰えないと聞いていましたので、せっせと出していました。暇な私のつたない短歌てすから、入選する等とは思ってもみなかったのです。ところが丁度三ヶ月目の頃に
身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花
を馬場あきこ先生に採って頂いて新聞の歌壇に載ったのです。大変驚いてショックを受けました。それは嬉しくもあり「ひょっとして私に短歌の素質が遺伝しているのかしら」と思いました。驚きはまだ続きました。その翌月には
いかに生きんいかに生きんか書を読みて出口の見えぬ夜は更けゆく
を採って頂きました。私達夫婦は、その頃は未だ短い旅が始まったばかりでしたが、長野県安曇野へ行った時、大王わさび園での
わさび田の透明な流れに吹く風は微かに渦巻き溶け入る静かさ
あれこれと心引き裂くことありてアダージョを聞くこんな夕暮れ
の二首を、もう一人の選者であった宮英子先生に採って頂いたのでした。
夫と二人で何時もウォーキングをしていましたので、道々歌がポロリと生まれることがありました。ある時
ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚
という短歌が不思議にすらすらと生まれました。夫は名詞が並ぶ「浴衣桐下駄綿飴金魚」がいけないと歩きながら言いました。浴衣は姉妹が毎年夏には背の丈に合わせて母が縫ってくれましたし、桐下駄もお盆には父が一人一足ずつ新しく買って来てくれました。綿飴は祭りの屋台で買って貰いたかったのに、「不潔だから」と買ってもらえなかった子供時代のあこがれであり、金魚は私達の子供に祭りの夜店で良く買ってやり、何故か短い命で子供たちの作るお墓に納まったものでした。四つの名詞の音の感じも良いと思って「これでいいの。これでも纏まったのだから。」といとも簡単にハガキに書いてNHKの歌壇に投稿したのでした。
思いも掛けず、ある日NHKから電話があり、あなたの投稿短歌を放送すると知らせて来ました。当日はテレビの前に夫と二人で緊張して待っていました。最後の頃に選者の岡井隆先生がこの歌を何と第二席に選んで下さったのです。あまりの出来事に急に胸がドキドキと早鐘を打ち始め、夫も「ドキドキしてきた。これは寝た方が良さそうだ」と言うので、早々に寝てしまいました。何とも不思議な経験でした。
このNHKの短歌の入選で私は少し自信を持ち、それがきっかけとなって、本格的に短歌との長い付き合いが始まったと言えます。
NHKや各種の全国大会・日本経済新聞等の新聞・子規記念館の短歌会他、様々な大会等に気が向くままに投稿するようになりました。先日の日本経済新聞に、三枝昂之先生に採って頂いた「こんなにも哀しき碧か殉教の魂吞みし外海(そとめ)の海は」で、計527首が入選したりして活字になりました。長崎の外海の遠藤記念館は、見たこともない素晴らしいコバルトブルーの空と海を背景にして、静かに建っていました。「沈黙の碑」を感慨深く眺めました。遠くまで出かけて来た甲斐がありました。
老いるとは不安を生きることなりと母のことばをしみじみ思ふ
ありがたうしあわせだったと亡母(はは)の歌眼鏡ケースにたたみてありぬ
私は夫の両親と暮らしていましたので、実母とは少し離れて暮らしており、良く逢いに通って話相手になっていました。母は女学校の頃に和歌を学び、友人との手紙の最後に、良くスラスラと一首したためていました。その頃の私にはとても不思議な光景でした。
短歌ノートの最初の頃は、アダージョ1と2とモーツアルトのアダージョ等のクラシックのCD等を買って来て、嬉しいにつけ悲しいにつけ聞きながら過ごしていました。やがて夫が退職して、あちこち旅行に出かけるようになり、子供たちが成人し、結婚し、やがて娘が亡くなり・・・、と様々な歴史が歌い込まれています。
新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝
一針づつ愛を編み込みしセーターが茶箱の隅に古びてありぬ
仏舎利を拾うが如く玉石を桂浜に拾う遍路となりて
