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思い出のマーニー

2014年08月06日 | 邦画(14年)
 『思い出のマ―ニー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『借りぐらしのアリエッティ』を制作した米林宏昌監督によるスタジオジブリ作品(注1)ということで、映画館に行ってきました。

 米林監督の前作は、メアリー・ノートン作『床下の小人たち』を日本の東京郊外に置き換えた作品でしたが、本作も、イギリスが舞台のジョーン・G・ロビンソン作『思い出のマーニー』(高見浩訳、新潮文庫)を日本の北海道に置き換えて作られています。

 本作の最初の方では、子供らが遊ぶ公園が映し出され、学校の絵画の時間なのでしょう、周囲では子どもたちが絵を描いていて、先生が「動きの一瞬を捉えるんだ」などと言っています。
 主人公の杏奈は、他の子とは離れて座って絵を描きながら、「みんなは、目に見えない魔法の輪の内側にいる人たち。私は外側の人間。でもそんなことはどうでもいい」と呟いたりします。
 先生が近づいて「絵を見せてみろ」と言うと、杏奈は「私ちょっと失敗」と言って隠そうとし、更に先生が絵を見ようとしたら、男の子の泣く声がしたために先生はその場を離れてしまいます。
 杏奈は「私は私が嫌い」と呟きます。

 その後に喘息の発作が起きて、家に医者が往診に来ます。
 杏奈は、「またお金がかかってしまった」と独り言を言ったり、医師が母親・頼子に「相変わらず心配症だね、お母さんは」と言うのを耳にすると、「お母さん?」と呟いたりします。
 更に、頼子が「あの子いつも普通の顔(注2)、感情を表に出さないの。やっぱり、血が繋がっていないからかしら」と言うのも聞いてしまいます。
 これに対して、医師は「12歳だし、大変な時。例の療養の件を考えた方がいいかもしれない」と応じます。

 それで杏奈は、一夏、住んでいる札幌を離れて、道東の海辺の村にいる大岩夫妻(頼子の親戚)のところで暮らすことに。



 日がな一日、海辺の風景をスケッチしたりして過ごす杏奈は、入江の向こう岸に見える洋館(「湿っち屋敷」)がひどく気にかかります。
 そして、杏奈の前に、その洋館に住むマーニーという少女が現れるようになります。



 このマーニーは一体どんな少女なのでしょう、杏奈との関係はどうなるのでしょう、………?

 本作の主人公は、両親を亡くし養母の元で暮らしていた12歳の少女。喘息の療養をも兼ねて一夏を過ごすことになった海辺の親戚の家で、忘れられない体験をするのですが、多感な少女の様々の思いが、素晴らしい道東の景色の中などで描かれていて、大層感動的なアニメです。

(2)本作の導入部は、上記(1)でラフに書いたことからも推測されるように、その後の展開につながる伏線が様々に張られていて、なかなか優れたものではないかと思います。

 杏奈は「私は輪の外側の人間」と呟きますが、そしてそういう見方をする「自分が嫌い」と言うのですが(注3)、こういう周囲に心を閉ざしてしまった杏奈が海辺でのマーニーとの交流によってどんなふうに成長するのか、ということが本作の見所となっています。

 さらに、「またお金がかかってしまった」と杏奈が言うのは、自分の養育についてお金がかかっていることについて、杏奈がかなり気にしていることを暗示しているでしょう(注4)。
 それと関係しますが、頼子が「血が繋がっていないからかしら」と言うのは、杏奈の両親がすでに交通事故で死んでいて、頼子が養母になっていることを表しています。

 そして、この導入部は随分と日本的な感じがし、言うまでもなく原作とは大層違っています(注5)。
 このように巧みに原作を日本に置き換えることができるのであれば、どうして本作は、原作を引きずってアンナやマーニーという名前をそのまま使ったり、マーニーを外国人の少女として描いたりするのでしょう(注6)?
 本作のように、物語のシチュエーションを日本に置き換えるのであれば、すべて丸ごと日本人の登場人物にしてみた方がずっとしっくりと来るのではないかと思えます(注7)。

 それに、本作は、男性の登場人物が殆ど活躍しないという昨今の流れに沿った作品(注8)のようにも思えます。なによりも、少女マーニーとの交流によって杏奈の成長が見られるのですから。

 とはいえ、そんなことに目をつぶれば、大層感動的な作品ではないかと思いました。
 特に、2階の窓に佇むマーニーに向かって、ボートの杏奈が「もちろん、許してあげる。決してあなたを忘れない」と叫ぶシーンは良く出来ていると思います。

 さらに、挿入曲として、クラシック・ギター曲の『アルハンブラの思い出』が使われているのですから(注9)、クマネズミにとってはそれだけでOKです!

