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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

認知症と共に生きよう

2015年03月04日 | 随筆・短歌
 高齢者の多くの人が、認知症になりたくないと、考えていると思います。私もその一人でした。少しばかり大事な事を忘れていたのに気が付いたり、昨夜観た映画の題名が思い出せなかったりすると「ひょっとして認知症の始まりではないか」と思って心配になってしまう、こういうことは高齢者であれば、誰もが経験することでしょう。
 人間ですから、いつまでも記憶がしっかりしているわけではなく、歳と共に忘れる能力が高まって、死が全ての人に訪れるように、忘却もその勢力を広げていく筈です。
 私の家で購読している地方紙に「認知症を幸せに生きる」という記事が載っていました。週一回(火)の連載ですが、その第一回2月12日を読んで、私はとても感動し、共感を覚えました。
 『認知症と言われる中でも半数以上を占めるアルツハイマー病は、物忘れ、家事が出来ない、道に迷う、が三大症状ですが、治らない病気である。抗認知症薬は、数ヶ月~1年半くらい「悪化させない」効用がせいぜい。治らないものを治そうとするのは、本人にも家族にもつらいこと。物忘れなど治そうとせず、元気で生き生きとした生活を取り戻すことが大切』と執筆者の精神科医の上田諭医師が書いておられます。
「忘れてもいい。出来なくていい。認知症になっても構わない。治さなくていいし、治らなくていいのです。」とあって、私はホッとしました。
 「本人が自信を持って、元気で楽しみと充実感を得て生活することが、本人を幸せにし、介護する人人々をも幸せにする」とありました。
 高齢化社会では、誰もが認知症を患う可能性を否定出来ません。
私の身の回りにも、現在認知症を患って居られる人も、認知症の家族の介護をされた人もいます。そんな人達から学んだ、より望ましい生き方が、先の文の通りなのです。
 私の学生時代の友人は、ご夫婦で散歩中にご主人が転倒され、開頭手術をされ、長いリハビリ生活を送られて、やがて認知機能が衰えていかれたのですが、ずっとご自宅で介護をされて、最後を看取られました。
 記憶の薄れゆくご主人が、「有り難う」といつも感謝の言葉を口にすることは忘れなかったようで、後に声が出せなくなった頃にも、眼で伝えたと聞きました。この言葉を聴いただけで、ご夫婦の日常の様子が察しられます。「価値観が同じだったから、幸せだった」と振り返って彼女は言いましたが、私はお二人の生き方をとても尊敬しています。
 又、現役時代は可成り高い地位に就いておられた人が、近くに住んでいるのですが、夫と出会えば、何時もざっくばらんな冗談を飛ばし気さくな人でした。やがてアルツハイマー病に罹って、外出先から家に帰れなくなりました。家族が気付いて医師に診て頂いた頃は、病状は中等度といわれたそうです。
