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裁き

2017年07月21日 | 洋画(17年)
 インド映画『裁き』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)評判を耳にして、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、インドのムンバイにある小学校の教室らしき部屋の光景(注2)。
 一人の生徒が「蝶が、葉や花の上を飛ぶ……」と本を読み上げると、先生のカンブレヴィーラ―・サーティダル)が「よろしい」と言い、さらに「空欄を埋めて」と言って、本を見ながら「インドで一番大きな州は―」、「一番大きな大陸は―」などと言うと、生徒が、「ラージャスターン州」とか「アジア大陸」などと答えます。
 それから、カンブレは「宿題を忘れるなよ」と生徒に言って、その場所を出ます。

 カンブレは街中を急ぎ足で歩き、大きな道路に出ると、丁度やって来たバスに乗り込みます。バスの座席に座っていると携帯が鳴り、カンブレは「今向かっている。5分ほどで着く」と答えます。
 バスを降りたカンブレは、「◯◯虐殺抗議集会」との横断幕のある通りを通って、集会が開かれている会場の舞台の上にあがります。
 司会が、「続いて、民衆詩人のカンブレさんです」と聴衆に紹介します。
 カンブレは、「兄弟たちよ聴け!」「ここは大混乱だ」「反乱の時が来た」「敵を知る時だ」「土地を追われるぞ」「目を開け!」「善き人は忘れられる」「敵はすべてを滅ぼす」などと歌い上げます。



 その時、何人かの警官が「止めろ、止めろ」と言いながらやって来て、集会を中止させます。

 場面が変わって警察署。
 捜査官のシェルクのところに、弁護士のヴォーラーヴィヴェーク・ゴーンバル)がやって来ます。
 ヴォーラーが「逮捕されたカンブレに面会したい」と言うと、シェルクは「ここにはいない。ここには留置場がないので」と答えます。
 さらに、ヴォーラーが「どんな罪で逮捕したのだ?」と尋ねると、シェルクは「彼には伝えてある」と答えます。
 ヴォーラーが「逮捕状があるなら見せてくれ」と求めると、シェルクはその書類を見せます。
 その書類に「自殺幇助」とあるので、ヴォーラーが「誰が自殺したのか?」と尋ねます。
 シェルクは「スラムから来た下水清掃人の男だ」と答え、「カンブレらは、そのスラムで公演した際に、「すべての清掃人は自殺すべき」と歌い、公演の2日後にその男が自殺した」「証拠があるから我々は彼を逮捕した」と説明します。

 次いで、裁判所。
 護送車が入口に着いて、バックドアからカンブレが現れ、建物の中に入りますます。
 中では、次々に案件が処理されています。
 カンブレの件が回ってきて、弁護士のヴォーラーがカンブレの保釈を求めると、裁判官は「保釈は無理だ」と答えます。さらに、ヴォーラーが「今後の公演に条件をつけてもかまいません」と求めますが、裁判官は「出来ない」と答えます。
 それで、ヴォーラーは頭を下げて引き下がり、カンブレも出ていきます。

 こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょう………?

 本作は、インドのムンバイにある裁判所に関わる人々の動きを捉えた作品です。メインとなるのは、ある下水清掃人の自殺を幇助したとして捕らえられた民謡歌手に関わる裁判です。と言っても、本作で専ら描き出されるのは、その事件の真相というよりもむしろ、その裁判に関わる弁護士、検察官、裁判官、警察官らの動きの方です。その事件の裁判が進行する中で、同時に、弁護士等の個人的な生活も焦点を当てられ、そうすることによって、インドの現状といったものが浮かび上がってくるわけで、なかなかユニークな作品ではないかと思いました。

(2)本作についてのあるポスター(注3)には、民謡歌手のカンブレが手を上げて歌っている姿が真ん中に大きく描かれています。



 こんな画像を見ると、本作は反骨の歌手のカンブレを主人公とする社会派の作品のように思えてしまいます。
 確かに、本作では、不当に逮捕されたこの歌手を巡る裁判の模様が描かれています(注4)。
 ですが、実際のところは、カンブレだけでなく、その裁判に携わる裁判官とか、検事、弁護士などの生活に対しても、同じように焦点が当てられているのです。むしろ、カンブレの事件は、そうした人たちの姿を描くための場を提供している感じがするほどです。

