映画的・絵画的・音楽的

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戦争と一人の女

2013年05月24日 | 邦画(13年)
 『戦争と一人の女』をテアトル新宿で見ました。

(1)本作は、雑誌『映画芸術』の編集長・荒井晴彦氏が脚本を書いたというので、映画館に行ってみました(注1)。

 映画は、太平洋戦争の終戦直前の東京を舞台にして始まります。
 冒頭では、軍服を着た大平村上淳)が陸軍病院から退院して、妻と子供が待ち構える門のところまで出てきます。



 彼には片腕がありません。出征した中国戦線の戦いで失ったのでしょう。

 次に場面は、闇市にある飲み屋に移ります。
 そこには、小説家・野村永瀬正敏)やカマキリ柄本明)、大平らがおり、女(江口のりこ)が相手をしています。
 女は、店を閉めることにすると言い、野村に対して「一緒にならない?」と尋ねると、彼の方も「どうせ戦争で滅茶々々になるのだから、今から二人で滅茶々々になるのも良い」などと応じるので、その家に転がり込むことに。



 さあ、彼らは終戦の前後をどのように過ごすことになるのでしょうか、……?

 映画ではその後、一方の傷病兵・大平は、「小平事件」と類似の行動をし、他方の小説家・野村は女とともに、坂口安吾の小説の主人公をなぞります(注2)。
 ただ、大平と野村とは殆ど接点がなく、二つの物語が別々に進行しているようにも見えます。とはいえ、映画の最初の方で、女が営む飲み屋に大平がいたり、最後の方では、女が大平に山林に連れ込まれて殺されそうになることがあり、重要なところで繋がっていますから、かろうじて全体を一つの作品と見ることができると思います。
 まあ、江口のりこ演じる女を振り子の支点として、実際に戦場に赴き厳しい目に遭った男・大平と、空襲下で無聊をかこつ男・野村(注3)やカマキリ(注4)を描くことによって、先の戦争の意味を問おうとしている作品ではないでしょうか。

 江口のりこは、TVドラマ『時効警察』で知り、『洋菓子店コアンドル』のマリコの役が印象的ながら、本作においては、体当たりの演技で持てるものすべてを出し切っているように思いました。
 また、永瀬正敏は、最近では『スマグラー』を見ましたが、風貌は坂口安吾から遠いものの、その演技力によって内面的にかなりのところまで接近しているのではとの印象を受けました。
 さらに村上淳は、『希望の国』、『生きてるものはいないのか』、『ヒミズ』など様々の作品で見かけ、本作でも甚だ存在感のある演技を披露しています。
 柄本明は、最近では『きいろいゾウ』で見ましたが、この俳優が出ると画面がずっと引き締まった感じになるのが不思議です。

 なお、本作では、ピンク映画(R-18指定)でもあり官能的なシーンが何度も出てきますから(注5)、そういう方面からも検討する必要があるのかもしれません。ですが、不慣れなことには手を出さない方が身のためでしょう。

(2)それで先の戦争についてです。
 連日空襲にさらされている野村は、「戦争で滅茶々々」になり、「日本という国はなくな」り、自分も死ぬものと思っています(カマキリもそう思いつつ、自分だけは助かると思っています)。他方、女は、空を飛ぶB29を見て「きれい」と言ったり、「焼夷弾、花火みたい」と言ったりするのです(注6)。
 戦争に徴用されないで家に女と閉じこもっている作家というのも、当時としては随分と特異な存在ながらも、戦時下の日本を表現する一つの方法なのでしょう。
 ただ、ここら辺りで言われていることは登場人物の心の中の事柄ですから、映画として説得力を持って描き出すのはなかなか難しいところではないかと思います(なにより、低予算映画ですから、空襲の場面の再現など期待すべくもありません)。

