『希望の国』を新宿ピカデリーで見ました。
(1)このところ、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』、『ヒミズ』となかなか面白い作品を矢継ぎ早に製作している園子温監督が、福島原発事故を取り上げた映画だということで見に行ってきましたが、クマネズミにとっては園監督らしさが余りうかがえないなんとも退屈な作品でした。
物語の舞台は、東日本大震災から数年後の長島県大葉町。
冒頭では、町の郊外にある農家の状況が牧歌的に描かれます。
主人公の小野泰彦(夏八木勲)は、認知症の妻・智恵子(大谷直子)、それに息子・洋一(村上淳)とその妻・いずみ(神楽坂恵)と一つ屋根の下で暮らし、共同して酪農を営み、なおかつ畑ではブロッコリーを作っています。
また、泰彦の家の前の鈴木家では野菜作りをしているのでしょう、できたホウレンソウを泰彦に引き取ってもらう一方で、父親の健(でんでん)は、家業を手伝いもしない長男ミツル(清水優)が恋人ヨーコ(梶原ひかり)をオートバイに乗せて出かけようとするのを見咎めたりします。
さらに、大葉町の商店街の入り口には、「原発の町へようこそ」と記されたゲートが設けられており、その酒屋の主人・松崎のところへは、泰彦から「ブロッコリーを早く取りに来い」との電話が入ります。
そんなところに、突然轟音が鳴り渡り、激しい揺れが。
小野の家では、電気が消え、家の中がめちゃくちゃになります。
今夜ブロッコリーを取りに来るはずの松崎とも電話が通じません。
前の鈴木家のミツルとヨーコのオートバイは戻ってくるものの、ラジオが「震源地は長島県東方沖 地震の規模はマグニチュード8.5」と言っているのを聞くと、泰彦は町の原発のことが心配になってきます。
さあ、この先一体どうなることでしょう、泰彦や健の家族の行く末は、……?
本作は、原発事故により強制立ち退きを求められた人々の大変さを家族愛の中で描いているわけながら、こうしたものならばNHKのドキュメンタリーで十分なのでは、と思えてきます(言い過ぎかもしれませんが)。また、家族愛の描き方もストレートに過ぎ、演じる俳優たちもなぜか頗る新劇調になってしまっていて(注1)、クマネズミは違和感を覚えざるを得ませんでした。
主演の夏八木勲は、『アンダルシア』とか『ロストクライム』で見ましたが、本作を見るとその演技力はさすがと思わせます。
また、その妻を演じる大谷直子は、スクリーンで見るのは『肉弾』(1968年)とか『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)以来のような気がして頗る懐かしかったものの、セリフ回しがやや大仰な印象を受けました。
息子の洋一に扮する村上淳は、『ヘヴンズストーリー』とか『生きてるものはいないのか』など実に様々の作品で見かけましたが、どのような役柄でもうまくこなしてしまう得難い俳優だなと思いました。
(2)本作は、いつもの園監督の作品とはどうも様子が違うなという気が強くしたので(注2)、「映画『希望の国』原作 〝半ドキュメンタリー〟小説」と帯にある小説『希望の国』(園子音著:リトルモア、2012.9)に目を通してみました。
実際のところ、この小説は、シナリオの展開の中に、メイキングを明かす文章が織り込まれているのです(あるいは、逆に、メイキングに触れた文章にシナリオが埋め込まれていると言った方がいいかもしれません)。
むろん、このメイキングの部分もまたフィクショナルな要素を持っているのかもしれません。でも、ここではドキュメンタリーと受け取っておくこととします。
そうすると、次のような言葉に注意が向きます。
「テレビでみんなが見て知っているありきたりな物語……それをもっと深く作りたい」(P.20)。
「みんなが想像できる単純な物語を更に深めたい。かといって想像だけに頼りたくもない。 現実に起きていることを想像力で作って行こうとすれば、薄っぺらな嘘になる」(〃)。
「自分の目と耳と手足で、具体的に知ったことを物語にしなくてはいけない」(P.21)。
どうやら、こうした基本的なコンセプトに立ちつつ、映画の舞台を「近未来の20XX年のとある日」(P.44)の長島県とし、「ナガシマとは、長崎と広島、そいて福島の三つの地名を重ねている」(P.43)と架空の場所と日時としているようです。
すなわち、「福島で起きた全てのこと―いろいろな場所で、色々な経験をした人々の声を、一つの家族の物語、一つの町の物語にできるだけ、集約してい」って(注3)、「具体ばかりの事実ばかりの話」、「空想や妄想の混じりっ気なしの本当にあった話」ばかりを語ろうとシナリオを作っていったものと考えられます(P.46)。
確かに、映画で描かれている個別のエピソード自体は、つきつめていけば、どれもこれも本当にあった話に基づいているのでしょう。
でも、現実の日時や場所を離れて描こうとすれば(注4)、逆に個別のエピソードに嘘らしさが付きまとってくのではないでしょうか(注5)?