 まずは、カンブレの事件を担当する弁護士のヴォーラーと女性検事のヌータンギーターンジャリ・クルカルニー)。



 ヴォーラーは、日本で言えば人権派の弁護士であり(注5)、依頼人のカンブレの弁護を行い、なかなかの能力を発揮するとはいえ、本作では、彼の私生活にも焦点が当てられます。
 例えば、自身が運転する車の中でジャズを流して聴いたり、クラシック音楽が流れる高級スーパーで高級ワインを購入したりします。
 加えて、両親と一緒に暮らす家の中の様子が描かれたりもします(注6)。

 また、ヌータンは、裁判では淡々と事務的に検事の仕事をこなしますが、そこを離れると、同僚と裁判官についての噂話などをしたり(注7)、通勤の列車の中で、隣に座った女性と夕食のおかずをどうするのかといったことについて話をしたりします(注8)。

 さらに、なかなか公正な判断をする裁判官のダーヴァルテープラディープ・ジョーシー)。



 彼は、夏休み休暇を使ってリゾート地に親戚一同でバス旅行に出かけた際に、親類の男と、その男の病気の息子について熱心に話します(注9)。

 この他、カンブレの事件の被害者とされる下水清掃人の妻のシャルミラー・パワルウシャー・バーネー)たちが住む荒れ果てたアパートの模様も描き出されます(注10)。

 このように、カンブレの裁判が進行すると同時に、裁判に関係する人たちの生活の様子も次第に具体的に明らかにされていきます。
 そうなれば、インド事情に詳しい人ならば、例えば、各人がどのカーストに属していて、そこにどんな差別問題が含まれるのかもわかることでしょう(注11)。
 でも、クマネズミのように、インドの事情に疎く、カースト制などの具体的な実態がわからなくとも、様々な人達が重層的に巧みに描き出されている本作を見れば、インド社会の実に複雑な構造の一端を垣間見られたなという思いを抱くことができるでしょう。

 カンブレは、ヴォーラーの尽力もあって一度は保釈されるものの、再度、反体制的な歌を集会で歌ってしまい、またもや逮捕されてしまいます。
 ヴォーラーは保釈を請求するものの、裁判所は夏休みに入り、1か月間休廷ということに。
 ラストでは、リゾート地に出かけた裁判官のダーヴァルテーは、椅子に座ってうたた寝をしているところを子供たちに悪さをされて飛び起きるのですが、さて、カンブレは、そしてインドはこの先どのようになるのでしょう?

(3)渡まち子氏は、「他民族国家で長い歴史に培われたインド社会に、現代の人権問題や法制度をぶつけるというバリバリの社会派ドラマでありながら、映画のタッチは乾いたユーモアを感じさせる独特な作風だ。各地の映画祭で高い評価を得たという若き映画作家タームハネー監督の視点の鋭さを感じさせる」として70点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「物語はカンブレの裁判を描いているとはいえ、映画が焦点を当てるのはインドの裁判所であり、そこからインド社会の縮図が巧みに浮き彫りにされる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「その日常生活にリアリティーがあるために、裁判だけでなくインド社会全体が不条理な存在として見えてくる。現実の手ざわりがこわくなる映画でした」と述べています。
 暉峻創三氏は、「その非中心化された構造と、異なる階層に属する者が一堂にそろう例外的な場としての法廷の姿を通じて、階級社会の不条理が怒りとも諦めともつかぬ感情と共にじわじわ炙りだされる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、チャイタニヤ・タームハネー(同氏についての記事はこちら)。
 原題は「Court」。
 邦題として抽象的な「裁き」が使われていますが、映画の内容からしたら、タイトルとしては、原題のように「裁判所」という具体的な感じがする言葉を使う方が適当のように思われます。

(注2)と言っても、黒板はありませんし、机や椅子もなく、生徒は床に直に座っています。先生も、1段高いベッドのような場所に胡座をかいて座りながら教えています。なんだか私的な塾のような雰囲気です。

(注3)インドで使われたもののようです。

(注4)裁判において、検察官のヌータンは、カンブレが自殺を唆す歌を歌ったがために、当該下水清掃人が自殺したのだ、と主張します。これに対し、弁護士のヴォーラーは、カンブレがそのような歌を歌ったという証拠はないし、また当該下水清掃人が死んだのは事故によるものであり、自殺したのではない、と主張します。

