映画に出演した寺島しのぶが、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したことで評判の高い『キャタピラー』を、テアトル新宿で見てきました。
(1)映画では、先の戦争の末期、考えられないようなむごい姿となって戦場から帰還した久蔵とその妻シゲ子との、戦時中の生活が中心的に描かれます。
中国での戦場から帰還した久蔵は、周りから軍神と崇められるものの、シゲ子にとっては気持ち悪い生き物にすぎません。なにしろ、手足が切断され、口もきけなくなっていますから、お互いのスムースなコミュニケーションは絶望的です。といって、シゲ子は、軍神とされている夫を蔑ろにするわけにいかず、その世話に明け暮れる毎日となります。なにより、夫の強い性的要求に応じざるをえないのです。
他方、久蔵はこうした姿になってまでも、当初は、シゲ子に対して強気の姿勢をとりながら生きようとします。その際の心の支えになっているのは、立派な勲章と、彼の功績を軍神と讃える新聞記事。彼の寝ている蒲団のスグ近くにしっかりと並べられています。
ですが、次第にシゲ子は、むしろ自分の方が有利な立場に置かれていることに気がつきだします。どんなことをしても、久蔵のほうは、それこそ手も足も出ないのですから。それに、出征以前の久蔵は、子供のできないシゲ子に対して酷い暴力を振っていたようで、その復讐の意味もあって、久蔵に辛く当たったりします。
そうこうするうちに、久蔵は、自分が中国の戦場で犯したことがトラウマになって、シゲ子と性的な関係を続けることが難しくなってしまいます(いわゆるPTSDでしょうが、一般には、強姦された女性の方がそうしたトラウマを抱え込むのではないでしょうか?ただ、『マイ・ブラザー』と同様、理不尽な殺人を行ってしまったことが、久蔵には耐え切れないのでしょう)。
終戦になると、シゲ子は喜びますが、久蔵は、必死の力を振り絞って、家のソグそばにある水場にたどり着き、飛び込んで自殺してしまいます。シゲ子が喜ぶのは、ようやっと軍神から解放されるという思いからでしょうが、久蔵は逆に生きる意味を完全に失ってしまったのでしょう、戦争が継続しているからこその軍神ですから。
映画は、昔の若松孝二監督の作品に比べると、前作『実録・連合赤軍』同様、随分と分かりやすく制作されていると思われます。戦争の悲惨さを前面に出すのではなく、極端な状況設定ではありますが、夫婦二人の生活を専ら描いているわけですから。
とはいえ、映画は、それを決して一本調子に描くことはせず、シゲ子は、軍神の妻という当初の強いられた立場ではなく、自分の実際の立場を理解した時からも、一方的に夫に辛く当たるわけではありません。久蔵が軍神とされることで村人から様々な差し入れがあり、物資の極度に乏しい中、それは非常に助かるわけですし、また夫を労わる気持ちが失せてしまったわけでもなさそうです〔ただ、それも、夫がトラウマに悩まされて性的不能に陥る前までですが〕。
こうした大層難しい役柄を、寺島しのぶは、まさに体当たりで演じ切っています。ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したのもよくわかります。
また、その相手役の久蔵を演じる大西信満も、CGにもよっていると思われますが、手足のない男の役をうまく演じているなと感嘆しました。
ただ、この映画の問題点としては、ラストに唐突に映し出されるBC級戦犯の絞首刑の様子を映したニュース画像や、空襲や原爆の犠牲者数、戦場での死者数、それに処刑された戦犯の人数を示す画像の部分ではないでしょうか?