 そこで、本作において自ずと前に出てくるのは大平になります。
 彼は、幾人かの女を山林に連れ込んで強姦した挙げ句首を絞めて殺しますが、その際に、中国で実施されたとされる「燼滅掃討作戦」(あるいは「三光作戦」)のことを女に話したりします。
 さらには、警察での取調べに際して、「全部、軍隊で教わったんですよ。大元帥陛下のご命令で、殺人、強盗、強姦したんですよ」云々と喋ります。

 それにしても、中国戦線に投入された日本軍の兵力は百万を超えるでしょうが、帰還した兵士が「小平事件」のような重罪を犯した例は極く稀ではなかったかと思われます。
 ただ、戦争の一つの側面を強調するものとして映画では描き出されているのでしょう。

 とはいえ、こうしたシーンをいくら見ても、観客にはなかなかピンとこないのではないでしょうか?軍隊経験のある日本人の割合はかなり低くなっていることでもあり、事態をリアルに想像することが甚だ難しいのではと思われます(注7)。
 加えて、すべては大平が喋っているに過ぎず、そう映画で語らせる背景にイデオロギー的なものを強く感じざるをえません(注8)。
 やはり、いくら映画のストーリーの中に織り込んだとしても、こうした描き方では、若松孝二監督の『キャタピラー』におけるラストの原爆の場面と同じように、とってつけたような効果しか持てないのではないかとも思われてくるところです(注9)。

 そんなこんなから、なんだか本作については、70年ほど前の日本を舞台にしながらも、今の日本をファンタジックに描き出したものではないか、とも捉えてみたくなってきます。
 そうなるとやはり、連日空襲に晒されている女と野村の姿に立ち戻ることになるでしょう(注)。
 特に、終戦直後のカマキリに(注)。
 彼は、「ここでやめるとは何事だ!やめるなら、東京が焼けないうちになぜやめない!やめちゃダメだ。日本中がやられるまでなぜやめない!」と叫ぶのです。
 ここらあたりの場面からは、このところの日本に対して、やはり根底からやり直さなくてはだめではないのか、行き着くころまで行ってしまった方がいいのではないか、なまじのところで持ちこたえて反撃に移ろうとしても、逆に事態は一層悪化してしまうだけではないか、と本作が言っているようにも思えてきます(注10)。

(3)映画評論家の森直人氏は、4月26日付朝日新聞に掲載された映画評において、登場人物は「一見常軌を逸しているが、それは戦争という破壊的な外圧で狂わされた人間の姿であり、現在の不安定な状況に生きる我々の混迷とも重なるだろう。確かに大多数の平凡な小市民は社会環境を選べない。その中でどう生き抜いていくか。本作では世界の負性に同調してしまう男の繊細さではなく、「一人の女」の明るいバイタリティーに希望が託されている。 歴史化された時代を舞台にミニマムな男女関係を基盤とする映画だが、そこに脈打つ思考は紛れもなく「今」に向けた日本論だ」と述べています。



(注1)脚本にはもう一人中野太氏が加わり、また『映画芸術』誌に頻繁に登場する元文部官僚の寺脇研氏が統括プロデューサーとして参加しています。

(注2)すなわち、『戦争と一人の女』と『続戦争と一人の女』ですが、これらは青空文庫で読むことができます(ただし、青空文庫の『戦争と一人の女』は検閲削除版であり、無削除版は岩波文庫『桜の森の満開の下・白痴他十二篇』に収録されています)。
 なお、近藤ようこ氏は、これらの小説をもとに(さらに、『私は海をだきしめていたい』をも取り込んで)、漫画を描いています〔同作(青林工藝社舎)の「あとがき」で、近藤氏は、「ごく単純にいえば、これは戦争によって生かされている男女の話だ。しかし戦争が終わっても彼らは生きていく。人間はつまりどんな時代でもいきていくのだ。もちろんそれは今も同じなのだ」と述べています〕。