 しかし、我が家の夫に会えば遠くからでも手を振り、すれ違う時は相変わらず冗談を言って笑わせる明るい方です。病気だと知らなければ解らない程です。夫は最近、その方が「まるでほとけ様のように柔和な笑顔をたたえて、人間本来の姿に戻っていっているようだ」と言います。とても屈託なく明るいのは、やはり二人暮らしの奥様の対応が良いことも、原因の一つなのでしょう。
 もう一人、これも夫の趣味の会の友人ですが、認知症の人を介護している施設に入居されました。施設に確認しご家族にも許可を得た上で、指定された日に面会に行きました。私も良く一緒にお付き合いした人でしたので、同道しました。「良い病院だ、と言われて来たら、こんな所で・・・」とその女性は顔を暗くして仰いました。やがて談話室で少しお話する内にお元気になられ「娘家族も忙しいから仕方が無いのです」と仰って微笑まれました。
 談話室に集まっている人が数人いましたが、みな一人一人、別の方向を眺めながら、自分の思いに耽っているようでした。しかし、その表情は決して暗くはなく、とても穏やかでした。私達は少しホッとして帰途に就きました。
 三回目の記事は「叱られると不安大きく」と題がついていて、認知症の人の徘徊や行方不明の対策として、 地域での声かけ、見守り、携帯電話の位置確認機能を活用する等が、講じられてきていますが、一番大切なものが欠落しているとありました。
 それは心情や生活を考えることだと言います。認知症の人は、自分の変化に不安と戸惑いを感じている。それを指摘したり叱ったりすれば、ますます不安は大きくなり、反発心も生まれます。
 「自分はこれで良いのだ」という自己肯定感や自尊心が、叱られることによって薄れて行きます。周囲はそれに気付かないことが殆どだそうです。
 徘徊して困る.と言う息子さんに、この医師のアドバイスの言葉は「お母さんの唯一の頼りはあなたです。怒られて居場所が無くなってしまい、徘徊するのではないでしょうか?」でした。
 我が家が建った時に家を建てた人達の多くは、年齢が近いため、あちこちに一人暮らしや二人暮らしが多く、認知症で施設に行かれた人、デイサービスを使いながら、何とか家族の介護で過ごして居られる人もいます。
 テレビなど観ていますと、暴力を振るったり、夜中に奇声を上げたりと、悪い面が強調されているように思います。介護の人も患者さんも戸惑ったり困っているのです。
 3月3日の新聞記事には『認知症を速く見付ける本当の理由は、早期発見・早期治療に繋げることではなく、根治療法が今のところないことを周囲の人が認識し、「治らなくていい、治さなくていいと早期に認識すること」にほかなりません。』とありました。不安を先取りして自ら苦しむことのないように、『認知症の人の不安な思いや、生活がうまくできなくなるつらさに付いて理解し「慰め、助け、共にする」姿勢を持つ事が大切』とこの回は結論付けられていました。
 認知症の人が、こちらの話しかけに、穏やかに楽しそうな表情で応えてくれた時には、私までが幸せな気分になって来ます。嬰児が時折見せる、あの周囲を幸せにする微笑みに近い心を、認知症の人は潜在的に心の奥に育てているのではないでしょうか。
 介護する人ばかりでなく、地域社会の人達が、対等に、且つ理解ある温かい心で接してあげたら、きっとこの人達も充実感を感じつつ生きて行けるのではないでしょうか。

