ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心のよりどころ

2018年12月04日 | 随筆
 私達は「成人}であれば皆個々に自己の意志によって、自立して生きて居ると思っています。しかし、それは希望的観測であり、現実はそう単純に割り切れないようです。
 最近、凶悪な犯罪が増えたように思いませんか。私は特に、家族間の殺人や傷害事件が増えたように思いす。身近な人達も同じように感じて居られるようです。
 念のために、内閣府統計局の調査を開いて見ました。それによると平成16年以降、親族に対する事件が親族以外の面識者に対する事件よりも多くなっています。
 平成23年の「被疑者と被害者との関係別、検挙件数・面識率・親族率の推移」というグラフを見ると、面識率87.8%の内、親族率が52,2%で、件数を見ると、親族が489件、面識ありが333件、面識無しが114件で合計936件となっています。親族が半数を超えています。
 最も親しい筈の親族間の事件が増えていることに、驚きと不安を覚える人は多いでしょう。
 原因は概ね、憤まん・激情・報復・怨恨・痴情・異性間のトラブル・介護疲れなどのようです。どれも哀しい現代社会の実状を現して居て、心が痛みます。
 このように親族間の殺戮が増えた原因について、私は心についての教育が不足しているのではないか、と感じています。勿論私は乏しい経験と知識しか持っていませんので、一市民としての感想を述べるに過ぎません。
 でもこのような実状を、黙って眺めているだけで良いはずがありません。私の浅い経験の中においても、出会った苦しみや悩み、喜びや感謝などを通して、数え上げればいくつかの教訓を賜りました。
 生きとし生ける人々の心が、穏やかで人を傷付けず、温かく愛情に満ちているようにするにはどうしたら良いのでしょう。全ての人間は母親のお腹から生まれます。ですから、第一に接触するのは、医師や助産婦さんなどを除けば、母親であるはずです。その母親の心が、幸福に満たされていて愛情が深ければ、身体中の感覚を通して、赤ちゃんもきっと同じように感じる筈です。育つにつれて、感覚は一層確かなものになるでしょうから、母体を通して愛情とか安心や喜びが伝わっていくのではないでしょうか。そして長い時間を通して、人間としての最も基本的な意識の基礎が出来上がっていくのだろうと思います。
 私が産後一月が経ち、付き添って下さった方も帰られて、私と夫が借家で慣れない育児をしていた頃のことです。在る日の真夜中近くに目が覚めました。すると娘が目を開けずに、口元を少し開いてちよっと歪んだような苦しいような顔をしました。授乳時間ではありませんでしたし、「何処か具合が悪いのでは」と、夫と二人で心配しました。お医者さんに連れて行かなければならないとしても、少し離れた医院までは、タクシーになります。真夜中ですから、どうしたものかと娘を見下ろしてただオロオロしていました。すると又娘の顔が動いて、こんどはハッキリと笑っているように見えました。
 「なあんだ笑っている」と思った途端心配した事が可笑しくて、タクシーを呼んだり真夜中にお医者さんを起こしたりせずに良かった、とホツとしました。
 後にこのような事は新生児に良くあることで、「むし笑い」というのだと聞きました。何にも知らず全てが初めての経験でしたから、笑い顔を苦しい顔ではないか、と勘違いしたのでした。知らない事の不安と勉強不足をしみじみと味わされました。
 このような初めての育児をする人達は、現在増えて来て、きっと心細い事であろうと思います。私達は間もなく新築なった家に夫の両親に引っ越して来て貰って、共に育児を担ってもらいましたから、経験豊かな義父母に助けられて、安心して育児が出来ました。
 現在の家族は、核家族化で、私達の様な大家族では無い事が多く、孫育てに協力して貰えることが少なくなりました。比較的狭い住居などで、話し合える友達も少なく、孤立無援の育児をしなければならない事も多いようです。此処は一層しっかりとした行政の援助が欲しいところです。人間を育てる事程大切な仕事はありません。
 健康に育てる事も大切ですが、心の教育がとても大切ではないでしょうか。それは誰が為すべき仕事でしょうか。私は先ずは家庭教育の充実だと思っています。幼稚園や学校教育ではありません。生まれたその日から始める「親」による心の教育です。
 過日、BS11で、寺島実郎氏が、「これからは、AIがどんどん発達するだろうが、その反面宗教がとても大切になってくる。自分の心が依って立つしっかりした教育が大切で、それを培えるのは宗教しか無い」と言っておられました。私も同感でした。何宗と言うのではなく、温かく安定した心をしっかりと培う必要があるということです。キリスト教では「愛」が教えの根幹となりますが、仏教では「慈悲」の心が強調されています。
 釈尊は次ぎのように説いています。(中村元訳 スッタニパータ・第一章)
 「目に見えるものでも、見えないものでも、
  遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
  すでに生まれたものでも、
  これから生まれようと欲するものでも、
  一切の生きとし生けるものは、
  幸せであれ。

  あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、その  ように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
 無量の(慈しみの)心を起こすべし

 と云っておられます。

私は一介の老いた人間でしかありませんが、乏しい経験からも、この依って立つ心の教育の重要さは解ります。日本人は礼儀正しい、とか穏やかで温かいとか、いわれますが、それは過去にそうして育てられた長い実績がものをいっているからだと思っています。
 過去には、お寺がそのような教育に大きな役割を持っていたこともありました。保育園の原型のような子育てや、学校教育の原型のような論語の教育など、お寺での人間教育はかかせないものだったように思います。
 年老いた人達も、私の実家では、ご近所の皆さんが、時に僅かな米や小豆を持って集まり、我が家の菩提寺の住職さんに来て頂いて、お説教がありました。お年寄りの方達は喜んで時に涙を流して聞き入っていました。集まった穀物は菩提寺にお送りしました。確か「お講」といったと記憶しています。
 これからも、心を育てる教育の一環を、お坊さんに担って頂きたいものだと思います。
 私事ですが、長兄がアメリカの原子力研究所に居た頃、「アメリカの人達は、日曜日は家族して教会へ行って、牧師さんから様々なお説教をしていただき、幼い内から人間性を育てる教育をしているけれど、日本人はどうしたらよいのか」と嘆いていました。60歳で亡くなりましたが、懐かしく、又身につまされて切なく思い出されす。
 これからの日本を背負って行く人達の為に、私達がしなければならない事を、しっかり果たしたいものだと考えています。
 人類は今や実証主義にどんどん突き進んで行っています。この世の事象のうち、実証出来ないものは信じない、と公言する人が増えて来ました。
 聞く処によると、この世に現れている事象のうち、実証できるものは、約10%だと聞いています。かつてノーベル物理学賞を受賞した物理学者は「この先は神の分野だ。人間の智の及ばない分野だ」と云われたと聞いています。
 慈悲の心を持たない人間が、科学技術にのみ走ったら、その先に何が待っているか、考えるだけで背筋が寒くなって来ます。
 広島・長崎の悲劇がその一例だったのではないでしょうか。 

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