さらにまた、たとえ個別のエピソードが真実によるものだとしても、それを集めた作品全体が、見る者にリアリティをもって迫るとは限らないのではないでしょうか(注6)?
それに、ここで描かれているのはすべて真実だと言われてしまうと、見る側の方は、それらをそのままパッシブに受け入れざるを得なくなってしまい、ポジティブに立ち向かう気力が失せてしまいます(また、製作者側の方でも、クリエイティブな面をギリギリまで追及する努力を払わなくなるのではないでしょうか)(注7)。
(3)渡まち子氏は、「原発事故に直面した3組の男女を描く「希望の国」。美しい映像、美しい旋律、目に見えない恐怖の中にも希望がある」として75点をつけています。
他方、前田有一氏は、「結論として、「希望の国」は、原発問題を真剣に考え、勉強している人がみてももどかしいばかり。決して我が意を得たりとならないところが残念である。かといってニュートラルな人がこれを見て、原発や放射能について理解を深めたり、興味を持つとも思いがたい。どういう人に勧めたらいいのか、ちょいと考えてしまう」として30点をつけています。
(注1)特に、洋一といずみの夫婦が泰彦の家に最後に戻ってきた際に、庭で洋一が「原発の畜生め」などと叫ぶ場面などは、いかにも新劇調だなとうんざりしました。
(注2)2009年の『ちゃんと伝える』に雰囲気が似ているとの意見もあるようですが。
(注3)さらに園氏は、「架空の県と嘯いて、福島のことばかりを語る。そこにいろいろな町と人の気持ちを詰め込もう」などと述べています(P.46)。
(注4)園氏は、「もしも、あの日を再現しようとすれば、それぞれの場所での固有のドラマに限定される。それがもったいない、一つの場所の再現に限定すれば、色々な真実がこぼれおちてしまう」と述べていますが(P.45)。
(注5)たとえば、大きな地震に襲われた後、原発事故が心配になった泰彦は、チェルノブイリの事故(1986年)に際して購入したガイガーカウンターを物置小屋から探して測りだしますが、福島原発事故後という映画の想定時点においては、簡易の測定器が既にかなり普及していて、そんな古色蒼然とした線量計など使っている人など最早いないのではないでしょうか?
