坂村真民という詩人をご存知の方は多いかと思います。1909年に熊本県に生まれ、教職にあった人であり、2006年に亡くなられる迄に多くの詩を残しました。やさしく解りやすい詩で、生きてゆく人間にとって、心のより所となる詩です。このブログでも折々掲載させて頂きました。
私がこの人の詩に出会ったのは、鎌倉の円覚寺のホームページでありました。現在日本仏教会の副会長をされている、鎌倉の円覚寺管長の横田南嶺老師が、折りに触れて法話などで紹介されています。
以前から私は「人間だもの」を書いた相田みつをが好きで、何度も読み、彼の著作集を愛読書にしていました。
しかし、インターネットで、横田南嶺老師の「日曜説法」やブログで、度々坂村真民の詩をお聞きしたり拝見して、心を打たれてすっかりファンになりました。南嶺老師の日曜説法は、特別の行事が無い限り、毎月第2第4の日曜日に行われ、それがネットで聞かれるようになっています。今では円覚寺の会場に入りきらない人たちが、遠くからも集まっているそうです。
横田南嶺老師については、去年鎌倉の東慶寺から円覚寺へ行った時のことをこのブログに書きましたが、その日は、たまたま開祖の無学祖元の忌日に当たり、目の前に南嶺老師の後ろ姿を拝見して、とても感動しました。ブログ「居士林だより」をお気に入りに入れて毎日読んだりお聞きしたりしています。
すっかり心を捉えられた坂村真民の詩集「念ずれば花ひらく」(サンマーク出版)という詩集を中心に、幾つかをご紹介しつつ、今回は進めていきたいと思います。
先頃高倉健さんが亡くなられ、今日もテレビでは、追悼番組を放映しています。夫も録画しました。
花 坂村真民
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びが残るのだ
高倉健さんに対しても同じように思われます。重厚な演技を通して、高倉健のイメージを観衆の脳裏に焼き付けて、静かに去っていかれました。演技派俳優として、大勢の人々に惜しまれつつ、逝かれたことに、深い喪失感を覚えています。素晴らしい演技を通して、多くの感動を頂きました。ご縁に感謝して、ずっとファンでいたいと思います。
「一道を行く」坂村真民一日一言(致知出版社)12月の表紙
12月3日 いきいきと生きよ
「生きている間は、いきいきとしていなさい」これはゲーテの言葉のなかで、もっとも好きな言葉だが、仏教渡来以前の日本人は、本当に明るくいきいきと生きていたのであろうと思う。私はそういう人が好きである。(中略)
もう一つの好きな言葉を挙げておこう。「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」
私はこれを読んで、とっさに落ちこぼれそうな気がしました。でも良く考えてみると、皆そうして生きているのですね。あしたは必ず来ると、約束それているものではありませんから。
あるがままに 坂村真民 「念ずれば花ひらく」から、以下も同じ
才なき人は才なきままに
処するのがよい
花にたとえるなら侘び助のように
鳥にたとえるならみそさざいのように
おのれの花を咲かせ
おのれの歌を歌い
嘆かず訴えず
なにごともあるがままに
生きるのが一番よい
我が家の玄関脇の侘び助も、今が盛りです。義母が「淋しそうな花だけれども、良い花ね」と咲く度に私に言っていました。土曜日のフイットネスの帰りにふと思い出し、一枝折って小さな花瓶に挿して仏前に供えました。侘び助は、一輪差しに、まだ咲き始めの一輪のみを挿すのが、一番だと思います。
一輪の花のごとく 坂村真民
わが生よ
一輪の花のごとく
一心であれ
我が死よ
一輪の花のごとく
一切であれ
今を生きる 坂村真民
咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる
私も今を生きていますし、一日に多分何度も「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言います。「行ってらっしゃい」よりも、無事に帰ったことを確認出来る「お帰りなさい」の言葉が好きです。朝は夫のゴミ捨てに出る時、帰った時、から始まって、家族が出掛ける度に、行き帰りに掛ける言葉です。土曜日は、フイットネスの帰り道で、名前は知らないけれど、何時も出会う、笑顔のとても優しい人とのすれ違いに、この言葉を掛けました。
人生は無常ですから、いつ別れが来るか、誰にも解りません。ですから、無事に帰って来たことに、ホットして掛ける「お帰りなさい」という言葉に「ただいま」という言葉が返って来ますが、何気ない言葉のやりとりに、温かい心が行き来します。
私にも詩心があったら、坂村真民のような、温かく優しく、心の奥に届くような詩を作りたいですが、この坂村真民の詩は、仏教に深く裏打ちされていて、一遍上人の教えに心酔てしておられたと聞きました。座禅を組み、無駄な言葉を削ぎ落とした詩ですから、とても心に響きます。ですから到底私には届かない世界の人です。せめて愛読書として、折々読んで学びたいと思っています。
