ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

金沢に芭蕉の句碑を訪ねて

2009年03月12日 | 日記
今朝、本棚のアルバムを年代順に並べる仕事をしていた私は、ふと小さなアルバムの所で手が止まりました。
 夫の友人に生化学者だった人がいます。芭蕉が大好きで、自らも俳句をたしなむ、聡明で心温かな人です。大病を患って、旅行が出来なくなったその人が、ある時「金沢の芭蕉の句碑を訪ねたかった」とポロリとこぼしました。旅好きの私達夫婦は、金沢にそんなに芭蕉の足跡があるとは知りませんでしたし、早速インターネットで調べて、その人に代わって、一昨年秋に芭蕉の句碑を巡る旅に出かけました。
 先ず北國銀行の記念碑を探すことから始めました。「元禄二年初秋 蕉翁奥の細道途次遺跡」と石柱が立っていました。次に徒歩で、成学寺へ行きました。寺の庭には、肩の丈ほどの蕉翁墳に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と刻まれていて、丁度秋の最中の午後だったので、金沢で詠んだという芭蕉の心が伝わる思いでした。
 そこから次は迷いに迷って本長寺にたどり着き、「春もややけしき調ふ月と梅」の句碑を見て、更に徒歩で願念寺へ行きました。芭蕉がその才能を最も注目していた俳人、小杉一笑が亡くなったのを「塚も動け我泣く声は秋の風」とその悲しみを詠んだ有名な句碑があります。塚も動け、という芭蕉の慟哭の思いが句碑の前に立つ私の胸を打ちました。
 隣に「一笑塚」と大きく彫られた塚があって、「心から雪うつくしや西の雲」との一笑の句が刻まれていました。境内には小杉家代々の墓もあって、寺の奥様が一笑も入っているのだと教えて下さいました。享年36歳の若すぎる死でした。
 そこから長久寺の「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の句や、兼六園の山崎山の「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」と彫られている句碑を見ました。兼六園の句碑は傍らの説明文で、ようやく判読出来るほどに年経ていて、石碑の歴史を感じさせられました。
 全ての句碑を写真に撮り、時折は老夫婦がお互いに句碑に寄って立ち、それらの写真は夫の友人に送りました。夫の友人の零した一言から生まれた小旅行でありましたが、またとない良い旅になりました。句碑を巡るという経験は初めてでしたし、学生時代を過ごした街を訪ねる事が出来た夫には、本当に良い旅になり今でも大変感謝しています。 

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猫の涙

2009年03月09日 | 日記
 近くに一人暮らしをしている友達がいます。今朝会いましたら、長年可愛がって育てていた猫が亡くなったというのです。遠くに住む娘さんが、たまたま昨日帰って来た時は、もうすっかり動けなくなっていたのに、弱々しく尻尾を振り、ゴロゴロと喉を微かに鳴らして、力の限り歓迎をしたといいます。
 帰る娘さんを送り出して戻ってみると、何と猫が涙を流していたというです。「猫の涙を初めて見た」と友達はいい、今朝自分の手の中で静かに旅だった、と涙ながらに話してくれました。長い間共に暮らすと、猫も人間も別れの辛さは同じです。
 私には生涯を独身で過ごし、独り残った母と最後まで一緒に暮らして、それはそれは良く面倒を見た弟がいます。離れて暮らす私が、時折母の所へ様子を見に行くと、母は昼食に弟が出勤前に作り置いたお弁当を食べていました。そのお弁当は実に細やかな愛情に満ちていて、歯の無い老人にも食べやすい様に柔らかく、栄養が整っていて色合いも工夫され、男の人が作ったお弁当とは、とても思えない見事なものでした。こんなに細やかな心遣いが果たして私にも出来るだろうか、と考えさせられたものです。 
 母の面倒を見る事を生き甲斐のようにして過ごした弟だったせいか、母が亡くなって間もない或る夜、泣きながら電話を掛けて来ました。「もっと良く母の面倒を見てやれば良かった」という後悔が湧いてきて堪らないというのです。義父母を見送った経験があり、どんなに心を尽くして看病しても、亡くなられると必ず「もっとこうして上げていれば」という後悔に苛まれる事を良く知っていた私は「どんなに完璧に看病しても生じる後悔だ」と慰め、母が生きていた頃「私は日本一幸せ者だ」と口癖のように云っていた事を伝えました。母は弟には、面と向かってそんな事は言わなかったのでしょう。私の言葉に驚いた様子でしたが、暫く涙を流した後電話は切れました。でも共に暮らしてきた人が居なくなってみると、淋しさはつい後悔を呼ぶらしく、何日も何日も夜になると泣きながらの電話が来ました。感謝の涙、優しさの涙はみな美しい、と思った朝でした。