(注6)ここらあたりのことは、話がすごく飛んでしまい恐縮ながら、この間出版された『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012.11)において著者の日本画家・山口晃氏が、次のように述べているのと通じているように思われます。
「そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。そのイリュージョンに「真実」を見るのであれば、別に写実的な描き方ではなく、漫画的な、平面的に描く方法であっても構わないはずです」、「要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか」(P.115)。
この分の中の絵(あるいは絵画)を「映画」に置き換えてみたらどうでしょう。
(注7)ここらあたりのことは、映画『アルゴ』についての拙エントリの(2)でごく簡単に触れました。
★★☆☆☆
象のロケット:希望の国
(1)このところ、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』、『ヒミズ』となかなか面白い作品を矢継ぎ早に製作している園子温監督が、福島原発事故を取り上げた映画だということで見に行ってきましたが、クマネズミにとっては園監督らしさが余りうかがえないなんとも退屈な作品でした。
物語の舞台は、東日本大震災から数年後の長島県大葉町。
冒頭では、町の郊外にある農家の状況が牧歌的に描かれます。
主人公の小野泰彦(夏八木勲)は、認知症の妻・智恵子(大谷直子)、それに息子・洋一(村上淳)とその妻・いずみ(神楽坂恵)と一つ屋根の下で暮らし、共同して酪農を営み、なおかつ畑ではブロッコリーを作っています。
また、泰彦の家の前の鈴木家では野菜作りをしているのでしょう、できたホウレンソウを泰彦に引き取ってもらう一方で、父親の健(でんでん)は、家業を手伝いもしない長男ミツル(清水優)が恋人ヨーコ(梶原ひかり)をオートバイに乗せて出かけようとするのを見咎めたりします。
さらに、大葉町の商店街の入り口には、「原発の町へようこそ」と記されたゲートが設けられており、その酒屋の主人・松崎のところへは、泰彦から「ブロッコリーを早く取りに来い」との電話が入ります。
そんなところに、突然轟音が鳴り渡り、激しい揺れが。
小野の家では、電気が消え、家の中がめちゃくちゃになります。
今夜ブロッコリーを取りに来るはずの松崎とも電話が通じません。
前の鈴木家のミツルとヨーコのオートバイは戻ってくるものの、ラジオが「震源地は長島県東方沖 地震の規模はマグニチュード8.5」と言っているのを聞くと、泰彦は町の原発のことが心配になってきます。
さあ、この先一体どうなることでしょう、泰彦や健の家族の行く末は、……?
本作は、原発事故により強制立ち退きを求められた人々の大変さを家族愛の中で描いているわけながら、こうしたものならばNHKのドキュメンタリーで十分なのでは、と思えてきます(言い過ぎかもしれませんが)。また、家族愛の描き方もストレートに過ぎ、演じる俳優たちもなぜか頗る新劇調になってしまっていて(注1)、クマネズミは違和感を覚えざるを得ませんでした。
主演の夏八木勲は、『アンダルシア』とか『ロストクライム』で見ましたが、本作を見るとその演技力はさすがと思わせます。
また、その妻を演じる大谷直子は、スクリーンで見るのは『肉弾』(1968年)とか『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)以来のような気がして頗る懐かしかったものの、セリフ回しがやや大仰な印象を受けました。
息子の洋一に扮する村上淳は、『ヘヴンズストーリー』とか『生きてるものはいないのか』など実に様々の作品で見かけましたが、どのような役柄でもうまくこなしてしまう得難い俳優だなと思いました。
(2)本作は、いつもの園監督の作品とはどうも様子が違うなという気が強くしたので(注2)、「映画『希望の国』原作 〝半ドキュメンタリー〟小説」と帯にある小説『希望の国』(園子音著:リトルモア、2012.9)に目を通してみました。
実際のところ、この小説は、シナリオの展開の中に、メイキングを明かす文章が織り込まれているのです(あるいは、逆に、メイキングに触れた文章にシナリオが埋め込まれていると言った方がいいかもしれません)。
むろん、このメイキングの部分もまたフィクショナルな要素を持っているのかもしれません。でも、ここではドキュメンタリーと受け取っておくこととします。
そうすると、次のような言葉に注意が向きます。
「テレビでみんなが見て知っているありきたりな物語……それをもっと深く作りたい」(P.20)。
「みんなが想像できる単純な物語を更に深めたい。かといって想像だけに頼りたくもない。 現実に起きていることを想像力で作って行こうとすれば、薄っぺらな嘘になる」(〃)。
「自分の目と耳と手足で、具体的に知ったことを物語にしなくてはいけない」(P.21)。
どうやら、こうした基本的なコンセプトに立ちつつ、映画の舞台を「近未来の20XX年のとある日」(P.44)の長島県とし、「ナガシマとは、長崎と広島、そいて福島の三つの地名を重ねている」(P.43)と架空の場所と日時としているようです。
すなわち、「福島で起きた全てのこと―いろいろな場所で、色々な経験をした人々の声を、一つの家族の物語、一つの町の物語にできるだけ、集約してい」って(注3)、「具体ばかりの事実ばかりの話」、「空想や妄想の混じりっ気なしの本当にあった話」ばかりを語ろうとシナリオを作っていったものと考えられます(P.46)。
確かに、映画で描かれている個別のエピソード自体は、つきつめていけば、どれもこれも本当にあった話に基づいているのでしょう。
でも、現実の日時や場所を離れて描こうとすれば(注4)、逆に個別のエピソードに嘘らしさが付きまとってくのではないでしょうか(注5)?
