ばあさまの独り言

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私の神田川

2020年02月09日 | 随筆
南こうせつに「神田川」と云う歌があります。私はこの歌に一方ならぬ思い入れがあります。
学生時代と卒後しぱらく東京で暮らしていましたので、神田川流域は懐かしい場所でもあります。しかし実際に想い出深いのは、神田川そのものではなくて「小さな石けんカタカタ鳴った」と云う下りです。
 人生の中でも新婚時代は、多くの人にとって想い出が深いものだと思います。私達夫婦も共働きでしたから、新居として地方都市の、夫の勤め先からさして遠くない新築アパートを借りました。
 玄関ドアを開けて入ると二階に上る階段があって、廊下の奥にこじんまりとしたダイニングキッチンがありました。階段を上がると二間続きの部屋と押し入れが並んでいて、南側に二間窓、北側に一間窓がありました。二人暮らしには明るくゆったりとして、手頃なアパートでした。
 当時アパートはまだ珍しく、間借りが多かったのですが、通りの奥に大きなお屋敷とお庭のある大家さんが、廃校になった学校の木材を譲り受けて、表通りに面して建てたアパートでした。古材とは言え削り立ての新築アパートだったのです。二階建ての4戸が一棟に納まっていました。
 当時はそのアパートにお風呂が無くて、裏の大家さんが時々声を掛けて下さいました。お屋敷の大きな湯船に、それぞれゆったりと入れて頂いたことも度々でした。私は勤務場所の都合で、始めの一年近くは別居でしたから、私が帰った時には二人で近くの銭湯に出かけたのです。
駅前近くに一山公園になっている所があり、二人でよく散策に出かけました。東屋や石塔や爺杉があって、大きな池が三つもあり鯉が泳いでいました。気が向くとわざわざ和服を着て出かけました。木もれ日のきらめく散策道を通って池を巡る時、幸せとはこういうものかと胸をおどらせる思いでした。
 土曜日の夕方、二人揃って公園隣の銭湯へ行き、帰りを待ち合わせて隣の食堂で夕食を取って帰る事もしばしばでした。結婚当初の1年には冬もありましたから、待ち合わせの時間によっては、寒さに「小さな石けんカタカタ鳴った」日もあったのでした。
 帰りに立ち寄る食堂は、年配の女性が切り盛りし、若いご夫婦がお手伝いしていました。せっせと立ち働くお嫁さんはまだ初々しくて、丁度私達と同じ位の歳に見えました。今はみなみな懐かしい想い出です。
 私達は翌年に双方の勤め先に近いように、或る駅前の二階建ての空家を借りて暮らし始めました。二年後に娘が産まれて、その年に現在の我が家が完成しました。
 それから半世紀も過ぎて老夫婦となった私達は、懐かしくて二人で一山公園のあの地を訪ねました。公園には大きな池が段差をつけて整備され、滝になって水が落ちたり噴水が上がっていて、巨大な鯉が沢山泳いでいました。池のほとりの茶店で鯉に餌の麩を買って与えたりしつつ、一時を過ごしてから、「もう無いかも・・・」と話しながら、かつて新婚の一時期を過ごしたアパートへの道をたどりました。すると驚いたことに、何と当時のままの姿でアパートが残っていたのです。
 アパートは真ん中が私達の入り口でドアだったのですが、その懐かしいドアがまだそのまま残っていました。言葉も出ないほどの感動でした。それは50年の風雪に耐えて、私達を待っていてくれたのだと思われる位でした。
 公園入り口の、かつてチャーハンを食べたあの想い出深い食堂へも行って見ました。当時うら若かったお嫁さんは、立派な女主人になって、誰も居ないお店に一人毛糸を編んでいました。私達は迷うことなく、あの頃美味しいと思って食べたチャーハンを頼みました。出て来たチャーハンを一口食べた時「全く同じ味」であることに、思わず二人で顔を見合わせました。何十年も経っていましたのに、ずっと同じ味を守り通した本当に懐かしい味でした。隣の銭湯は駐車場になって、周りの風景は昔日の面影もなくなっていました。
 南こうせつの「神田川」は川のほとりの小さなアパートに暮らす若き二人の思い出です。私には川の想い出はないのですが、「小さな石けんカタカタ鳴った」場面が強烈な印象となって脳裏に浮かんでくるのです。
 食堂の女主人が一人で客待ちしながら編んでいた物は誰の為の物であったのか、と他愛のない事まで考えながらの日帰り旅行でした。 
   
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