ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

余韻に浸る

2010年02月23日 | 随筆・短歌
 余韻という言葉も好きですが、その持つ一種独特の雰囲気も好きです。今までに数え切れない余韻に浸り、しみじみと耳や心を傾けたり、そこから様々に心を遊ばせて、楽しい思いもしました。
 忘れられない余韻の幾つかを思い出しますと、鳥取の大山寺や、四国遍路に行った時に撞いた鐘の数々です。あの時の深い余韻が、今も耳に残っています。四国の室戸岬でも鐘を撞きました。殆どの人が車道を通るのに、私達は古くて急な遍路道を汗を流してやっと登り、最御崎寺(ほつみさきじ)にたどりつきました。鐘は太平洋を越えて響き渡り、苦難の道のりの想い出を載せて流れて行きました。何とも言えない清々しい満足感を覚えながら、その余韻を楽しみました。
 もう一つの岬である足摺岬の金剛福寺へも長い道のりでした。嵯峨天皇筆の「補陀落東門」をくぐると、光る広葉樹林の足摺樹海の中に、金剛福寺は建っていました。念願の足摺岬のこの寺に来ることが出来たという感慨深い思いを込めて、矢張り感謝の心が天に届くように願って鐘を撞きました。海面から60メートル以上はある断崖の上の平地に建つこの寺では、紫に光る黒潮に乗って遥か遠く補陀落(観音浄土)に向かって、余韻は長く尾を引いて流れて行きました。
 鳥取の大山寺は、奈良時代に開山された天台宗の古刹です。かつてアインシュタインが日本を訪れた折に、「鐘の真ん中に入ると、音が消える筈だ」と鐘の下に潜った(確か京都の知恩院だったでしょうか)という話を、夫と二人で想い出し、私が鐘の下の真ん中に潜ってみました。すると無音の世界どころか大音響が響いてきて、慌てて逃げ出してきました。全くの中心点に耳を持って行ける訳でもなく、矢張り煩悩にまみれた人間である私には、仏様もお灸を据えたのでしょう。
 余韻嫋々(よいんじょうじょう)という言葉も好きです。本当に鐘の音は、嫋々と響き渡り、未だ聞こえているのか、聞こえなくなったのか、耳を傾けて聴く人の心をとらえて放しません。それは先だった父母や娘からの音信とも聞こえ、又無常のこの世から消え去っていく魂への挽歌とも聞こえて来ます。また時には現在生きていて、この音に心を傾けて聴いていられる幸せとも受け止められて、その折々の心模様を映し出してくれるのが、旅先で聴く鐘の音の余韻です。
 又美しい禅寺の石庭にも、じっと眺めていますとその余韻がヒタヒタと迫って来る思いがします。京都の大徳寺の有名な大仙院の石庭、竜安寺や、銀閣寺などの庭園は、何回見ても飽きませんし、何時も新鮮な感動が有り、其処を去っても何時までも心にその余韻が残っています。それはアルバムをめくる度にありありと感じられ、幸せを与えてくれます。
 京都の竜安寺の石庭は有名ですし、高校の頃に見て知っていましたが、浅学な私は、他にも数え切れない程の美しい石庭があることを知りませんでした。後に寺院を沢山廻り、禅寺の石庭の美しさに心を奪われるようになって、やっと日本の美しい枯山水の庭園の奥深い美に気付きました。池泉回遊式庭園の美しさもさることながら、小石と手頃な岩だけの簡素にして、趣深い庭園の美しさと、それらが光の当たり方によって変わっていく何とも言えない様相にも感動を覚えます。美しく引かれた小石の織りなす線も見事です。
 私のような物知らずにも大仙院の石庭は美しく、とても心をとらえましたが、たまたま大仙院に行った時に、アメリカ人の女性が、たった一人でリュックを背負って見に来ておられました。一見して小人症と思われる人でしたが、熱心に鑑賞しておられ、私はその堂々とした振る舞いにも感動を覚えました。遠い日本へ、日本人さえそう沢山は見ていないであろうこの庭園の美に引かれてわざわざ来られたのかと思うと、頭の下がる思いがしました。その女性は私の心に深い感動と余韻を残して去って行かれました。
 話しは少し変わりますが、何時でしたか、香川県の善通寺へ行きましたが、そこで御影堂の地下の戒壇廻りをしました。真暗闇の地下通路を手探りで進むと、突然灯明に照らされた空間があって、そこに大師が写し出され、大師の声の再現と言われる声をお聴きしました。私達はその時遍路の途中でしたので、歩く度にリュックの紐にぶら下げた鈴が、暗闇でチリンチリンと鳴り響き、その音が洞窟の壁に反響して、その余韻が大師の声と調和して幽玄の世界に居るような錯覚に陥りました。鈴の音の余韻も、大師の声の余韻も、とても温かく心に残りました。
 熊本の水前寺公園を訪れた時のことです。ゆっくり庭園内を鑑賞して歩き、富士山に似た芝山や松の緑に見取れ、もう閉園間近な時間でしたが、最後に古今伝授の間で抹茶とお菓子を頂ました。成趣園(じょうじゅえん)が最も美しく見えるところでの抹茶の味わいは、その主の心の籠もったもてなしと共に、音にはならない深い感動と喜びの余韻が残りました。
 人は誰でも生を終えた時は、その人生の余韻を誰かに残していくのでしょう。私は一体どんな余韻を残して逝けるのか、そんなことを思うと、安閑としたその日暮らしで良いのかと反省する反面、では何が出来るのかと再び迷いの世界に戻ってしまうのです。

 遍路旅はるばると来て鐘を撞く煩悩ぬぐうごと余韻消えざり
 大仙院の砂の流れに陽の差して岩陰移る無心の時間
                       (あずさ)
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