むろん、それらは、先の戦争がもたらした悲惨な姿ではあるとはいえ、それまでの夫婦の物語とはかけ離れており、直接的すぎるものとなっていてバランスが取れていないのではと思えます。そうしたものを世の中に示したいのであれば、評論という形式で発表すれば十分であり、何もわざわざ映画という形式の中に押し込む必要はなかったのではという気がします(注)。
(注)8月13日の朝日新聞夕刊に掲載された佐藤忠男氏が、「戦争が結局どれだけの被害をもたらしたかを声を大にして述べている。力のこもった映画である」と述べるように、評価する向きも多いとは思いますが。
(2)この作品は、クレジットロールなどを見ても、江戸川乱歩の『芋虫』(角川ホラー文庫)を原作とはしていませんが(注)、私には、『芋虫』に負っているところがかなり大きいのではと思います〔元々、タイトルの意味するところが同一ですし〕。
言うまでもなく、『芋虫』は、昭和6年の満州事変よりも前の昭和4年の作品ですから、『キャタピラー』とは時代設定が相当異なります。また、話の中心となる傷痍軍人の地位も、『芋虫』が中尉であるのに対して、『キャタピラー』は少尉です。
とはいえ、『芋虫』において、「両手両足は、殆ど根元から切断され、僅かにふくれ上がった肉塊となって、その痕跡を留めているに過ぎないし、その胴体ばかりの化物の様な全身にも、顔面を始めとして代償無数の傷痕が光っている」とされる須永中尉の姿は(P.14)、まさに『キャタピラー』の久蔵と同一です。
さらに、『キャタピラー』では、久蔵とシゲ子の夫婦が一軒家に暮らしているところ、『芋虫』においても、須永中尉とその妻の時子とが離れの一軒家で生活しています。
要すれば、基本的な設定という点で、『キャタピラー』は『芋虫』とほとんど同一といえるでしょう。
ただ、異なる点も多いにあります。なにしろ、原作では、シゲ子に両目を潰されて視覚まで失ってしまった須永中尉が、古井戸に飛び込んで自殺してしまうのですから。
ここで参考になるのが、この江戸川乱歩の短編をほぼ忠実に漫画化した作品、すなわち丸尾末広作『芋虫』(エンターブレイン、2009.10)でしょう。
とはいえ、“忠実に漫画化”といっても、原作それ自体から受けるのとはまるで違った印象を持ちます(「脚色/作画 丸尾末広」となっています)。
というのも、漫画において、作者の丸尾末広氏は、原作のなかでも特に、そのエロチックな部分を思い切り拡大しているからです。
そうしてみると、逆に、映画『キャタピラー』においては、むしろイデオロギッシュな面を付加強調しようとしているという印象を受けます。
とはいえ、原作の短編は戦前に雑誌掲載されたものですから、どちらの要素も前面には出されていません。むしろ、現時点でこの原作を読んでイメージを拡大したり付加しようとしたら、当時の検閲のために伏字となっている個所(文庫本では「……」で表示されています)が、一つの手掛かりになるのではないでしょうか?
たとえば、「それを見ると、時子は、いつもの通り、ある感情がうずうずと、身内に湧起こって来るのを感じるのだった。彼女は狂気のようになって、…………。」(P.14)
こういったあたりを一つの契機にしながら、丸尾氏は、あの独特の漫画を描き出したのではと考えられるところです。
そこから連想を働かせれば、たとえば、次のような個所が、若松監督のイメージに一つのよりどころを与えているのでは、とも想像されるところです。
「上官や同僚の軍人達がつき添って、須永の生きたむくろが家に運ばれると、ほとんど同時位に彼の四肢の代償として、…………。」(P.20)
「凱旋騒ぎの熱が冷めて世間も淋しくなっていた。もう誰も以前の様には彼女達を見舞わなくなった。…………。」(〃)
ここらあたりを一つの跳躍台としながら、若松監督は、久蔵が拠り所としている勲章と新聞記事をシゲ子が投げ飛ばすシーンをイメージしたり、さらにはラストのニュース映像の挿入などにつながっていったとも考えられるところです。
(注)この映画のパンフレットに掲載されている若松監督のインタビューには、「四肢を失った傷痍軍人という設定は、『ジョニーは戦場へ行った』という映画や、江戸川乱歩の『芋虫』などの作品から感じ取ったイメージの影響が頭の中にありました」と述べています。
(3)上記の江戸川乱歩作『芋虫』では、夫(須永中尉)は聴覚まで失っていることになっていますが、映画『キャタピラー』では、シゲ子が何か言うと頷いたりしますから、完全ではないものの、ある程度聴覚は残っているのではないかと推測されます。