さらにまた、たとえ個別のエピソードが真実によるものだとしても、それを集めた作品全体が、見る者にリアリティをもって迫るとは限らないのではないでしょうか(注6)?
それに、ここで描かれているのはすべて真実だと言われてしまうと、見る側の方は、それらをそのままパッシブに受け入れざるを得なくなってしまい、ポジティブに立ち向かう気力が失せてしまいます(また、製作者側の方でも、クリエイティブな面をギリギリまで追及する努力を払わなくなるのではないでしょうか)(注7)。
(3)渡まち子氏は、「原発事故に直面した3組の男女を描く「希望の国」。美しい映像、美しい旋律、目に見えない恐怖の中にも希望がある」として75点をつけています。
他方、前田有一氏は、「結論として、「希望の国」は、原発問題を真剣に考え、勉強している人がみてももどかしいばかり。決して我が意を得たりとならないところが残念である。かといってニュートラルな人がこれを見て、原発や放射能について理解を深めたり、興味を持つとも思いがたい。どういう人に勧めたらいいのか、ちょいと考えてしまう」として30点をつけています。
(注1)特に、洋一といずみの夫婦が泰彦の家に最後に戻ってきた際に、庭で洋一が「原発の畜生め」などと叫ぶ場面などは、いかにも新劇調だなとうんざりしました。
(注2)2009年の『ちゃんと伝える』に雰囲気が似ているとの意見もあるようですが。
(注3)さらに園氏は、「架空の県と嘯いて、福島のことばかりを語る。そこにいろいろな町と人の気持ちを詰め込もう」などと述べています(P.46)。
(注4)園氏は、「もしも、あの日を再現しようとすれば、それぞれの場所での固有のドラマに限定される。それがもったいない、一つの場所の再現に限定すれば、色々な真実がこぼれおちてしまう」と述べていますが(P.45)。
(注5)たとえば、大きな地震に襲われた後、原発事故が心配になった泰彦は、チェルノブイリの事故(1986年)に際して購入したガイガーカウンターを物置小屋から探して測りだしますが、福島原発事故後という映画の想定時点においては、簡易の測定器が既にかなり普及していて、そんな古色蒼然とした線量計など使っている人など最早いないのではないでしょうか?
(注6)ここらあたりのことは、話がすごく飛んでしまい恐縮ながら、この間出版された『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012.11)において著者の日本画家・山口晃氏が、次のように述べているのと通じているように思われます。
「そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。そのイリュージョンに「真実」を見るのであれば、別に写実的な描き方ではなく、漫画的な、平面的に描く方法であっても構わないはずです」、「要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか」(P.115)。
この分の中の絵(あるいは絵画)を「映画」に置き換えてみたらどうでしょう。
(注7)ここらあたりのことは、映画『アルゴ』についての拙エントリの(2)でごく簡単に触れました。
★★☆☆☆
象のロケット:希望の国
ツイッター(https://twitter.com/durhum2)で
『ヘンな日本美術史』(山口晃氏・祥伝社)と共に紹介させていただきました。
いつも事後報告すみません。
「えい」さんのようにお使いいただくと、嬉しくて舞い上がってしまいます。
どうか、いつでもご自由に使っていただければと思います。