友の記憶薄るるらしも幼児に還りゆくごと吾を和ます(某誌に掲載)

室生の里の女人高野

2015年02月22日 | 随筆・短歌
 五木寛之の「百寺巡礼」(講談社2005年)を発刊と同時に買い揃えたのは夫ですが、その頃までに私達夫婦が巡った寺院の数は、大小を合わせると、100を遙かに越えておりました。全国くまなく巡られた五木寛之は、その10倍も20倍も巡られたことでしょう。
 その中で、五木寛之の目を通して、推薦するどのお寺がどう見えるのかを知りたいと思いましたし、彼の勧める寺院の内で、未だ行った事のないお寺には、どのようなものがあるか興味を持ちました。そして是非行きたいとも思いました。
 今眺めると、第一巻の奈良、第二巻の京都、第九巻の京都Ⅱの計三冊に載っているお寺は、私達も全て行っています。 五木が選んだ第一巻の「奈良」の第一番目のお寺が、女人高野と言われる「室生寺」であることが、とても嬉しいことでした。
 室生寺は本当に心に残った素晴らしいお寺でした。金堂も五重塔も国宝の建造物を含めて控えめで上品であり、静かなたたずまいの背景には、豊かな自然がありました。機会があったら是非もう一度行きたいお寺です。 
 室生寺に行きたいと思ってから、実現する迄には、多分5年以上経っていたでしょう。途中に平成10年の台風があり、五重塔が倒れた木の下になって、一部破損して、それが再建されてからの拝観でした。
 近鉄奈良駅の近くにホテルを探しても、(翌日のバスや電車の便を考えて)その頃は未だ気に入ったホテルも見当たらず、仕方無く、何度か小さなホテルで我慢しました。当時の日程は4月2日~11日までの10日間の旅でした。4月5日の朝早めの電車で、先ず行ったのが、室生寺です。我が家に写真家の土門拳の「古寺巡礼」の厚い本があり、それを見て是非行きたいと思っていたお寺でもありました。五木、土門という二人の尊敬する専門家の推薦するお寺ですから、期待も大きかったのです。
 室生寺へ行ったのは、四月であった為に、丁度桜の季節で、室生口大野駅で下車したところ、大野寺の見事な三本の大しだれ桜が、濃いピンクに染まった花を地面に迄届かせて咲いていました。このような豪華な桜ともなると、近寄りがたい気品を湛えており、勿論このような美しく迫力のある桜は初めて見ました。
 駅前からバスでひなびた道を走り、室生寺前バス停で下車しました。室生川に掛かる赤い太鼓橋の先きに「女人高野室生寺」の大きな石柱が立っていました。赤い橋から先は結界ということでしょう。
 高野山への参拝を拒否されていた女性達は、どれ程多くの願いを込めてこの橋を渡り、仁王門をくぐり祈ったことかと思い、ひんやりした朝のお寺の雰囲気を感じつつ、境内を登って行きました。
 此処は、平地ではなく、自然のなだらかな山の斜面で、道筋にある石段を登って行くと、所々木々が切り開かれて、弥勒堂や金堂、本堂などの建物が点在しています。皆石段を登って行くのです。大きな山が丸ごと大勢の女性の悩みや願いを受けとめて来たように思えました。澄み切った空気が、心を自然に美しく洗い流してくれます。