それはともかく、この映画では、2人がコミュニケーションをスムースにしようと努めているようには描かれてはいません(一度、久蔵は、鉛筆を口にくわえて文字を書きますが、その1回だけで継続しません。食べて寝てセックスするだけですから、言葉によるスムースなコミュニケーションなど元来不要なのかもしれませんが!)(注)。
他方、たとえばフランス映画『潜水服は蝶の夢を見る』(2008年公開)では、脳溢血で全身麻痺状態に陥りながらも、機能が残っている左眼の瞼を動かすことで、周囲とコミュニケーションをとり、挙句は本の出版まで漕ぎつける様子が描かれていました。
むろん、雑誌の編集長と、農村出の一介の軍人とを同列に比べても仕方がないものの、それにしても『キャタピラー』における夫婦には、お互いの意思をスムースに疎通させるための努力がもっとあってしかるべきでは、とも思われたところです。
(注)『芋虫』でも、『キャタピラー』の久蔵と同じやり方(口に鉛筆をくわえる)で、須永中尉は意思の疎通を図っていますが、久蔵と同じく十分ではありません。それは、「生来読書慾など持合せなかった猪武者であったが、それが衝戟の為に頭が鈍くなってからは、一層文字と絶縁してしま」たことによるところも大きいのでしょう(『芋虫』P.16)。
(4)映画評論家はこの作品を高く評価しています。
小梶勝男氏は、「イデオロギッシュな作品ではあるが、それだけでない。ベルリンで受賞したからというわけではないが、寺島しのぶの演技はやはり凄い。作品をただの反戦イデオロギー映画でも、変態ホラーでもなく、一種独特のファンタジーにしているのは、映画の中心に常に寺島がいるからだろう」等として80点を、
渡まち子氏は、「60年代から70年代の政治イデオロギーを題材にすることが多かった若松監督にとって、戦争を描いた本作は過去の歴史をより深く総括する、ある種の集大成と言えるだろう」し、「戦争に正義などなく、ただ無残なだけ。これほどの深いテーマを84分という短い尺で描ききる演出力に感嘆する。戦場を直接描くことなく、戦争の愚かな本質が痛いほど伝わる静かな力作だ」として70点を、
福本次郎氏は、「物語は、軍神と祭り上げられた傷痍軍人と妻の姿を通じ、人間のエゴの正体に迫る」のであり、「もはや穀つぶしでしかないと自覚し、戦争の加害者でもあり被害者でもある久蔵の苦悩を、シゲ子とのヒリヒリするようなやり取りの中で浮かび上がらせる脚本と演出の仕掛けがスリリングだ」として70点を、
前田有一氏は、「戦場で負傷した夫が手も足も切断され、口もきけない「芋虫=キャタピラー」状態で戻って」きた後の「悲惨な夫婦生活を描くことで、戦争の無益さ残酷さを訴えるような作品なのかなとおぼろげに想像していた」が、「しかし映画『キャタピラー』のテーマは、まったくそんな次元のものではなかった」云々として65点を、
それぞれ与えています。
ただ、前田有一氏は、「よく考えてみると二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無く、単なる夫婦の間のいち問題にすぎないように見える。戦争は確かに物語を動かすきっかけとなってはいるが、極端な話これがただの業務上の事故か何かであっても、同じやりかたで同じテーマを描くことはできるだろう。そんなわけで、上手にまとまっているとは思うものの、監督が伝えたかったであろう「反戦争」のテーマはあまり感じられない」としています。
しかしながら、前田氏は、この映画では、妻シゲ子は「絶望した表情、態度を垣間見せる」が、「この映画における「絶望」は「夫の姿そのものとは別の場所にある」」のであって、それが何処にあるかの回答の「ヒントは「軍神」と「勲章」」だと述べています。要すれば、「軍神」と「勲章」によって妻シゲ子の自由が奪われたことが「絶望」をもたらしているのだ、と前田氏は言いたいのでしょう。
とすれば、「二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無」いなどと断定できるでしょうか?というのも、件の「軍神」と「勲章」とは、国によって引き起こされた戦争によって国からもたらされたものなのですから! 「物語の最後、ある大事件がおきたとき、二人の表情は鮮やかに明暗が別れる」のも、まさに「戦争」に対する二人の姿勢の違いが表現されていると言えるのではないでしょうか?
