是(これ)がまあつひのすみかか雪五尺
有名な小林一茶(1763年6月15日~1828年1月5日)の俳句です。長野県の野尻湖からそう遠くない黒姫駅の近くに「柏原」というところがありますが、そこが小林一茶の故郷です。
晩年の一茶は故郷柏原に戻って過ごしました。弟との間の遺産争いに苦労しましたが、遅くなって妻をめとりました。やがて火災で母屋が焼失した後、残った土蔵に住んでいました。私達が訪ねた時もその土蔵は残っていましたし、近くに一茶記念館も出来ていました。
かつては多く人々は、故郷を出でて様々な暮らしをした後に、一茶のように晩年は住み慣れた故郷に戻って過ごす人も多かったようです。ましてや人生の大半を過ごした人の故郷は「此処が日本で一番住みやすい」処だと思えたのでしょう。
都会のどんな素敵な高層マンションや、避暑地の大邸宅よりも、こぢんまりとした地域の中にある自宅が、「住めば都」でいつの間にか第二の故郷になっていて、心が落ち着き、住みやすい地域になってしまいます。
最近偶然に、私が住んでいるご近所の人達と「老後は何処で住みたいか」ということが話題になる機会がありました。少し雪の積もるこの辺りは、10センチ以上の積雪があると、早朝に除雪車が通ります。家の門前と車庫前に残された雪掻が朝一番の仕事になりますが、そんな時丁度朝のゴミ出しに出て来た人達と出会うことが多く、つい他愛ない立ち話になるのです。
今年は例年になく連日雪が積もりましたので、朝の除雪で近隣の方々と顔を合わせる機会が多くなって、日々の会話も弾みました。幾人かの人との会話の中で「将来もずっと此処で暮らす」と言う人が多く、いささか驚きました。「夫婦二人だけれども、独りになってもここに住む」とか「子供も孫も関東圏に居るのだけれど、子供達のところへは行かず、最後までここで暮らす」という人もいます。已に奥様が他界されてお一人で住んで居る人も「ここで最後を迎えたい」とのことでした。
戸建ての古い住宅団地ですから、最初から一人で暮らしで居た人はいません。残されてお一人の方が少し増えつつあるのが現実の姿です。
「住宅事情が許さないから」と云う事ばかりではなく、子供達にはそれぞれの暮らしがあるし、気心の知れたこの地域の皆さんと仲良くして、ここで暮らすことが最良だと考えている人が多かったのです。
最近は人口減で市街地でも空き家が多いと聞きます。確かに、お隣が「空き家」では寂しいです。わが家のお隣も、親しくおつき合いしていた奥様が亡くなられて、ご主人お一人で鉄筋のしっかりしたお宅に住んでおられたのですが、たった4~5日の入院の後に亡くなられてしまいました。
塀を隔てていても、お隣から歌声や物音が聞こえて、生活の気配があったのに、急に無くなると途端に寂しくなります。しかし、やがて住み替わりがあり、また新しいお隣が出来て喜んでいます。
先月一つ隣の小路に救急車が来て、そのお宅のご夫婦が見えなくなりました。お元気だった奥様の方が急の病で入院され、独りでは暮らせないご主人が、二週間ほどショートステイに行って居られたと後でお聞きしました。今は又揃って戻られたそうで、ホッと安心しました。
直ぐ近くに働き盛りの子供さん世帯が住居を構えていても、病気のお年寄りを二人引き受けて暮らすことは、共働きでは所詮無理な事です。かといって、急にホームへ行くことが出来る程には、ホームも空いていませんし、介護保険を適用して貰うにも条件があって、そう易々と自宅での介護保険の利用は難しいようです。
夫婦二人でいれば、どちらか健康な人が頑張って支えるか、他に交替出来る家族が居れば安心して自分の家で暮らせます。ですが、そうした暮らしが出来る家庭はそう多くはないでしょう。
戦前は、小さな町には、一人か二人の内科医師が居られればそれが普通で、殆どが寝たきりになってから、往診をお願いして過ごして来ました。その頃は大家族だったり、主婦は概ね家庭にいましたから、誰かが家で身の回りの世話が出来、何とか過ごすことができたのです。
今は身近に医院や介護施設があって、一時的に預かって貰える施設もあります。しかし、自宅で何とか最後まで過ごす為には、往診出来る医師が居て下さらないと不可能です。
しかし、往診出来る医師は、私の住む地域には、いないのが現状です。全国的には、往診専門のクリニックも出来つつあるやに聞いていますが、医療財政の面からも促進して欲しいと願っています。老人医療の将来を考えると、そうしなければ立ちゆかなくなると思えるからです。
宮沢賢治は「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ・・・」と「雨ニモマケズ」に書きましたが、今は身近ににスーパーやコンビニがあります。去年入院して、途端に家族の食事が支障なく対処出来るか心配でしたが、歩けさえしたら、全く不安が無いことを知りました。