ヘッドホンにアダージョ聴きつつ読む本の薄きがなかなか終わらぬ雪の夜
今宵また亡き娘(こ)のカーデガン羽織っている心の寒い日は殊更に
躓(つまづ)いて転ばぬやうにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅に出で来ぬ
私の何処が誰の遺伝子をついで来たのかは不明ですが、今は引き継いで来た様々な遺伝子に感謝しています。
進化してネコのあなたとヒトの吾四十億年受け継ぐ命
魚でありし遺伝子残るか体感に水の流るる音心地良き
日もすがら話しかけをり紫陽花に娘(こ)の在りし日を偲ぶ庭先
中空の月に語らふ老い二人話の終わりは決まって亡き娘
東慶寺の墓地に会ひたる黒き蝶わが石池に再び逢ひぬ
世の中は参院選挙戦がスタートしたところです。私達が聞きたいのは、他党の誹謗ではなく、政策や国家観です。
次世代に原発といふ負の遺産残して逝くを如何に詫ぶべき
私は原発を作らなかったドイツに学びたかったと、今もそう思っています。
短歌は全て約20年の短歌歴の中で、呻吟して生まれて来たものであり、二冊の入選歌を書き留めたノートは、その時代の出来事や生き方が手に取るようで、苦しくもあり楽しくもあり、私のそして我が家の悲喜こもごもの歴史であります。(それぞれの短歌は、新かなと旧かなが入り交じっていますが、投稿のままになっています。)
あの入試得意でありし数学の解けざりてある今の幸せ
ということになりました。
苦労したのは英語です。今でも英語が苦手なことを、英語の教師であった父に済まなく思っています。歌を詠み始めて10年位経った頃のものを書き出してみます。
ああすれば良かったこうもしたかった如月二十日娘(こ)は先立ちぬ
玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
近付かんとすれども及ばぬ思いあり遠き信号赤に変わりぬ
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る
秋冷えに息子の入れし茶を飲みぬ萩焼茶碗の無言のぬくもり
用は無いでも元気かと母の電話会いに行くべし私も独り
職を退き自由な身分になりましたのに、娘が先だってしまいした。義母が逝き義父が逝き母も逝って、介護から離れてなんでも出来る時間が生まれましたが、しばらくは何も手に付かずぼんやりとしていたのでした。
そんな時、夫が「そんなに暇なら短歌でも詠んでみたら」と庭から顔を向けて、居間にいた私に声を掛けたのです。それではとばかりに、ノートを取り出して短歌を作り始めました。短歌の本を買ったり、図書館で短歌の本に良く目を通すようにもなりました。
ただ詠んでばかり居ても・・・、と日頃読んでいる新聞に投稿を始めました。三ヶ月は出さなければ採って貰えないと聞いていましたので、せっせと出していました。暇な私のつたない短歌てすから、入選する等とは思ってもみなかったのです。ところが丁度三ヶ月目の頃に
身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花
を馬場あきこ先生に採って頂いて新聞の歌壇に載ったのです。大変驚いてショックを受けました。それは嬉しくもあり「ひょっとして私に短歌の素質が遺伝しているのかしら」と思いました。驚きはまだ続きました。その翌月には
いかに生きんいかに生きんか書を読みて出口の見えぬ夜は更けゆく
を採って頂きました。私達夫婦は、その頃は未だ短い旅が始まったばかりでしたが、長野県安曇野へ行った時、大王わさび園での
わさび田の透明な流れに吹く風は微かに渦巻き溶け入る静かさ
あれこれと心引き裂くことありてアダージョを聞くこんな夕暮れ
の二首を、もう一人の選者であった宮英子先生に採って頂いたのでした。
夫と二人で何時もウォーキングをしていましたので、道々歌がポロリと生まれることがありました。ある時
ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚
