ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

明治からの風

2012年07月10日 | 随筆・短歌
 昨日(7月2日)早朝に夫は用があり、私もその近くに用がありましたので、夫の車に同乗して、この市の中心の公園前で降ろして貰いました。久しぶりにの公園の、早朝散歩をしたくなったからです。
 広い公園は綺麗に手入れが行き届き、太い幹の藤棚の下のベンチや東屋に、本を読んだりラジオを聞いたりして憩う人達が数人、静かな雰囲気に溶けていました。大きな池が左右に二つあり、左手の池は中程を木橋で渡られるようになっていて、藤棚や大きな松、刈り込んださつきなどが美しく配置されています。回りは松や大木に囲まれた、自然豊かな公園です。
 池の周りを巡ると、早朝の引き締まった空気が心地良く、誰一人散策している人は居らず、私一人の別天地でした。間もなく小高い丘があり、丘の上には明治天皇がご巡幸の折、ここでお休みになられたとありました。 直ぐ傍に幹の太さが2mくらいの大きな黒松がありました。これは昭和天皇が皇太子でいらした大正5年(1916年)地方ご見学の折、明治天皇がご休息になられたこの地で、往時を忍び小さな松をお手植えになられたということです。今日までには、戦争を始め様々な出来事があり、その長い時間に思いを馳せました。
 この公園は、平安中期ニ建てられたとも言われる神社と共にあり、本殿の創設は正保4年(1647年)と言われていて、庭園は明治6年に全国に25の公園が出来た時に、寺社の土地を整理して、出来たたものだそうです。神社はその後大正13年に県社となりました。
 又その先の回遊の道脇には、コートをヒラリと返し、手をベストのポケットへ入れた立派な銅像があり、これは明治5年に県令として来られた楠本正隆という人です。後に東京府(現、都)知事になり、衆議院議長をされた人です。長崎県の大村郷の上士(士族の最高の身分)でした。新政府の初の県令としてこの地へ来られたのです。
 明治5年で思い出したことがあります。私が20代の頃に、実家の土蔵に保管してある古文書や沢山の古銭、翡翠の曲玉などを見たことがありました。その折り父が明治5年発行の50銭銀貨を一つ、私の手に載せて呉れました。新政府になって発行されたものですし、今は大した価値がある物ではないでしょう。しかし父の気持ちをありがたく思って、今も宝にして持っています。
 私達夫婦は長崎へ何度か行きましたが、大村湾を眺めてゆったりと行ったり、時には大雨で突然列車が諫早で運休となり、乗り換えてやっと船に乗れたこともあって、大村は懐かしい所です。
 その大村の楠本家から、お庭の水鉢がその後この公園に寄贈され、高さ1メートル余り、胴の回りが1メートルはあるかと思われる水鉢が置かれていて、今も竹の樋から水が細く流れていました。黄色ががった茶色で、見事な大きさのものでした。水を受けるくり穴も大きく、小石が沈められてしいました。余程大きな庭園だったのでしょう。
 右の池は、今がハスの季節ですから、ピンクの大きな花が池全面を覆って沢山咲いていました。池の回りを回りましたら、獅子山といって、様々な獅子が沢山置いてある小山もあり、此処もちょっとした想い出の場所です。
 子供たちが幼かった頃に良く来た公園でしたし、想い出に浸りながらの朝の静かな散策はとても素晴らしいものでした。百度石があったり、忠犬タマ公の銅像の前に立って、その説明文を今回は丁寧に読みました。タマ公は、昭和9年にこの県の山際で、雪崩で遭難した飼い主の刈田さんを救い出し、更に昭和11年に雪崩の下敷きになった刈田さん他3名を救ったそうです。このことが新聞やラジオで知らされると、小学生達が1銭2銭と寄付してこの銅像を建てたといいます。戦争で胴・鉄の回収があり取り壊されましたが、昭和34年4月10日に、皇太子殿下(現平成天皇)ご成婚を記念として再建されたそうです。
 アメリカでも渋谷の忠犬ハチ公をモデルにして、映画を作りましたが、こんな忠犬もいたのです。
 庭園にはヒマラヤサクラという珍しい木もあり秋から冬にかけてピンクに咲くそうです。ヒマラヤから中国南部に有るサクラだそうです。また戊辰戦争の時にはこの境内も激戦地となり、弾丸が飛び交って、木々も倒れました。たった一本、皮一枚で残っていた松があり、「戊辰の松」と呼ばれて大切にされていたそうですが、昭和40年の台風で倒れ、今はその場所に「平和」と書かれた大きな石碑が当時の知事の名前で建っています。昭和40年の台風は、我が家も二階が揺れて恐ろしく、生まれて数ヶ月の娘を毛布にくるみ、ミルクを抱えて居間で家族五人がまんじりともせずに夜を明かした覚えがあります。
 池のそばの見事な藤には、白い花が少し咲いているものもありました。私の実家の白藤はこれよりも小さかったですが、株は古く懐かしく思い出されました。実家の物故者名簿を纏めた弟の資料に依ると、一番古い物故者は享保元年とありますから、実家の白藤も結構古かったのでしょう。もう無くなりましたが、私達の心には想い出として残っています。
 子供たちと来た頃のこの公園には、サルも鳥もいろいろ居たのですが、サルは「ただ今病気治療中」とあり、鳥舎は空で、良く豆をやった鳩だけがエサを拾っていました。一巡りした後で正面から、拝殿に登り柏手を打つと、両脇に子供を連れた往時の自分の姿が、ありありと脳裏に浮かんで来ました。沢山の歴史を抱えたこの神社の庭園の、朝の素晴らしい雰囲気に親しめたことを深く喜びました。

明治から吹く風今もめくるめく思いは深し行き交いし人(あずさ)
 

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