 有名な五重塔は、土門拳の写真に見るように、ハッとするほど美しく、それは写真で見るよりもずっとこじんまりとして、それが一段と女性向きで、優しく親しみを感じさせました。台風で傷んだ所は新しく修理してあり、創建当時(はっきりしていないが、平安初期に出来た高野山が女人禁制であったため、高野山と同じく真言宗の寺院で、女人の悩みも受け入れた寺院の一つが、この室生寺で、従ってやはり平安初期にあったようです)からの長い歴史を思うと、吹き替えた屋根などは、傷ついた時の痛々しい思いがこみ上げ、沢山の浄財が集まって、5年計画が2年で改修出来たというのも嬉しいことでした。来て良かったとしみじみと喜びを感じました。
 順を追うと弥勒堂、金堂、本堂、五重塔の順に登りつつ拝観したのです。弥勒堂の結跏趺坐の釈迦如来座像は、土門拳の本に大きく載っていて、仏師の魂の籠もった業といいますか、指の指紋と彫刻の木目の円が一致している、それが五指全部です。第一指の付け根の膨らみと木目、かかとまでグルリと輪になった木目が彫り出されていて、どうして材木の中の木目と指紋全部がピッタリ彫りだされるのか、不思議で不思議で、たまりません。また弥勒菩薩立像は、鼻の真ん中が木目の中央の輪で、お顔の左右は、対照的にきっちりと木目が顕れていて、頬や顎の膨らみは木目も対称に脹らんでいます。金堂の本尊釈迦如来立像(国宝)や十二神将なども皆外に塗った塗料ははげ掛かっていましたが、薄暗い中でも眼を懲らして拝観して来ました。定かに見えないものもありましたが、目をこらして、しっかり記憶に留めて来ました。金堂の仏像群のすばらしさに、格子の前を行きつ戻りつして、ご本尊の美しさや、前に並ぶ十二神将の勇ましいお姿に心を奪われました。
 五木寛之によると、入り口から奥の院までは、登り片道700段くらいに成るとのことなので、恐る恐る石段の下に出ましたら、まっすぐに天に向かうように石段が見えて、「登りきれるかしら」と思いましたが、元気を出して休み休み登り切りました。変形性関節症を患っている現在の膝と股関節では、とても無理です。省みて何とか登って来て良かったとしみじみ思っています。
 全山杉や桜や楓でしたから、四季折々に美しく、静謐で、敬虔な祈りには実に向いていると思われました。室生の里は、こじんまりとした里で、家々が思い思いに建ち、この里をもひとくくりして、女人の悩みに耳を傾け、祈りを受け入れて来た聖地のように思われ、とても有り難く思えました。
 土門拳の写真集がありましたので、木目を掘り出した仏師にも心を動かされましたが、そうして出来た素晴らしい一体一体の仏様に、ただひたすら「お守り下さいまして有り難うございます」と手を合わせて祈るばかりでした。私もその時は、大勢の悩める女人の一人になりきっていました。
 今年は密教の教義を開いた法大師空海の、高野山開創1200年に当たり、高野山ではお祭りがあるようです。太くてまっすぐな杉木立の高野山の、あの神々しい雰囲気に浸りにも行きたいですが、女人高野もまた、とても魅力があります。行きたい所ばかりです。奈良に行った何回かの旅をアルバムで見たりしながら、歴史の重みや素晴らしさを再度確認しました。
 人間世界に生きて、溜まりに溜まった煩悩を、全てすくい取って頂いたようで、足取りも軽く室生の里を後にしました。