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父の手紙

2009年03月08日 | 日記
昨夜はWBCの対韓国戦を見ながら、手紙を三通書きました。時折夫の解説入りでしたが、14対2の大差で、コールドゲームの試合を最後まで見ました。手紙を書きながら、ふと父がとても筆まめで、良く手紙をくれた事を思い出しました。
 学生時代に家を離れて以来、受け取った手紙は、百通に近くなるでしょうか。文字の上手い父の手紙は、さりげない言葉の端はしに、何時も温かい愛情が伝わってきて、受け取る度に嬉しいものでした。父が年老いて、もう何年も生きていないのではないか、と思った頃から、私は将来読み返す事を考えて、父の手紙を残しておこうと思い立ちました。
 以来私の手元に十数通の手紙が残りました。内容はその時々で葉書であったり、長い手紙であったりですが、例えば母と二人で私の嫁ぎ先へ来てくれた日の帰り道は、月が煌々と輝き心地よい春風の中を、駅から家迄歩いて帰ったとか、共働きで子供を育てながら親にも仕え、偉いものだと母さんと話し合っている、とか云ったような内容が、淡々と綴られているのです。
 父が亡くなって三十数年が経ちましたが、今でも時折取り出して、父の文字や温かい心に触れると、その時々の思いが鮮明に蘇り感慨深いものがあります。父の年齢にはまだ及びませんが、家族への愛情という面でも、私は父に遠く及ばなかったと思いながら手紙を書きました。せめて真心を込めて書いた積もりです。


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もう一つの平等

2009年03月05日 | 日記
 いよいよ2兆円の血税を使って、定額給付金が支給される事に決定しました。全国民に平等に支給するから、閣僚のような高額所得者にも等しく配るという事ですが、これを国家の政策として、平等と考えていいのでしょうか。
 ある時、あまり裕福とは思えない老婦人が、「私はなんとか暮らしていけるから恵まれない人にあげて欲しい」と云っておられ、その温かさに心を打たれました。
 政府は当初の趣旨を変更して、「景気浮揚のために使うのだから、所得に関係なくもらって使えばよい」と云い出し、「さもしい」と云った人も「使って国策に寄与する」と云っていますが、税金をもらって使う事は、矢張り利益を享受する事に変わりはありません。血税は国民が等しく人間らしい暮らしが出来る為に使われてこそ役立つのであって、富める人は受け取らず、大いに消費していただくのが、本当の意味で平等とは云えないでしょうか。
 富める人はせめて給付金の何倍も消費して、日本経済の浮揚に寄与して頂けるように、ばあさまからのお願いです。

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子供の存在

2009年03月04日 | 日記
 昨日テレビで映画「クレーマー・クレーマー」を見ました。実は三回目だったのですが、もう一度見たくなって、歳のせいもありましょうが、最後は涙をポロポロ零しながら見ました。
 父親と子供の深いつながりに心を打たれたり、最後に母親がもう一度家庭を築き上げる努力をしてくれたら、と残念に思ったりしました。
 長い人生の中では、色んな出来事が起こり、道は真っ直ぐではありません。しかし家庭は、夫婦がお互いに短所をカバーしあって築き上げるものであって、ましてや子供のいる家庭では、子供も一人の人間として尊重されなければなりません。
 最近は直ぐに離婚する傾向にあって、そのため傷つく子供が増えている事が気がかりです。子供の立場に立って、もう少し温かくしっかりした家庭を築く努力は出来ないものでしょうか。安易な離婚によって、取り残された子供の心について、もっとしっかり考えて頂きたい、と切に感じるこの頃です。
コメント (1)
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