ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

豪雪と助け合う心

2016年02月18日 | 随筆
 立春が過ぎましたのに、まだ雪が少し降っています。今日のようにツゲの木や松の枝にふんわり積もった雪は、冬の庭らしい趣があって見ていて飽きません。
 でもひとたび大雪が降ると、たちまち雪掻きの大仕事があり、凍結した道路は転ぶ不安もあって、日常生活をかき乱します。私にはそんな大雪の道で、大変な思いをした経験があります。自然の厳しさが、人々の優しさと共に、今も忘れられない大切な記憶となって甦って来ます。
 今から五十数年ほど前になります。新卒で勤めた所が、最寄りの駅から夏の道を歩いて二時間という距離にありました。勿論バスがありましたが、雪が降ると山あいの道は雪崩が発生して、バスは途中から先は冬期間運休になりました。
 今は雪崩よけの工事も進み、無雪道路になっていますが、当時は冬期間は雪崩の多い難所だったのです。
 雪の怖さ等知らない私でしたので、回りの人達が折りに触れて無知な私を教育して下さいました。
1)リュックを背負い、手荷物は厳禁。深めの長靴にして厚い靴下を二枚はくこと。凍傷を避け、雪が靴の中にまで入らぬように。
2)あめ玉やパンなど必ず非常食をリュックに入れて持つこと。
3)背中にタオルを二枚折りにして入れて歩く。着いたら直ぐに後ろ首から、汗のタオルを抜き取ると風邪を引かない。
4)谷あいの道では、高い所からサラサラと雪がこぼれ落ちて来たら、雪崩の前兆だと思って、前へ進まず立ち止まって様子を見る事。雪崩に埋まってしまったり、深い雪に足をとられて、身動きできなくなって凍死する人もある。
5)雪道ではリュックを降ろして休憩してはいけない。やや腰を曲げてリュックを背負ったまま休み、少し休んだら兎に角前に進むことを考える。大休止すると歩けなくなって凍死することがある。
6)集落の明かりが見えても、そこで休んではいけない。徒歩の人が凍死するのは、「ああやっと付いた、もう大丈夫」と安心して休むからで、さあ立って歩こうと思っても立てないし歩けない。疲れて気付かぬ内に眠ってしまって凍死する人も多い。
7)一人で移動する時は、知り合いの人に事前にいつ頃着くか、電話などで連絡しておくこと。途中の遭難を予想して村人が救助に向かう。
8)紫外線除けのサングラスをはめること、長い雪道では目が眩しくて見えにくく、雪目になったりする。スキーのストックを持って歩くのも良い。等と実に多岐にわたって注意して貰いました。
 私はなるほどと感心して聴いていましたが、雪崩に遭った事もなく、見たこともありませんでしたから、サラサラと音がしたら・・・と言われても、どういう状態なのか、理解出来ませんでした。
 最初のボーナスをはたいて、スキーを一式を整えましたし、同僚や他の学校の女性教師などとよくスキーに出掛けましたから、背中のタオルの便利さや、非常食の有り難さをその頃にはもう身に浸みて知っていました。
 ところがそんなある時、今でいう「どか雪」が降ったことがあったのです。何時もは、土曜の午後に自宅に帰り、日曜日の午後に自宅を出て、夕方迄に勤務地の宿舎に戻るのが常でした。父が雪の降り方に心配して「この雪では、汽車が思う様に動かないかも知れなから、早く発ったらどうか」と言いました。
 私は直ぐに出発し、お昼前には任地の最寄り駅に着く筈でした。でも父の心配通り汽車は遅れに遅れて、夕方近くになってやっと最寄りの駅に着いたのです。それからはバスも通らず、目の前が白一色に塗りつぶされた猛列な降雪の中を、歩いて宿舎に向かうしかありませんでした。時折風が吹くと道路の位置もあたりの景色も白一色になって、判別困難になる程でした。向かい風の原っぱでは、顔面めがけて吹き付ける吹雪のため、呼吸困難になりました。でも道路幅は広く、何とか半分の道のりは無事に進みました。
 いよいよここから谷あいの道に向かうという処にお店がありました。奥の集落の人達が良く立ち寄るお店です。私はフト思い付いて私が勤めている中学校へ電話を入れました。遠く離れた所に家のある学校長が、冬期間は殆ど宿直室で泊まっておられたのです。
 「それは大変だね。いいかい、その集落の外れの家に寄って、身分を名乗り、必ず<かんじき>を貸して貰いなさい。知らない家でも、きっと貸して下さるから。」「懐中電灯は持って居るね。首から提げて身につけて置きなさい。」と忠告して下さいました。
 何だか悲壮な気分になりつつ、集落の外れの家に立ち寄りました。初めてお会いするご婦人でしたが、快く貸して下さり、「気を付けてね」と見送って下さいました。
 雪をかぶって平らのように見える道も、実際に雪の下の道は、馬の背のように、人が歩いた跡だけが小高く固まり、滑りやすいデコボコ道です。滑れば直ぐに足はずぶずぶと膝上まで雪に埋まってしまいます。右に埋まり、左に埋まり、集落の曲がり角までも歩けないので、そこでかんじきを付けました。借りるように忠告して下さった校長先生と貸して下さった家の人に感謝しました。
 でもかんじきを履いたら楽になったかと言うと、今度は左右の足の間が広がり、人の歩いた跡をはずれないように、横滑りしないように歩くのは、なかなか至難の業です。加えて雪の深さもあって、足が重く、急に歩く速度が落ちました。このような山歩き用のかんじきを履いて歩くのは初めてでした。