東大寺の仁王古りてもそのままに哀しきまでになほも睨みゐる(某誌に掲載・特選)

会いたき人に似たる羅漢に会へるとふ天寧寺訪ひ亡き娘(こ)を探す(某誌に掲載・天寧寺は彦根駅から行かれ、500羅漢があります)


参考 五木寛之の100寺、奈良は、室生寺・長谷寺・薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法隆寺・中宮寺・飛鳥寺・当麻寺・東大寺
 京都は、Ⅰ.金閣寺・銀閣寺・神護寺・東寺・真如堂・東本願寺・西本願寺・浄瑠璃寺・南禅寺・清水寺
 Ⅱ.三千院・知恩院・二尊院・相国寺・満福寺・永観堂・本法寺・高台寺・東福寺・法然院


武家屋敷の残像を追う

2015年01月21日 | 随筆・短歌
 過日私に学生時代のクラスメイトから、知覧の武家屋敷の絵葉書が届きました。現在東京に居を構えておられる彼女のご実家は、鹿児島県なのです。とても聡明で優しい人であり、私の尊敬して止まない一人です。自分をしっかり持っておられて、何時も他人に細やかな配慮をし、とても控えめで、みなさんが集まって写真を撮る時はさりげなく後ろに立ちます。そんな所が皆さんから尊敬されるのでしょう、だれもが立派な方だと言います。
 私達夫婦は旅好きで、以前知覧にも行きましたから、この絵葉書を見てとても嬉しかったし、急に楽しかったあれこれを思い出しました。
 知覧には、特攻の記念館がありますから、当然そこへ行く為の旅でしたが、直ぐ近くにある武家屋敷も、とても美しく見応えのある所で、私達は、特攻記念館から、徒歩で回って拝観して来たのです。 その日は不思議なことに、一人の観光客にも出会いのませんでした。もし、これから行かれる人がおられたら、是非此処を見落とさないようにお勧めいたします。国指定の名勝に指定されています。
 去年の九州一周のツアーでは、ガイドさんが「すぐ其処に武家屋敷があり、中々良いところです。今日は寄れなくて残念ですが、次回来られたら、是非ご覧になるとよいと思います」と仰いました。
 そんな事が、絵はがきから急に思い出されたのです。書架からアルバムを取り出してきて懐かしく眺めました。
 比較的こじんまりとした質素な武家屋敷ですが、それぞれにお庭が造られていて、実によく手入れが行き届き、さつきや菖蒲が咲いている頃でしたから、上品なそのお庭に一層引かれました。
 外の通りは自然の丸形石を積み上げたり、切石を積んだ同じような高さの石垣の上に、見事に刈り込まれた生け垣が道路の両側にずっと続き、ツゲや松がこれぞ武家屋敷の緑の生け垣と言う感じに、ずらっと見渡せます。その植え込みは、一段もあり2段に造っているものもあって、手入れの良さもあり、とても厚みを感じさせます。屋敷群全体が整然と統制が取れていて、マイナスイオンに溢れて、呼吸が急に楽になった感じがしました。
 中の庭へは、門をくぐって入りますが、家(家の内部は非公開でした)と庭が見られ、屋敷位置に立って眺めた庭園の奥に当たる道路側の垣根は、庭の内側から見ると借景のように山の形に刈り込まれていたり、松が高く配置されたりしています。手前の小さな池や、石の配置、植え込みなど、一つ一つ独特の個性があり、それぞれ全く独立した庭園に出来ていて、心を配って作られていることに感動したものです。一木一草にも意味がある、という庭師の魂が込められているようでした。
 掃き清められたお庭は「どうぞ自由に心ゆくまでご覧下さい」とでも言うように、ひっそりと静まっていました。
 良く晴れた日中でしたが、静かな環境の中でゆっくりと、心ゆくまで拝見させて頂きました。一軒ごとに100円玉一個を用意された筒の中に入れるとテープが回り、解説を聞くことが出来るようにになっていて、ぜんぶの解説を聞かせて頂き、全ての庭の記念写真を撮って来ました。
 拝見した庭の案内が、アルバムに張ってあります。取り出して眺めましたら、九州は全部で9日の旅でしたが、平成9年5月17日(木)とありますから、もう17年以上前になります。頂いた絵はがきは築山泉水様式の庭園で、森重堅氏邸です。この庭園は、山の形に刈り込んだ築山と、組石の上には立石や灯籠があり、手前に睡蓮を浮かべた池が配置さています。さつきが見事に咲いていました。 頂いて来た案内書を切り取って、アルバムに張ってありましたが、その案内書に依ると「森家は亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は、寛保初年(1.741年)に建てられたもの。曲線に富んだ池には、奇岩石を用いて近景の山や半島を表し、対岸には、洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している。庭側入口の右側にある石は、庭園の要をなし、雲の上の遠山をなし、雲の上の遠山を現している、」とありました。