(注3)飲み屋で野村は、「暇、暇。もうどうにでもなれってとこだよ」と言います。



(注4)カマキリについては、坂口安吾はその小説で、「カマキリは町工場の親爺で」、「六十ぐらゐであつた」、「私達は日本が負けると信じてゐたが、カマキリは特別ひどかつた。日本の負けを喜んでゐる様子であつた。男の八割と女の二割、日本人の半分が死に、残つた男の二割、赤ん坊とヨボ/\の親爺の中に自分を数へてゐた」などと書いています(『続戦争と一人の女』)。



(注5)本作では、傷病兵・大平が、米を求める女たちを騙して山林に連れ込み、強姦して絞殺してしまう場面が数回描かれています。
 また、本作では、江口のりこが演じる女と小説家・野村との情交シーンが頻繁に描かれます。この女については、坂口安吾の小説では、例えば、「女は遊女屋にゐたことがあるので、肉体には正規な愛情のよろこび、がなかつた」、「妙に食慾をそゝる肉体だ。だから、女がもし正規の愛情のよろこびを感じるなら、多くの男が迷つた筈だが、一人も深入りした男がない。男を迷はす最後のものが欠けてゐた」などと書かれています(『戦争と一人の女』)。
 小説では、女についてそれ以上の進展は見られません。
 ただ映画では、女は大平と渋谷駅で出会い、山林に連れ込まれて殺されそうになります。その際に、首を絞められながらも女は「正規な愛情のよろこび」を感じ、大平は拍子抜けしてそのまま立ち去ってしまいます。
 これで、女は「正規」になったのでしょうか(?!)、その後RAA(占領軍兵士用の慰安所!)を経てパンパンになるものの「アイノコ」は生まれず、結局は日本人の子供を産むことになるようです。

(注6)坂口安吾の小説で、例えば、「夜の空襲はすばらしい。……夜の空襲が始まつて後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのやうな深い調和を感じてゐた。 私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかつたかと訊かれると、正直のところは、被害の大きかつたのが何より私の気に入つてゐたといふのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい」などと書かれているところに相当するものと思われます(『続戦争と一人の女』)

(注7)若い観客にとっては、特にそうではないでしょうか?
 なお、雑誌『映画芸術』2013年春号に掲載された座談会において、客層について問われると、本作の統括プロデューサーの寺脇研氏は、「60歳以上の男性」と答えています。
 ただ、先の戦争について様々な情報を持っているはずの「60歳以上の男性」にこうした映画を見せても、「あゝまたか」と思うだけではないでしょうか?むしろ、ほとんど情報らしきものを持たない若い人にこうした作品を見てもらうことを考えるべきではないかと思いますが。

(注8)4月24日に日本外国特派員協会で行われた記者会見に関する記事によれば、「本作の予算は1,200万円、10日で撮影した」とのアナウンスに対して外国人記者から驚きの声が上がると、井上淳一監督は、「ここ30年、日本の戦争映画、もしくはマスコミが避けてきた天皇の戦争責任、いわゆる自虐史観といって攻撃される日本がアジアでやった悪いことを、低予算で、自分たちの好きなことができるからこそ、きっちりと描こうと思った」と述べ、さらに記者から、大平のような「原作にない表現を付け加えてまで、日本を侮辱するような表現をなぜ行ったのか?」という質問が出されると、井上監督は、「あえてやった。日本がやってきた、よその国を侵略し、植民地にして、殺したり、犯したりしたことをなきものにしようとする風潮だけは、絶対に許せないと思う」と述べたそうです。

(注9)本作の脚本を担当した荒井晴彦氏は、雑誌『映画芸術』2013年春号に掲載された俳優・村上淳との対談において、「若松孝二の『キャタピラー』を、俺はヒドイと思ったわけ。…広島のそばの村でもないのに錦の御旗のように原爆の映像をくっ付けて、反戦ですと。…『キャタピラー』を実作で批判しようと思ったのがこの企画の始まりだった」などと批判しています。

(注10)坂口安吾に言わせれば、「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」、「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」(『堕落論』)とのことです。



★★★☆☆