(3)渡まち子氏は、「苦悩を抱えた少女が体験するひと夏の不思議な出来事を描く、スタジオ・ジブリの新作「思い出のマーニー」。脱・宮崎路線がスタートしたようだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「それにしても、ジブリ作品にはもともと原作ものが多いとはいえ、今回はアニメが原作への誘い役にとどまっているのは残念な限り」などとして65点をつけています(注10)。
 相木悟氏は、「自分さがしの感動的なおとぎ話ではあるのだが、いまいちとらえどころが難しい一作であった」と述べています。



(注1)スタジオジブリでは、制作部門を一時解体することとしたそうです(例えばこの記事)。だとすると、この作品が、アニメ映画としてスタジオジブリの最後になるかもしれません。

(注2)推測になりますが、頼子が杏奈について「普通の顔」と言うのは、本作が松野正子訳の岩波少年文庫版に依拠しているためではないでしょうか?
 これに対し、原書で「'ordinary’ look」とされている語句について、高見浩訳の新潮文庫版においては「つまらなそうな顔」と訳されています。
 僭越ながらクマネズミは、アマゾンの同作についてのカスタマーレビューにおける「ウルル」さんの見解に対する「コメント」で「yasu」さんが言うように、「ordinaryを「つまらなさそうな」と翻訳できるところこそが、この翻訳家(高見浩氏)の素晴らしい感性」ではないかと思います(なにより、常識人のプレストン夫人が“wooden”と思ったアンナの顔が「普通の顔」というのはとても奇妙な感じがします)。 

 なお、“ordinary”がこれほど注目される一因として、岩波少年文庫の特装版の巻末に付けられている河合隼雄氏による解説「『思い出のマーニー』を読む」の第1節のタイトルが「ふつうの顔」とされて様々の議論がなされていることが挙げられるのではと思います〔「“ふつうの”顔つき」は「他の誰でもがアンナの内面に触れてくるのを拒む、アンナにとっては大切な防壁だったのである」(岩波現代文庫S254『子どもの本を読む』P.68)〕。

(注3)杏奈は、輪の外側にいるだけでなく、内側にいる人間が自分の方によって来て手を差し伸べてもそれを拒絶してしまうのです。地元の信子に「あんたの眼きれい、ちよっと青が入っていて」と言われると(下記「注6」参照)、「いい加減放っておいてよ、太っちょ豚!」と言ってしまいます〔原作でも、サンドラに対してアンナは「でぶっちょの豚むすめ!」と言います(新潮文庫版P.66)〕。

 なお、信子はまず、七夕祭りの短冊に杏奈が「普通に暮らせますように」と書いたことを見咎めますが(「普通ってどういうこと?」)、この「普通に」というのはもしかしたら上記「注2」で触れた「普通の顔」の「普通に」と通じているかもしれません。
 むろん、この場面に直接対応する原作部分はありませんからなんとも言えません。でも、輪の外側にいると自覚している杏奈が、輪の内側の人間と同じように「普通に」暮らしたいと願うことにも違和感を覚えます(輪の外にいる自分と考える自分が嫌いだとアンナは思ってもいるとはいえ)。
 本作の原作が岩波少年文庫版だとされていることによって、この場面が作られたのではと推測したくなります(と言っても、新潮文庫版の発行は本年の7月ですから、それに依拠してアニメを作ることは土台無理な話ですが!)。

(注4)原作でも、アンナはマーニーに「実はね、あの人たち、あたしの面倒を見ているのはお金のためなの」、「手紙を見つけたのよ。……なんとかの委員会はあたしへの手当を増額する、というようなことが書いてあって、小切手も一緒に入っていたの」と告白します(新潮文庫版P.152)。
 そのことがきっかけとなって、本作と同じように(「本当の子供だと思っていたらそんなお金をもらっているはずがない」と杏奈はマーニーに言います)、アンナと養母のプレストンさん夫婦との関係が微妙にぎくしゃくしたものとなります。

