ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

自分色の花を咲かせて欲しい

2014年01月16日 | 随筆・短歌
 親が子を育てる、社会が人間を育てる、自然が植物を育てる、動物を育てる等、様々な存在が育てるものとなり得る訳ですが、その中にあって、人間を育てることの大切さは誰しも感じるところです。
 子供を産んだ母親は世の中にこれ程可愛いものは無いと思いますし、是非立派な子供に育てたいと願うことしきりです。
 育てるとは「養育する、教え導く」ということになりますが、基本的には、たっぷりと愛情を注ぎ、必要な栄養を与えていれば、自ずと育っていくでしょう。
 しかし、この基本的な事さえ出来ない親が最近可成り多いことを知り、とても憂えています。幼い子供の虐待のニュースほど悲しいニュースはありません。十分に食べさせて貰えなくて、やせ細っていたとか餓死したとか、痣だらけだったとか、裸でベランダに出されていたとか、とても親のすることとは思えません。しつけとは言えないひどさで、親の心が病んでいるとしか思えません。何故そのようになって来たのか、社会が親の心を不安と焦燥に追い込んでしまっているのでしょうか。 
 罪の無い子供には本当に気の毒なことですし、そう言う幼児体験を持った子供たちが、次には親になっていく事を思うと、虐待の連鎖が果てしなく続くようで、危機を感じるのは私一人ではないでしょう。
 私の子育ても、もっと子供たちと話し合う時間を持つべきだったと、折々思うことがあります。働いていたから、というのは言い訳にしかなりません。幼い頃の我が子について、知らなすぎたのではないかと思うことがあります。
 子供たちはそれぞれ様々な素晴らしい遺伝子を持って生まれて来ており、早くから芸能面やスポーツ面でその才能の芽が出て、恵まれた環境の子供たちはぐんぐんとその素質を伸ばして、やがて立派な花を咲かせることが出来るのです。
 しかし、多くは普通に教育されて、親の「教え・導き」によって、人生の方向付けが成されるような気がします。たまたま職業が才能や好みと一致していれば問題は余りないのでしょうが、少子化になるに従って、無理矢理仕向けられる勉強や仕事であったりしたら、それは子供にとっても、ひいては親にとっても気の毒なことです。
 個々の人間は、本来何に成らなければならないということは無く、幾つになっても自分のやりたいことが見つかった時に、それを天職と心得て、打ち込んで行くのが最も自然な生き方だと思うのですが、(厳しく言えば世襲の家庭にあっても)世間体を気にする親がいれば、矢張り子供は苦しむでしょう。次に詩を一編紹介したいと思います。
 
あなたがたの子どもたちは
 あなたがたのものではない
 彼らは生命そのものの
 あこがれの息子や娘である
 彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
 あなたがたから生じたものではない・・・
 あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
 あなたがたの考えを与えることはできない
 なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
 あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
 魂を宿すことはできない
 なぜなら彼らの魂は、 明日の家に住んでいるから。
 あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
 彼らを自分のようにならせようとしてはならない
 なぜなら生命(いのち)はうしろへ退くことはなく、
 いつまでも昨日のところに
 うろうろ ぐずぐず してはいないのだ・・・(以下略)
              カリール・ジブラン「予言者」より
 
 これは親が子を我がものと誤って、子供の人生を支配しょうとすることは間違いであるという教訓に満ちた詩として、私の好きな詩です。
 教育とかしつけと言っても、子供が学ぶのは、2×3=6といった教育の内容そのものばかりでなく、親や、教師や社会のあらゆるものを良く見ていて、後ろ姿も言葉の調子も心配りも、総てが学ぶ対象なのです。
 絵画の良し悪しがよく解るようになるには、優れた絵画の鑑賞をすることだといわれるように、親が子供に与えられるものは、「良い教材」だけであれば良いのですが、悪い教材を与えておいて、困ったといっても遅いのです。溢れる程の有益な・又有害な器具や情報に満ちた社会にあって、選ぶ能力が未熟な我が子には、親が選別して与えることも、又社会が放出する有害な有形無形の情報を排除することも大切です。未成年による犯罪の温床になる恐れのあるものは、規制もしなければならないと思います。
 しかし、良し悪しを選別する人間本来の正しい意識は、総ての人間の心の中に生まれ落ちた時から備わっているといいます。それをのばすこと、則ち日頃から自分の心の言葉に耳を傾けて、善なるものに従う教育を、親が言い聞かせたり実際にやって見せることで、正しく成長していくものと思います。
 後は子供自身が努力する姿を見た時に、こころから褒めて自らも喜ぶことでしょうか。子供の喜びに共感する親の姿は、子供を励まし、良い方向に導いてくれます。子供たちの心は素直で鋭く、おだてや誤魔化しはききません。褒める所はいつも直ぐそこにあるのに、気が付かないだけなのです。
 自分自身は凡人ですから、我が子も凡人で当たり前、生きていてくれるだけで有り難い存在だと思えます。
 一番大切な心の教育を軽んじ、その子の天性を軽んじて、親の価値観を押しつける育て方は如何なものでしょうか。
 早く咲いて早く散る花、遅く咲いたのに大きく咲く花、それぞれ自分色に染めて咲く、それでこそ人生が楽しいと言えそうです。ただ、自分の心に恥じないようにすることさえ、身に付けておけば、やがて子供自身が自分の道を探し当てて生き、やがて自分色の花を咲かせることでしょう。
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