たとえ一人暮らしでも、歩くことさえ出来れば、身近に便利屋さんもあり、ちょっとした修理等も頼めて、食べることも暮らすことも、一応生活には不安はなさそうです。当然のことですが、やがて皆一人暮らしになる可能性があることを考えると、「一人暮らしの孤独にどう向きあうか」そこさえしっかり考えておけば、晩年の暮らしも楽しいものにすることが出来る気がするのです。
ただ健康管理だけは、日々の努力が必要です。スポーツジムなどに通ったり(此処では人との交流もありまので、精神面での効果も大きいと思っています)自宅でも、毎日歩く、体操やストレッチなど折りにふれて積極的に行う、そして老いる程に車に頼らずに、出来るだけバスなど使って、図書館に通ったり、音楽会やお芝居などを親しむ機会を持ち、健康で死ぬ迄歩けるようにする事が、大切だと私は考えています。私もそのように実行して居るところです。
終の住みかを何処にするか決まったら、次は一人になったらどのように生活設計を立てるか、そして次には難問である孤独にどう対処するかを、そろそろ考えておかなければならないでしょう。
孤独にっいては、様々な先人訓があります。
世界の賢人達は、孤独をどのように捉えたか、以下に2~3紹介致します。
☆孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。 バルザック(19世紀フランスを代表する小説家)
☆現在なお人生の美しいものにふれうる事をよろこび、孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、最後の旅の道のりを歩んで行こう。その旅の行き着く先は、宇宙を支配する法を、少なくとも高齢の人は直観しいるように見える。
神谷美恵子(精神科医)「こころの旅」
☆孤独ほどつき合いやすい友達には出会ったためしがない。我々は自分の部屋にひきこもっている時よりも、外で人に立ち交じっている時のほうが、たいていはずっと孤独である。考えごとをしたり、仕事をしたりする時、人はどこに居ようといつでもひとりである。孤独は、ある人間とその同胞とを、へだてる距離などによっては測れない。
ソロー(アメリカの随筆家)「森の生活」
春が近づいてきました。雪の嵩が日に日に減っています。あんなに純白であった雪が、消える頃になると灰色に染まっているのが、やゝ寂しさを感じさせますが、春はすぐ其処まで来ています。
一茶の土蔵の家の屋根雪も、もう少しになったでしょうか。
有名な小林一茶(1763年6月15日~1828年1月5日)の俳句です。長野県の野尻湖からそう遠くない黒姫駅の近くに「柏原」というところがありますが、そこが小林一茶の故郷です。
晩年の一茶は故郷柏原に戻って過ごしました。弟との間の遺産争いに苦労しましたが、遅くなって妻をめとりました。やがて火災で母屋が焼失した後、残った土蔵に住んでいました。私達が訪ねた時もその土蔵は残っていましたし、近くに一茶記念館も出来ていました。
かつては多く人々は、故郷を出でて様々な暮らしをした後に、一茶のように晩年は住み慣れた故郷に戻って過ごす人も多かったようです。ましてや人生の大半を過ごした人の故郷は「此処が日本で一番住みやすい」処だと思えたのでしょう。
都会のどんな素敵な高層マンションや、避暑地の大邸宅よりも、こぢんまりとした地域の中にある自宅が、「住めば都」でいつの間にか第二の故郷になっていて、心が落ち着き、住みやすい地域になってしまいます。
最近偶然に、私が住んでいるご近所の人達と「老後は何処で住みたいか」ということが話題になる機会がありました。少し雪の積もるこの辺りは、10センチ以上の積雪があると、早朝に除雪車が通ります。家の門前と車庫前に残された雪掻が朝一番の仕事になりますが、そんな時丁度朝のゴミ出しに出て来た人達と出会うことが多く、つい他愛ない立ち話になるのです。
今年は例年になく連日雪が積もりましたので、朝の除雪で近隣の方々と顔を合わせる機会が多くなって、日々の会話も弾みました。幾人かの人との会話の中で「将来もずっと此処で暮らす」と言う人が多く、いささか驚きました。「夫婦二人だけれども、独りになってもここに住む」とか「子供も孫も関東圏に居るのだけれど、子供達のところへは行かず、最後までここで暮らす」という人もいます。已に奥様が他界されてお一人で住んで居る人も「ここで最後を迎えたい」とのことでした。
戸建ての古い住宅団地ですから、最初から一人で暮らしで居た人はいません。残されてお一人の方が少し増えつつあるのが現実の姿です。
「住宅事情が許さないから」と云う事ばかりではなく、子供達にはそれぞれの暮らしがあるし、気心の知れたこの地域の皆さんと仲良くして、ここで暮らすことが最良だと考えている人が多かったのです。