 また佐多美舟氏邸は最も豪華で広い庭園であり、此処には枯滝もしつらえてあります。佐多直忠氏の庭園は、母ケ岳を望む一隅に築山を設け中心部に3.5㍍の立石を置き多数の石組みと枯滝は大陸的で、一幅の水墨画のようだとありました。どれも素晴らしく、全てを写真に納めてきました。未だこの頃は三脚を持って出掛けており、二人並んで庭園に納まっているものもあって、可笑しい位です。 知覧の特攻記念館は云う迄もありませんが、武家屋敷、名品知覧茶と共に大切な日本の遺産とも言えると心から感じて、良い見学が出来たと嬉しく思いました。
 武家屋敷と言えば、金沢の長町という一角に、ズラリと武家屋敷が建ち並んでいます。町中でありながら美しい小川が豊かな水量で流れていて、武家に相応しい土塀が左右に連なり、こちらは知覧の懐かしいような武家屋敷と違って、中々威厳があります。
 外れに近く、野村家という武家屋敷の中が拝観出来、靴を脱いで上がらせて頂きました。格式の高い武家らしい間取りや戸障子、床の間など、調度品なども立派に配置されていました。特に中庭は、池を中心に、松や灯籠、手水鉢など、こちらも心を砕いたしつらえになっていました。
 金沢は、奈良・京都の行き帰りに何度も立ち寄りましたから、この武家屋敷も三回くらい行っています。武家屋敷の中程に、ごくこじんまりしたお庭を拝見出来る家があり、お掃除しておられたご老人が、傍らの木から細長い葉を一枚取って、「これがハガキの言葉の元の葉です」と「たらよう」というその木の葉を下さいました。文字が書けるとお聞きしたので、帰宅してから早速一枚の葉の裏に「般若心経」を書きました。びっしりと立派に書けましたし、また読めます。現在も仏壇に供えてあります。そのお宅では、小川からの取水・排水・木の植え方など、造園の方式に則って造られていると、ご自慢のお庭のようでした。
 武家屋敷と言えば、角館の武家屋敷も有名です。私達も一度は行って見たいと、ある秋に東北を回った時に立ち寄りました。藤沢周平の「たそが清兵衛」で、ロケに使った家に、タクシーの運転手さんが連れていって説明をして下さったので、特別な親近感をもって見て来ました。春は桜並木が大変美しいであろうと思われる河岸の道路へも回りました。
 武家屋敷は大通りの左右にあり、全体としては、大勢の使用人を持って、格式高く住んで居たと思われる立派な上級武士の家もありました。苔の生えた門をくぐると、木漏れ日が差した広めのお庭がありました。
 中には、広い部屋や土蔵に昔の蓄音機が並んでいたりして、考古館といった趣の家もありました。大きな井戸があり、一家とその下働きの大勢の人達が、それぞれ身分をわきまえて、礼儀を守り、主君に仕えて暮らしていた様子が偲ばれました。
 武家屋敷の出口近くに、かなり背の高いドウダンツツジの垣根が続く、珍しい屋敷もありました。着いた日の午後から日暮れまでと、翌日の午前と二回に分けて、いろいろな武家屋敷を拝見しました。道路は広く、如何にも武家屋敷通りらしく、紅葉の美しい道を、時代を遡ってゆるりゆるりと歩きました。上級武士の家並みの裏側に、例のロケの下級武士の家が在ったのです。
 武家屋敷と言われる所は、他に何処に在るのかと思って調べましたら、いつぞや行ったことのある、会津が出ていました。会津の家老一家が、落城の知らせに奥方を初め、子供達、使えていた女性達も皆殉死したのですが、その武家屋敷が載っていました。
 家老屋敷は中の様子が見学出来ました。広い奥座敷に、奥方や子供たちまで殉死した時の様子を等身大の人形を使って飾られていました。その凄惨さに思わず絶句してしまいました。
 たそがれ清兵衛で思い出しましたが、子供たちは男も女も、みな寺子屋へ通い、論語の素読をしていました。意味も解らずに暗記していく内に、意味が良く理解出来るようになり、やがてその心が身にしみこんで行ったものだと思っています。そうして武士の子供たちは、しっかりとした精神を培っていったのでしょう。
 武士の魂を培った、こういう学習の大切さを、昨今の多くのむごい犯罪から、切実に感じています。庭園のしつらえには禅の精神が宿り、管理する人の心を磨いてきたのだと思いました。
 時代と共に家庭、学校、社会の精神教育、道徳教育が衰退してきたように思え、世界に誇れる日本人の心をしっかりと培うべく、私達はどうしたら良いのか、考えさせられました。
 