(注5)本作の中で、ヴォーラーは、「ムンバイ報道協会」の会合で、2007年の爆弾事件に絡んで逮捕された男の事例を取り上げた報告(被告は、アリバイがあったために釈放されたものの、2週間後に新しい容疑で再逮捕され、その件も無罪を勝ち取ったにもかかわらず、釈放された途端にまた逮捕された)を行ったり、カンブレの保釈のために10万ルピー(18万円ほど)を支払ったりもするのです。

(注6)ヴォーラーが、食卓の上に書類を広げて仕事をしていると、母親が「食事の机で仕事をしないで」と注意します。それに対して、ヴォーラーが「時間がなかったんだ。すぐに終わるから」と言うと、母親は「いつものセリフが出た」と応じます。
 また、食事中に友人のスポードシリーシュ・パワル)が現れると、ヴォーラーは一緒に食べるように勧め、その際母親はスポードに、「この子、恋人がいるの?家では何も話さないのよ」と尋ねます。すると、ヴォーラーは、「会って4回だけの人につまらない話をして」と母親を怒ります。

(注7)同僚が「ハヌマーン寺院」(例えば、この記事を参照)の建設のことを話したり、ヌータンは「裁判官のサダーヴァルテーは鋭いけど、すぐに判決を下すべき」「カンブレの事案などは20年の懲役でおしまい」「判事になれたらお祝いして」等と話したりします。

(注8)先ずヌータンの方から、列車で隣に座って新聞を読んでいる女性に向かって、「あなたの着ているサリーは素敵だ」と話しかけると、その女性は「綿製なので着心地が良い」と答え、今度はその女性が「今晩の夕食はどうするの」とヌータンに尋ねます。ヌータンは「私の夫は糖尿病なの」「それで、油のものとか甘いものを減らすと、子供たちが不平を言う」「娘がオリーブ油を使ったらいいと言うの」と言うと、その女性は「高価なものだから、いつも使ったら破産してしまう」と答えたりします。
 ヌータンは、家に帰ると、子供に「宿題は出たの?」と訊いたり、買い物に行ったり、TVを見ている夫に料理を作ったりもします。

(注9)ダーヴァルテーがその男に、「君の息子について医者はなんと言っている?」と尋ねると、彼は「はっきりとしたことは何も」と答え、続けて「息子は、学校に行っていない。一箇所にじっと座っていることが出来ないから」「最近、セラピストを見つけたものの、パパとママとしか言わない」と言うと、裁判官は「彼の名前を変えたほうが良い」「良い占い師に相談しなさい」と言い、さらに「ざくろ石の指輪を彼の中指にはめたら効果がある」などと忠告します。

(注10)下水清掃人の妻のシャルミラー・パワルは、裁判所に証人として出廷しますが、その後、ヴォーラーは、彼女を車に乗せてその住んでいるところに送り届けます。
 その車の中で、彼女は「あと何回法廷に呼ばれますか?」と尋ね、ヴォーラーが「あと1、2回」と答えると、彼女は「呼ばれると職を失ってしまう」と言い、それに対しヴォーラーが「お金が必要ならば用立てする」と応じると、彼女は「お金ではなく仕事が必要なんです」と言います。

(注11)本作の劇場用パンフレットに掲載のインタビュー記事の中で、監督は「(民謡歌手の)カンブレは、伝統的にカースト制度の外側に置かれている「不可触民」という最下層に属してい」ると述べており、また、同パンフレット掲載の石田英明氏のエッセイ「『裁き』の背景」には、弁護士ヴォーラーについて、「ヴォーラーという姓は(隣接州の)グジャラート州の商人カーストに多い名前」であり、また死んだ下水清掃人に関して、「下水の清掃作業は伝統的に特に地位の低い被差別カーストが担ってきた仕事である」と述べられています。



★★★★☆☆




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2 コメント

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Unknown (ふじき78)
2017-08-07 20:56:15
淡々としすぎてて見てて疲れました。

アウトカーストの彼は捕まるのが当たり前、悪くなくても罰せられるのはしょうがないみたいな人生を送ってきたのでしょうね。
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Unknown (クマネズミ)
2017-08-08 05:58:54
「ふじき78」さん、コメントを有難うございます。
「アウトカーストの彼は捕まるのが当たり前、悪くなくても罰せられるのはしょうがないみたいな人生を送ってきた」と述べておられますが、カンブレは、「アウトカースト」だからというよりも、かなり反体制的な内容の歌を歌っていて民衆を扇動しテロを助長する者としてずっと当局からマークされていて、チョットでもおかしなことがあると犯罪をでっち上げられて逮捕されたように思われます。
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