私がこの人の詩に出会ったのは、鎌倉の円覚寺のホームページでありました。現在日本仏教会の副会長をされている、鎌倉の円覚寺管長の横田南嶺老師が、折りに触れて法話などで紹介されています。
以前から私は「人間だもの」を書いた相田みつをが好きで、何度も読み、彼の著作集を愛読書にしていました。
しかし、インターネットで、横田南嶺老師の「日曜説法」やブログで、度々坂村真民の詩をお聞きしたり拝見して、心を打たれてすっかりファンになりました。南嶺老師の日曜説法は、特別の行事が無い限り、毎月第2第4の日曜日に行われ、それがネットで聞かれるようになっています。今では円覚寺の会場に入りきらない人たちが、遠くからも集まっているそうです。
横田南嶺老師については、去年鎌倉の東慶寺から円覚寺へ行った時のことをこのブログに書きましたが、その日は、たまたま開祖の無学祖元の忌日に当たり、目の前に南嶺老師の後ろ姿を拝見して、とても感動しました。ブログ「居士林だより」をお気に入りに入れて毎日読んだりお聞きしたりしています。
すっかり心を捉えられた坂村真民の詩集「念ずれば花ひらく」(サンマーク出版)という詩集を中心に、幾つかをご紹介しつつ、今回は進めていきたいと思います。
先頃高倉健さんが亡くなられ、今日もテレビでは、追悼番組を放映しています。夫も録画しました。
花 坂村真民
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びが残るのだ
高倉健さんに対しても同じように思われます。重厚な演技を通して、高倉健のイメージを観衆の脳裏に焼き付けて、静かに去っていかれました。演技派俳優として、大勢の人々に惜しまれつつ、逝かれたことに、深い喪失感を覚えています。素晴らしい演技を通して、多くの感動を頂きました。ご縁に感謝して、ずっとファンでいたいと思います。
「一道を行く」坂村真民一日一言(致知出版社)12月の表紙
12月3日 いきいきと生きよ
「生きている間は、いきいきとしていなさい」これはゲーテの言葉のなかで、もっとも好きな言葉だが、仏教渡来以前の日本人は、本当に明るくいきいきと生きていたのであろうと思う。私はそういう人が好きである。(中略)
もう一つの好きな言葉を挙げておこう。「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」
私はこれを読んで、とっさに落ちこぼれそうな気がしました。でも良く考えてみると、皆そうして生きているのですね。あしたは必ず来ると、約束それているものではありませんから。
あるがままに 坂村真民 「念ずれば花ひらく」から、以下も同じ
才なき人は才なきままに
処するのがよい
花にたとえるなら侘び助のように
鳥にたとえるならみそさざいのように
おのれの花を咲かせ
おのれの歌を歌い
嘆かず訴えず
なにごともあるがままに
生きるのが一番よい
我が家の玄関脇の侘び助も、今が盛りです。義母が「淋しそうな花だけれども、良い花ね」と咲く度に私に言っていました。土曜日のフイットネスの帰りにふと思い出し、一枝折って小さな花瓶に挿して仏前に供えました。侘び助は、一輪差しに、まだ咲き始めの一輪のみを挿すのが、一番だと思います。
一輪の花のごとく 坂村真民
わが生よ
一輪の花のごとく
一心であれ
我が死よ
一輪の花のごとく
一切であれ
今を生きる 坂村真民
咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる
私も今を生きていますし、一日に多分何度も「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言います。「行ってらっしゃい」よりも、無事に帰ったことを確認出来る「お帰りなさい」の言葉が好きです。朝は夫のゴミ捨てに出る時、帰った時、から始まって、家族が出掛ける度に、行き帰りに掛ける言葉です。土曜日は、フイットネスの帰り道で、名前は知らないけれど、何時も出会う、笑顔のとても優しい人とのすれ違いに、この言葉を掛けました。
人生は無常ですから、いつ別れが来るか、誰にも解りません。ですから、無事に帰って来たことに、ホットして掛ける「お帰りなさい」という言葉に「ただいま」という言葉が返って来ますが、何気ない言葉のやりとりに、温かい心が行き来します。
私にも詩心があったら、坂村真民のような、温かく優しく、心の奥に届くような詩を作りたいですが、この坂村真民の詩は、仏教に深く裏打ちされていて、一遍上人の教えに心酔てしておられたと聞きました。座禅を組み、無駄な言葉を削ぎ落とした詩ですから、とても心に響きます。ですから到底私には届かない世界の人です。せめて愛読書として、折々読んで学びたいと思っています。