ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

住み慣れた家が消えて

2011年12月21日 | 随筆・短歌
 今年は大災害がありましたので、亡くなられた方も沢山あり、住み慣れた家を失われた人も、多かったと聞いています。12月18日の日経新聞に2011年の俳壇と歌壇の今年一年の投稿歌の秀作が発表されていました。俳壇では、「さくらさくらさくらさくら万の死者」「広島の長崎のああ福島忌」「悲しんで泣いてくださいお盆です」などが私の心をぐっと捕らえました。
 歌壇では「ある日突然道を漁船が行き交いぬ朝市開かれし岸壁越えて」「水仙の精が私に会ひに来て「ぼんやりしててもいいよ」と言ひたり」などが載っていました。さすがに秀作ぞろいであり、思わず涙が溢れました。
 私の学生時代の友人もかの災害で住んでいた家を流され、現在も遠く離れた被災者用住宅でお過ごしです。ご家族に怪我が無かったことが、何よりでしたが、立場を置き換えて考えてみると、その辛さが痛い程に伝わって来ます。
 災害ではなく事情により、住み慣れた家を売ったり壊した人も多いのではないでしょうか。別の友人は、年老いた母上の介護の為に、以前長く住んで居られた家を払って、今後の母上の介護の費用に充てると聞きました。ご姉妹は皆他所の土地に住んで、誰も居ない家でも矢張り我が家は我が家です。手放すとなれば心が残りもします。
 私の実家も250年余りの歳月を経て、今年秋に取り壊されました。誰も住まなくなって久しい家です。間もなく壊すと聞いて、最後の家を目に残しておこうと、はるばる家族で駆けつけました。既に瓦が下ろされて、二階のガラス窓が取り外されていました。大きく開いたその窓から、ここで過ごされた沢山のご先祖様のみ霊が、高い空へと立ち昇って行くように思えて思わず手を合わせました。
 二十日ほどで取り壊しがすっかり済んで、更地になった屋敷跡に立った時は、表現し難い思いが込み上げました。消えてしまった家は再びもとには戻りません。「家の跡継ぎ」で無い私は、見ているだけの存在ですが、これを取り壊す立場の人は、大変です。たとえ家が無くなっても、祖先のまつりごとや、まして残された親のお世話をする立場の人は、大変な労力を必要とします。先ずは長男、そして次男或いは長女、といった風に、その役割が回ってきます。
 私の友人も、今は遠くなった実家を売るのに何度も通い、又残された母上の住んで居られる遠い地のホームにも度々行かれて、何かと苦労して居られます。
 家は家族のよりどころであり、これ以上のところは無いという位、温かい思い出が詰まっている処です。ですが子供達が成長し、兄弟姉妹が離れた所に住めば、それから先は、壊すに壊されないとか、売らないと維持管理に困るとか、残された親の老後の為に、致し方なく・・・、という場合も出て来ます。みなどなたかが、苦労をされてその後始末をしておられます。
 長い間慈しみ育てて貰った家を処理することは、なかなか精神的な痛みを伴います。けれどその苦しみを乗り越えて、私達はなお生きて行かなければなりません。心を切り替えて、今日という日に残された仕事に精を出すことに致しましょうか。

 行く末に不安はあれど一先づは入り日に告げる一日の無事を(実名で某誌に掲載)
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