年賀状賛歌

2015年01月08日 | 随筆・短歌
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 年賀状の枚数が減少していると聞きます。若い人達は、メールで送るらしく、如何にも現代らしい気もします。確かにその方が手軽で早いし、直ぐに返事が返せます。長さの制限もありません。聞くところによるとメールの返事は、直ぐに出さないといけないらしく、あまり間を開けると友達失格者として、縁が切れてしまうとも聞きます。そんなにせっかちにメールを出したり、返事を書いたりしていては、大切な読書の時間も趣味の時間もなくなって、疲れるばかりな気がします。メールも適切に間をあけて書くように、私は心がけています。
 しかし時代はもう対人関係までが、そんな悠長な事をいって居られない程めまぐるしく、友人として交わる為には、頻繁にメールを出して繋がっていないと、置いていかれるようですね。不安の強い時代とも言えそうです。
 私は古い様式の年賀状が嬉しく、それも、出来たら一枚一枚手書きのものが一番嬉しいです。この忙しい世の中で、そのような賀状が書ける人は、時間と暇を持て余している私の様な老人か、余り付き合いを広げないようにしている人位なのでしょう。社会全体のゆとりが減っているようです。
 そう言う私も、朱鷺の絵入りのハガキに賀春と筆書きして、紅い「元旦」の印を押し、左下隅にもう長いこと使って、磨り減った住所氏名のゴム印を押します。出来るだけ余白を残して、そこへ一人一人に思いを寄せて書きます。書くのが趣味ですから、さして苦にはならず、楽しんで書きます。職を退いて年々枚数が減って、今年は、「老齢になりましたので、来年から新年のご挨拶を失礼させて頂きます。」というハガキが一枚届きました。こういうハガキも届くようになると、私も日頃余り親しいお付き合いしていない人には、迷惑をかけないように考えていかなければならないかも知れない、と思いはじめています。
 パソコンが普及して、自宅で印刷の賀状も増えました。それらには、みな何かと現状や思いが自筆で綴られていて、それを読むのが楽しみです。何度も読んで、その人のこの一年が頭に入るまで楽しみます。また工夫された賀状の自筆の絵や、写真に見入ったりします。それぞれに個性があり、やはり私の尊敬する人達の心境が、そちこちに現れていて楽しいです。手書きの洋画や版画、ご自分で撮った写真、いつぞやは出来たばかりのスカイツリーなど、これらはハガキ入れに保存してあります。折に触れて眺めるだけで、その人が偲ばれます。
 こういう交わりが、喩え一年に一回でも、交わされる事によって、慰められたり励まされたりする訳ですから、私は年賀状という習慣には、他をもって替えがたい長所があると思います。
 今年の賀状の最高齢の方は、100歳になられた夫のかつての上司、私の方は90歳くらいになられた恩人でした。皆さんのしっかりされているのに驚くと共に、その方々を目標に、私もがんばりたいと思っています。
 そんな賀状の中に、『「始めるのに遅すぎることはない」の先人の言葉に倣い・・・平家物語を読破しました』という一枚があり、その言葉が心にすとんと落ちました。長い間の病気と闘いながら、随筆や詩を書き、沢山の読書をしておられる人からでした。

 人は多分誰でも、長い人生の間には忘れられない言葉が心の底に沈んだまま年を重ね、折々思い出しても、再び心の底に閑かに眠らせているのではないかと思います。
 時に応じて、自らを慰め、励まし、勇気づける適切な言葉が、意識の表面に浮かび上がって来たりすると、それがどんなに人生を豊かにしてくれることでしょう。
 自分の思いを伝えるには、どうしても言葉は必要不可欠です。
 言葉に依って、私達は励まされ、労られ、愛され数えきれない恩恵を受けています。例えば一枚の賀状についても、そこに書いてある言葉が通り一遍の形ばかり、それも印刷だけで肉筆の一字も書いて無いものは、懐かしさも温もりの心も伝わって来ないため、読む意欲を失ってしまいます。たった一言「お元気ですか」でもよい、そこから心の温もりが伝わって来るのです。
 一年間を振り返り、相手の現在を偲び、心を込めて賀状をしたためることは、私の好きな時間です。一年にたった一度ですが賀状の交換によって、相手の現在の健康状態や、考えて居ること、行っていることなど、一年前に書かれた賀状から読み取って、更に身の上に思いを馳せて、手書きで書き記す、その事そのものが好きであり、大切なことだと思っています。きっと皆様も、肉筆で書かれた心の籠もった賀状は、特別な思いで大切に保管されたのではないでしょうか。

一枚のハガキに籠もる真心を受けとめ新年の一歩踏み出す(あずさ)