という短歌が不思議にすらすらと生まれました。夫は名詞が並ぶ「浴衣桐下駄綿飴金魚」がいけないと歩きながら言いました。浴衣は姉妹が毎年夏には背の丈に合わせて母が縫ってくれましたし、桐下駄もお盆には父が一人一足ずつ新しく買って来てくれました。綿飴は祭りの屋台で買って貰いたかったのに、「不潔だから」と買ってもらえなかった子供時代のあこがれであり、金魚は私達の子供に祭りの夜店で良く買ってやり、何故か短い命で子供たちの作るお墓に納まったものでした。四つの名詞の音の感じも良いと思って「これでいいの。これでも纏まったのだから。」といとも簡単にハガキに書いてNHKの歌壇に投稿したのでした。
思いも掛けず、ある日NHKから電話があり、あなたの投稿短歌を放送すると知らせて来ました。当日はテレビの前に夫と二人で緊張して待っていました。最後の頃に選者の岡井隆先生がこの歌を何と第二席に選んで下さったのです。あまりの出来事に急に胸がドキドキと早鐘を打ち始め、夫も「ドキドキしてきた。これは寝た方が良さそうだ」と言うので、早々に寝てしまいました。何とも不思議な経験でした。
このNHKの短歌の入選で私は少し自信を持ち、それがきっかけとなって、本格的に短歌との長い付き合いが始まったと言えます。
NHKや各種の全国大会・日本経済新聞等の新聞・子規記念館の短歌会他、様々な大会等に気が向くままに投稿するようになりました。先日の日本経済新聞に、三枝昂之先生に採って頂いた「こんなにも哀しき碧か殉教の魂吞みし外海(そとめ)の海は」で、計527首が入選したりして活字になりました。長崎の外海の遠藤記念館は、見たこともない素晴らしいコバルトブルーの空と海を背景にして、静かに建っていました。「沈黙の碑」を感慨深く眺めました。遠くまで出かけて来た甲斐がありました。
老いるとは不安を生きることなりと母のことばをしみじみ思ふ
ありがたうしあわせだったと亡母(はは)の歌眼鏡ケースにたたみてありぬ
私は夫の両親と暮らしていましたので、実母とは少し離れて暮らしており、良く逢いに通って話相手になっていました。母は女学校の頃に和歌を学び、友人との手紙の最後に、良くスラスラと一首したためていました。その頃の私にはとても不思議な光景でした。
短歌ノートの最初の頃は、アダージョ1と2とモーツアルトのアダージョ等のクラシックのCD等を買って来て、嬉しいにつけ悲しいにつけ聞きながら過ごしていました。やがて夫が退職して、あちこち旅行に出かけるようになり、子供たちが成人し、結婚し、やがて娘が亡くなり・・・、と様々な歴史が歌い込まれています。
新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝
一針づつ愛を編み込みしセーターが茶箱の隅に古びてありぬ
仏舎利を拾うが如く玉石を桂浜に拾う遍路となりて
ヘッドホンにアダージョ聴きつつ読む本の薄きがなかなか終わらぬ雪の夜
今宵また亡き娘(こ)のカーデガン羽織っている心の寒い日は殊更に
躓(つまづ)いて転ばぬやうにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅に出で来ぬ
私の何処が誰の遺伝子をついで来たのかは不明ですが、今は引き継いで来た様々な遺伝子に感謝しています。
進化してネコのあなたとヒトの吾四十億年受け継ぐ命
魚でありし遺伝子残るか体感に水の流るる音心地良き
日もすがら話しかけをり紫陽花に娘(こ)の在りし日を偲ぶ庭先
中空の月に語らふ老い二人話の終わりは決まって亡き娘
東慶寺の墓地に会ひたる黒き蝶わが石池に再び逢ひぬ
世の中は参院選挙戦がスタートしたところです。私達が聞きたいのは、他党の誹謗ではなく、政策や国家観です。
次世代に原発といふ負の遺産残して逝くを如何に詫ぶべき
私は原発を作らなかったドイツに学びたかったと、今もそう思っています。
短歌は全て約20年の短歌歴の中で、呻吟して生まれて来たものであり、二冊の入選歌を書き留めたノートは、その時代の出来事や生き方が手に取るようで、苦しくもあり楽しくもあり、私のそして我が家の悲喜こもごもの歴史であります。(それぞれの短歌は、新かなと旧かなが入り交じっていますが、投稿のままになっています。)