最近は人口減で市街地でも空き家が多いと聞きます。確かに、お隣が「空き家」では寂しいです。わが家のお隣も、親しくおつき合いしていた奥様が亡くなられて、ご主人お一人で鉄筋のしっかりしたお宅に住んでおられたのですが、たった4~5日の入院の後に亡くなられてしまいました。
塀を隔てていても、お隣から歌声や物音が聞こえて、生活の気配があったのに、急に無くなると途端に寂しくなります。しかし、やがて住み替わりがあり、また新しいお隣が出来て喜んでいます。
先月一つ隣の小路に救急車が来て、そのお宅のご夫婦が見えなくなりました。お元気だった奥様の方が急の病で入院され、独りでは暮らせないご主人が、二週間ほどショートステイに行って居られたと後でお聞きしました。今は又揃って戻られたそうで、ホッと安心しました。
直ぐ近くに働き盛りの子供さん世帯が住居を構えていても、病気のお年寄りを二人引き受けて暮らすことは、共働きでは所詮無理な事です。かといって、急にホームへ行くことが出来る程には、ホームも空いていませんし、介護保険を適用して貰うにも条件があって、そう易々と自宅での介護保険の利用は難しいようです。
夫婦二人でいれば、どちらか健康な人が頑張って支えるか、他に交替出来る家族が居れば安心して自分の家で暮らせます。ですが、そうした暮らしが出来る家庭はそう多くはないでしょう。
戦前は、小さな町には、一人か二人の内科医師が居られればそれが普通で、殆どが寝たきりになってから、往診をお願いして過ごして来ました。その頃は大家族だったり、主婦は概ね家庭にいましたから、誰かが家で身の回りの世話が出来、何とか過ごすことができたのです。
今は身近に医院や介護施設があって、一時的に預かって貰える施設もあります。しかし、自宅で何とか最後まで過ごす為には、往診出来る医師が居て下さらないと不可能です。
しかし、往診出来る医師は、私の住む地域には、いないのが現状です。全国的には、往診専門のクリニックも出来つつあるやに聞いていますが、医療財政の面からも促進して欲しいと願っています。老人医療の将来を考えると、そうしなければ立ちゆかなくなると思えるからです。
宮沢賢治は「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ・・・」と「雨ニモマケズ」に書きましたが、今は身近ににスーパーやコンビニがあります。去年入院して、途端に家族の食事が支障なく対処出来るか心配でしたが、歩けさえしたら、全く不安が無いことを知りました。
たとえ一人暮らしでも、歩くことさえ出来れば、身近に便利屋さんもあり、ちょっとした修理等も頼めて、食べることも暮らすことも、一応生活には不安はなさそうです。当然のことですが、やがて皆一人暮らしになる可能性があることを考えると、「一人暮らしの孤独にどう向きあうか」そこさえしっかり考えておけば、晩年の暮らしも楽しいものにすることが出来る気がするのです。
ただ健康管理だけは、日々の努力が必要です。スポーツジムなどに通ったり(此処では人との交流もありまので、精神面での効果も大きいと思っています)自宅でも、毎日歩く、体操やストレッチなど折りにふれて積極的に行う、そして老いる程に車に頼らずに、出来るだけバスなど使って、図書館に通ったり、音楽会やお芝居などを親しむ機会を持ち、健康で死ぬ迄歩けるようにする事が、大切だと私は考えています。私もそのように実行して居るところです。
終の住みかを何処にするか決まったら、次は一人になったらどのように生活設計を立てるか、そして次には難問である孤独にどう対処するかを、そろそろ考えておかなければならないでしょう。
孤独にっいては、様々な先人訓があります。
世界の賢人達は、孤独をどのように捉えたか、以下に2~3紹介致します。
☆孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。 バルザック(19世紀フランスを代表する小説家)
☆現在なお人生の美しいものにふれうる事をよろこび、孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、最後の旅の道のりを歩んで行こう。その旅の行き着く先は、宇宙を支配する法を、少なくとも高齢の人は直観しいるように見える。
神谷美恵子(精神科医)「こころの旅」
☆孤独ほどつき合いやすい友達には出会ったためしがない。我々は自分の部屋にひきこもっている時よりも、外で人に立ち交じっている時のほうが、たいていはずっと孤独である。考えごとをしたり、仕事をしたりする時、人はどこに居ようといつでもひとりである。孤独は、ある人間とその同胞とを、へだてる距離などによっては測れない。
ソロー(アメリカの随筆家)「森の生活」
春が近づいてきました。雪の嵩が日に日に減っています。あんなに純白であった雪が、消える頃になると灰色に染まっているのが、やゝ寂しさを感じさせますが、春はすぐ其処まで来ています。
一茶の土蔵の家の屋根雪も、もう少しになったでしょうか。