ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

無垢な心に還る

2012年07月18日 | 随筆・短歌
 オリンピックが近づいて、様々な大記録が紹介されています。人間の能力の限界が年と共に伸びて、毎回のように記録が更新されて、留まるところを知らないようです。そこ迄行くにはそれ相応の努力と心身の鍛錬があったからであり、その不屈な精神力に畏敬の念を抱きます。
 最近私は、生まれたばかりの赤ちゃんが、授かってきた無垢な心に引かれるようになりました。それは人間のDNAの不思議や、備え持つ体の機能ばかりでなく、未だ感情表現が充分出来ない赤ちゃんが、すでに持っている素晴らしい心に気づいたからです。
 人間は何と穢れの無い、素晴らしい心を持って生まれてくるのでしょう。心は子育てや教育で育まれるもののように思って来ましたが、そうではなく、生まれたばかりの赤ちゃんがすでに持っている心が、一番純粋で美しいのだと気づいたのです。その素晴らしさを大切に保ち続けるには、どうしたら良いかと考えるようになりました。
 赤ちゃんはめざましい発達をして、やがてことばを覚え、育て方によっては、善の心も悪の心も育っていきます。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・・・を経験する度に、次第に様々な知識が積み重ねられ、いわゆる「人間」が形成されていくのですが、その時生まれたばかりの心はどのように変化をするのでしようか。しかし、よく考えてみると、何歳になっても、自らの心にじっと耳をすませて考えれば、自分がどうすべきかは、全ての人が解るのではないでしょうか。心の奥には、紛れもなくまっさらな心があるはずのように思います。
 無知で未熟な私ですから、間違っているかも知れませんが、この常に何もない、片寄らない心で考えたら、もしそうすることが出来たら、どんなに良いでしょう。則ち生まれたばかりの赤ちゃんのような心とは、仏の意思そのものだと言ったら、言い過ぎなのでしょうか。
 私も欲が深く、金銭・健康・見栄など、それはもう我欲に満ちた暮らしをしていますから、時折人を傷つけたり、自己嫌悪に陥ったりして苦しみながら生きています。煩悩ゆえの苦しみです。
 そんな私の家に、最近家族を通して、全日本仏教会会長の禅僧・河野太通老師の墨跡を頂きました。それには「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」と力強く書かれていました。
 この本来無一物という意味を調べましたら、「禅でいう、本来執すべき何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味する」と書かれていました。普段私がよくするように、AかBかと分けて考えたり、あれとこれとと比べて考えたりしない。とらわれない。「分別相対的な観念を全くはさまない世界である」ということらしいです。則ちこれは生まれたばかりの赤ちゃんの心の状態であるようです。
 仏教では、「本来心は仏性である(誰でも心は仏である)」としていて、仏性には塵や埃はない。「空」や「無」という悟りにさえとらわれないから、煩悩・妄想の起きようがない、という心境であるとありました。
 ここまでくると私には到底届かない心境ですが、人間本来の心は、だれもが赤ちゃんだったのですから、その根源は、単純にいうと仏の心から始まったといえるようです。ですから、私達は判断に困ったり、苦しい事に出あったら、分け隔てや比べることから遠く離れて、根本の心を見つめ、静かに心に聴けば、自ずと正しい智慧が生まれるのではないかと思うのです。
 悩み苦しむ時は、ただひたすら「本来無一物」というこの言葉を思って、煩悩から遠ざかるようになれたらいいと思う様になりました。
 私達はこの墨跡に感動して、早速近くの経装店に持って行って、掛け軸にして頂くことにしました。床の間に掛けて折々眺めて、我と我が身の心を正そうと思って、今出来上がってくるのを楽しみにして待っているところです。
 このように「物」にこだわる心も煩悩ですから、言行不一致だと笑われそうです。しかし、この掛け軸を眺めながら、出来るだけ煩悩から遠い所に身を置き、日に幾度か、「本来無一物」の掛け軸を見つめることで、少しでも心平に生きて行きたいと考えています。

 おさな子がしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき
                        (一休禅師)