 一歩一歩確認するように歩いて行きました。するとどうでしょう。右手の山の上の方から、谷に向かって滑り落ちた雪崩で、道路は途切れて無くなっているではありませんか。仕方無く雪崩の山を越えて、元の道を探して歩くということになりました。
 そのような雪崩の跡にしきりに出遭い、野越え山越えのように、次々に越えて歩くしかありませんでした。ある程度までは右手の山の方からサラサラという音が聞こえると、「すわ雪崩か」、と山側の木々を見あげて確認しながら進んだのですが、このような歩き方の為にすっかり疲れ果てて、途中からは、もうどうでも良くなって来ました。足元をはずさないようにして歩いていると、崖など見ているゆとりが無いのです。
 でも雪崩跡の雪山を乗り越えて行った人の足跡が、全く見えない雪山は、私が雪崩の後で最初に歩く人間だということになりますから、こんなに沢山の雪崩が僅かな時間にあったのか、そして誰もこのような大雪で吹雪きの日は外出もしないのだと気付いて、無事にたどりつけるのか心配になって来ました。
 休む時は教えられたように、リュックを投げ出したいところを我慢して、腰をかがめて荷物を腰骨の上に置き、暫く休んでは元気を出して歩きました。
 段々へとへとになって来ました。小休止が大休止に近くなりましたが、リュックだけは、降ろさずに歩いたのです。確かにここでリュックを降ろしたら、再び担ぐ気力が残って居るのか、と自問したりして、雪の重みをかんじきではね除けられる程の小幅の足取りで、馬の背から滑って道を外れないように、無用な労力を使わないよう気を付けて歩いて行きました。サラサラという木から雪が滑り落ちる音ももう耳に入りません。ただひたすら少しずつ足を前に出すことしか、考えられませんでした。
 ある曲がり角をふと曲がったら、集落の灯が見えました。かんじきを借りてからもう4時間以上掛かって歩いていたことになります。夜9時を回って、真っ暗な中に点った家の明るい灯が、とても有りがたく泣けてきそうでした。「ああ良かった、助かった」という思いがドッと湧きました。気が付くと足が止まっていました。「ここで休んで腰を下ろしたら私は死ぬのだな」と教訓を思い出し、小さく足を前に進めました。
 その頃には、教えて頂いていた全ての事が、全くの事実だと実感していましたので、私はそこで休止することなく歩き続けました。 もう本当にのろのろと、実にのろのろと、足につけたかんじきの半分の長さが、一歩にならない程の歩幅でしか進めませんでした。
 私は何時もお世話になっていた教頭先生のお宅に向かっていました。集落の道を僅か離れて小川の橋を渡った先が先生のお宅でした。ほんの僅かな距離の長かったこと。後少し・・・もう少し・・・、とやっとの思いで辿り付き「ご免下さい」と戸を開けて頂きました。
 出て来られた奥様が、吹雪で雪達磨のようになっている私を見つめて「よくまあこんな時間に、此処まで無事に辿り付いて・・・良かったですね」とフラフラの私を抱き止めて下さいました。リュックやヤッケを脱ぐのを手伝って頂いた時は、もう声も出ない位に疲れていたのです。むしょうに流れ落ちる涙を拭う体力さえ失っていました。
 今考えてもあれほど沢山の雪崩があったのに、私が巻き込まれなかったのは何故か、誰かが守って下さったとしか思えませんでした。
 翌日は、昨日の雪が嘘のような晴天でした。道が消えてしまったので、支所や郵便局や学校に勤めている人たちが連絡し合ったようで、集まって一隊になり、午前9時過ぎに歩き始めました。「おーい。おーい。」と教頭先生始め男性が声を上げました。誰か雪に足を取られて身動き出来なくなっている人がいると助けなくては、ということでした。入れ替わり立ち替わり先頭に立ち、一時間以上かけて村のそれぞれの勤務場所に到着しました。思えば本当に希有な経験でした。 
 ずっと後になって、夫が退職してから、再度その村(今は市の一部)を訪ねました。学校はとうに廃校になり、支所も郵便局も消え、私達の宿舎も消えて回りの家もなく、一つの小集落が丸ごと消えていました。残った二つの集落の一つに、以前は無かった温泉があって、車を止めて疲れを癒やして来ました。
 帰りにお世話になった教頭先生のお宅にも寄りましたが、先生はとうに亡くなっておられ、お墓に行ってお花を供えてお参りして来ました。抱き上げて雪を払って下さった奥様にも、その後度々立ち寄っては、お世話になりましたので、お礼が言いたかったのですが、息子さんの住む静岡近辺に行かれたそうで、家だけは昔通りに未だ人が住んでいるように綺麗に手入れがしてありました。
 不思議なことに、偶然教頭先生のお姉様にお会いして、初対面でしたが古くからの知己のように懐かしく、話しが弾んで二人並んで写真を撮って来ました。
 昔のことは今もありありと心の中にあって、生々しい経験として私の心を揺さぶります。多くの方達にお世話になり、地域の人々も生徒も職員も、本当に温かく、まるで桃源郷に住んで居たように想い出すのです。
 何も知らない未熟な教師を、村の人々や回りの人達が優しく温かく教え育てて下さいました。素朴で素直な生徒達が、教師としての成長に大きな支えとなってくれました。このような助け合う環境の中から、幸運な私は教師の第一歩を踏み出したのです。

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