一滴の水・一粒の種

2014年12月28日 | 随筆・短歌
 今年も僅かになりました。世界的に気象の変動が激しく、幾多の災害がありました。その度毎に助け合いの精神が、行政にも住民にも次第に行き渡ったようで、災害が発生すると直ちに避難所が開設され、食べ物が支給されます。これにボランティアの人達が加わり、一人一人の手に速やかに食べ物や生活必需品が手渡されるようになりました。有り難いことです。
 不満な点に目を向けると、援助が遅かったとか、復興が遅れているとか、様々な事もあろうかと思いますが、兎に角飢えや、雨や風から守られて温かく眠りにつけることは、開発途上国の現状を見聞きする度に、そして先の大戦後の生活状態を考えると、本当に嘘のような現状です。
 あの頃は、親が亡くなった為に住む家も無く、靴磨きで命をつなぐ子供も多くいました。敗戦で諸外国から祖国に還る人達も、栄養失調と疲労で、帰る途中で亡くなったり、途中で帰ることを諦めざるを得なかった人もいました。(「流れる星は生きている」藤原てい著より) 
 シベリアに抑留された人達が、苛酷な労働に駆り出され、命を失ったりした人々の凄惨な実情が、最近もテレビで放映されました。
 私達は過去に学び、不幸の連鎖を断ち切り、自分の現在の幸せを、少しでも分け合って行けたらと、年末に当たりこの一年を省みて思うのです。
 私達家族は、毎年大きな災害があると、僅かですが出し合って義援金を送るのですが、今年はエボラ出血熱が世間を不安に陥れましたし、未だワクチンの開発も出来ずにいることや、特別にエボラ出血熱の緊急募金がなされていることを知り、「早くこの病から解放されるように」と家族で話し合って、今年の締めくくりに、この願いを形にしたいとユニセフに寄付をしました。
 ふるさとから送られて来た、毎年行われている短歌大会の冊子に、「抑留死の戦友(とも)の名四万六千余 紙碑に刻みて夫は今病む」という歌がありました。シベリヤから帰還されて、病に伏せっている夫を介護しておられる人の歌なのでしょう。また、私の友人は、お父上の生死が不明のままに、とうとうシベリヤから帰還されず、母子二人で過ごされ、後に結婚されて子供さんにも恵まれましたが、そのような運命を背負った人達も数多かったと思います。思いを巡らせると本当に胸が痛みます。
 私は、日々家族や地域の人達に見守られて、寒さや暑さからも身を守り、家族揃って平和で穏やかに過ごせる幸せを持っています。全ての人々が、人間らしい生活が出来る環境を作り出す為に、小さくてもこの有り難さのご恩返しの行動をしたいと、願わずに居られない気持ちになります。
 自己満足に過ぎないのでは、という恥ずかしいような気持ちになることもありますが、「マザー・テレサ」が言われた「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴がなければ大海は成り立たないのです」「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに大きな愛を込めることは出来ます」というお言葉に励まされて、ささやかですが愛を込めて、一滴の水になりたいと思うのです。
 日頃から志の高い人は、それなりにこの世を去る迄に様々な努力をしたり、未来を生きる人々の為に希望の種をまいて逝かれます。
 今年亡くなられた俳優の菅原文太さんのまいた種について、日本経済新聞の12月2日の記事に「妻菅原文子さんの話」として、次のような文章が載っていました。
 
 7年前にぼうこうがんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格別に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人になった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにおわび申し上げます。

  私はこの文章を読んで、戦争の時代から幾多の災難や苦難を乗り越えて、生きて来られた人が、現在の立ち位置に立って、これから先を生きる人々の為に「何か役立つことをしよう」と、種をまき続けられた偉大さ、そして祖霊になられても未だに生者と共に有るという、魂の存在を信じて、将来の日本のために願い続けておられるということに、深い尊敬の念と感動を覚えたのです。
 私の残りの時間がどのくらいか、それは誰にも解らないことですが、私にも小さな種をまき続けることが出来るとしたら、それは何だろうと考え込んでしまいます。「この拙文のどこかから一粒の種が育ったらどんなに嬉しいだろう」と夢見る心地で、今年のブログの最後とさせて頂きます。 
 今年も恥じもせずに、思ったことを書き続けましたが、読んで頂いた皆様に心からお礼を申し上げます。いろいろご批判もあると存じますが、コメントを受ける設定にする勇気がなく、申し訳なく思っています。
 どうぞ皆様が健康で良い新年を迎えられることを、心からお祈り申し上げ、同時に来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 
樺太の真岡の悲劇語りし後夫は黙せり父母すでに亡く(某誌に掲載)