ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心を写し出す芸術

2011年05月06日 | 随筆・短歌
 私が写真という芸術に興味を持ったのは、もう晩年に入ってからでした。それまでは写真とは真実を有りのまま写したもので、それ以上でもそれ以下でもなく、これを芸術と言ってよいのか、等と全くもって無知蒙昧な人間だったのです。今はその不見識な自分をとても恥ずかしく思っています。
 無常な時間の流れの中で、自然も人間も一時も止まっていません。その一瞬を切り取ること、そして、被写体を写す角度や光の当て方、何処までをファインダーに入れるか等実に様々な工夫がなされています。二度と同じ時間が来ないように、同じ場所でも二度と再び同じ写真は写せません。
 最近私は人間の顔に興味を持ち始めました。書棚にあった濱谷浩写真集の「学芸諸家」(1983年岩波書店)という本を見ている内に、有名人を被写体にした写真が語る、「その人」の魅力に引かれて来ました。日本画家の上村松園さんと物理学者の湯川秀樹氏どちらも伏し目がちな面差しですが、先入観があるせいか、何となく上村さんには、優しく奥行きの深いまなざしを感じますし、湯川氏には、神経質そうで透徹した科学者の眼と心を感じます。上村松園さんの「序の舞」は記念切手にもなったので有名ですが、あでやかに舞う女性の、前方一点を見つめる瞳が凜としていて、本当に素晴らしい作品です。描いた松園さんのひたむきで澄んだ心が感じられるようです。写真の上村さんも何処か芯のしっかりした感じがあります。
 人は誰でも鏡を見る時は、前方から眺めるしかなく、たとえ三面鏡でも伏し目がちな自分や後ろ斜めからの姿はなかなか正確には捉えられません。自分が自分の姿を一番良く知っているというわけではないのです。しかし、後ろ姿がその人を如実に語ったりすることも多いですから、矢張り写真家は、最もその人を表す方角から撮るのでしょう。丸い眼鏡で伏し目の湯川秀樹氏も、あの愛に満ちた詩を書いた佐藤春夫氏も、走っている棟方志功氏、天真爛漫に椅子にいる金田一京助氏も矢張り真正面の写真ではありません。私は写真家の人物を捕らえるその心に入り込んで、つい見とれてしまいます。
 最近北海道から沖縄まで、くまなく回って主に70才前後から100才までの年を召された方ばかり写しておられる人の写真集を見ました。「日本列島 老いの風景」という写真集(2006.山本宗補 アートン)です。「またあした」というカバーの写真は、孫ひ孫合わせて29人の100才の女性です。手押し車にジャガイモを載せて、しっかり押しています。一日働いて夕方これ程力強く帰路につくのですから、それはそれはお元気といえます。これは大往生の島と言われる沖家室島(オキカムロシマ 瀬戸内海に浮かぶ当時人口190人位)の温暖な小島です。老いて花札を楽しむ老女達、集まって大きな数珠をくる様子、何れも老女達が生き生きと写されています。男性もまた明るい笑顔です。この誰もが戦争を経験し、様々な人生の苦難を乗り越えて来られた人達でしょうけれど、そこには暗さが見えません。
 モンテーニュは「老いは、我々の顔よりも心に皺をつける」と言いました。この人達の老いたその顔に見える皺は、人生の苦楽を刻み込んでいますが、柔軟な心は表情を穏やかにさせ一層味わい深いものにさせていると思いました。その皺に刻んだ想い出は、どれ程時間を掛けて話しても途切れることはなさそうです。けれどもその心はまろやかで、温もりに満ちているように感じられます。
 鯛を釣り上げる瞬間の老人の生き生きとした写真の左に、「まして人間は生き、老い、病みやがては死ぬ。人間同士いたわり合い、分かち合い、支え合って生きてゆく。この道理を島民たちは今もふだんの生活の中に溶け込ませながら暮らすのだった」とありました。 釣船の上に正座して手を合わせ頭を垂れて祈る老漁夫。左に「漁が終わり、自然の恵みに手を合わせる。《南無阿弥陀仏》」とあります。「老い・呆け・死・みな正常です。死なない人間はいない」とも。畦道を押し車で歩いてきた農婦を止めて、農道で聴診器をあてる医師「これが本当の職場検診やで」とあります。医師もまた島民の世界に溶け込んだ、良い笑顔の老人です。
 「お迎えが来るまでの人生の最終章を生き抜くことができるのは、一つの贅沢だと言える程、世界は与えられた生をまっとうすることが叶わぬ人々で溢れている。」とも書かれていました。
 今回の震災でも多くの尊い命が失われました。かと思うと一方では、毎年その人数を上まわる自殺者を日本は出しているのです。今生きていられることが、それだけでどれ程幸せなことかと思わざるを得ませんでした。
 そして自分も気付かない自分の姿に思いを巡らせたり、これらの写真に映し出された人々の心や、写した人の心に少しでも近づいて考えてみたいと思ったりするのです。人間の顔には誰しもドラマが刻み込まれているからこそ魅力があります。それも撮った人の鋭い目と人間の心を理解する深い洞察力とが相まって、初めて出来る芸術なのでしょう。連休の所在ない一時をこのようにして過ごしています。

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