 ちなみに、日本でも里子に対して様々な援助がなされていて、このサイトの記事によれば、「里子1人に対して、総額で年間約2百万もの予算が出て」いるとのこと。

(注5)原作では、いきなり、ロンドンで暮らすアンナがノーフォーク(ロンドンの北東)のペグ夫妻の元へ出発する光景から始まります。

(注6)マーニーが外国人であることによって、杏奈の母親はハーフになり、杏奈にも外国人の血が流れていることになります(あるいはクォーターでしょうか)。そのことがもしかしたら、杏奈の性格形成に大きな影響を及ぼしているのかもしれません(周囲から特別視される要因が、孤児の他にもう一つ加わったことによって)。でも、本作の物語の展開には、そういった要素はむしろ余計なもののように思えるのですが。
 と言っても、マーニーが外国人だからこそ、彼女が歌う子守唄の旋律が『アルハンブラの思い出』となるのでしょうが(下記「注9」参照)!

(注7)『借りぐらしのアリエッティ』についても、全体が日本での話とされているのに、どうして小人たちの名前が原作のママになっているのか不思議に思いました。

(注8)ごく最近では、例えば、『アナと雪の女王』とか『マレフィセント』。
 また、NHK連続TV小説『花子とアン』も、花子や蓮子などの活躍ぶりに比べたら、男性陣の影は大層薄いものとなっています。

(注9)一度目は洋館でのパーティーの際に(「わたしたちも踊りましょう!」)、二度目は杏奈の幼いころに「老婦人」が歌ってくれた子守唄(「思い出のマーニー」)として〔映画の中では森山良子(「老婦人」の声を担当)によるハミングで歌われます。いずれも管弦楽が演奏されて、ギターによるトレモロ演奏はされません。両曲ともこのサイトで試聴できます〕。

(注10)前田氏は、本作は『アナと雪の女王』と同じように、「「でも、いつだって頑張ってるアタシ」──を肯定する話」を描いていると述べています。ですが、魔法の輪の外側にいて、その内側にいる人との交流を拒む本作の主人公・杏奈は、「いつだって頑張ってる」人間とは対極に位置する存在であることは明らかだと思われるます〔新潮文庫版の原作においても、例えば学年担当の教師から、「アンナ、あなたは頑張ろうともしないのね」と言われています(P.9)〕。



★★★★☆☆



象のロケット:思い出のマーニー


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4 コメント

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説明 (まっつぁんこ)
2014-08-06 21:19:03
最後のところが説明過剰でした。
杏奈の瞳が青いんだからクドクド説明しなくても推定できる。
(原作はともかく)こども向け?アニメなら色々考えさせて終わっちゃえばいいのに。そうすればおっしゃるような不自然な設定も活きたと思います。
Unknown (クマネズミ)
2014-08-07 05:53:33
「まっつぁんこ」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「クドクド説明しなくても」、「アニメなら色々考えさせて終わっちゃえばいい」のかもしれませんね。
ただ、クマネズミは、『アルハンブラの想い出』が出てくることもあって、最後の方の説明も違和感なく受け止めました。
ただ、マーニーを外国人にしなかったら、もっと全体がスッキリしたものになったのではと思いましたが。
Unknown (ふじき78)
2015-01-07 00:31:26
そう言えば、昔「マニトウ」っていうホラー映画があったな。腫瘍の正体が悪魔なの。アンナが思うマーニーこそがアンナの腫瘍って意味で「思い出のマニトウ」を連想させるマーニーという名前を変名できなかったのだろうか。いやいやいやいや、それはないってか、そもそも「マーニー」と「マニトウ」の時点で合ってないし。

というくらい、強い気持ちがこの映画に籠ってないのだろうなあ(滅多に強い気持ちが籠らないって言えば、まあ言えるのだけど)。
Unknown (クマネズミ)
2015-01-07 06:47:36
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
『マニトウ』は、「B級映画ファンにはカルト的人気を誇っている」映画とのことながら(wiki)、映画知識の乏しいクマネズミは耳にしたこともありません。さすがは「ふじき78」さんとはいえ、「アンナが思うマーニーこそがアンナの腫瘍」で、その「腫瘍の正体が悪魔」というのでは、「強い気持ち」が籠もり過ぎになってしまいます!

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