おそらく、前田氏は、映画のラストで映し出される、BC級戦犯の絞首刑の様子を映したドキュメンタリー画像や、空襲や原爆の犠牲者、戦場での死者、それに処刑された戦犯の人数を示した画像の部分を見ずに、映画館を後にしてしまったものと思われます。
★★★☆☆
象のロケット:キャタピラー
(1)映画では、先の戦争の末期、考えられないようなむごい姿となって戦場から帰還した久蔵とその妻シゲ子との、戦時中の生活が中心的に描かれます。
中国での戦場から帰還した久蔵は、周りから軍神と崇められるものの、シゲ子にとっては気持ち悪い生き物にすぎません。なにしろ、手足が切断され、口もきけなくなっていますから、お互いのスムースなコミュニケーションは絶望的です。といって、シゲ子は、軍神とされている夫を蔑ろにするわけにいかず、その世話に明け暮れる毎日となります。なにより、夫の強い性的要求に応じざるをえないのです。
他方、久蔵はこうした姿になってまでも、当初は、シゲ子に対して強気の姿勢をとりながら生きようとします。その際の心の支えになっているのは、立派な勲章と、彼の功績を軍神と讃える新聞記事。彼の寝ている蒲団のスグ近くにしっかりと並べられています。
ですが、次第にシゲ子は、むしろ自分の方が有利な立場に置かれていることに気がつきだします。どんなことをしても、久蔵のほうは、それこそ手も足も出ないのですから。それに、出征以前の久蔵は、子供のできないシゲ子に対して酷い暴力を振っていたようで、その復讐の意味もあって、久蔵に辛く当たったりします。
そうこうするうちに、久蔵は、自分が中国の戦場で犯したことがトラウマになって、シゲ子と性的な関係を続けることが難しくなってしまいます(いわゆるPTSDでしょうが、一般には、強姦された女性の方がそうしたトラウマを抱え込むのではないでしょうか?ただ、『マイ・ブラザー』と同様、理不尽な殺人を行ってしまったことが、久蔵には耐え切れないのでしょう)。
終戦になると、シゲ子は喜びますが、久蔵は、必死の力を振り絞って、家のソグそばにある水場にたどり着き、飛び込んで自殺してしまいます。シゲ子が喜ぶのは、ようやっと軍神から解放されるという思いからでしょうが、久蔵は逆に生きる意味を完全に失ってしまったのでしょう、戦争が継続しているからこその軍神ですから。
映画は、昔の若松孝二監督の作品に比べると、前作『実録・連合赤軍』同様、随分と分かりやすく制作されていると思われます。戦争の悲惨さを前面に出すのではなく、極端な状況設定ではありますが、夫婦二人の生活を専ら描いているわけですから。
とはいえ、映画は、それを決して一本調子に描くことはせず、シゲ子は、軍神の妻という当初の強いられた立場ではなく、自分の実際の立場を理解した時からも、一方的に夫に辛く当たるわけではありません。久蔵が軍神とされることで村人から様々な差し入れがあり、物資の極度に乏しい中、それは非常に助かるわけですし、また夫を労わる気持ちが失せてしまったわけでもなさそうです〔ただ、それも、夫がトラウマに悩まされて性的不能に陥る前までですが〕。
こうした大層難しい役柄を、寺島しのぶは、まさに体当たりで演じ切っています。ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したのもよくわかります。
また、その相手役の久蔵を演じる大西信満も、CGにもよっていると思われますが、手足のない男の役をうまく演じているなと感嘆しました。
ただ、この映画の問題点としては、ラストに唐突に映し出されるBC級戦犯の絞首刑の様子を映したニュース画像や、空襲や原爆の犠牲者数、戦場での死者数、それに処刑された戦犯の人数を示す画像の部分ではないでしょうか?
むろん、それらは、先の戦争がもたらした悲惨な姿ではあるとはいえ、それまでの夫婦の物語とはかけ離れており、直接的すぎるものとなっていてバランスが取れていないのではと思えます。そうしたものを世の中に示したいのであれば、評論という形式で発表すれば十分であり、何もわざわざ映画という形式の中に押し込む必要はなかったのではという気がします(注)。
(注)8月13日の朝日新聞夕刊に掲載された佐藤忠男氏が、「戦争が結局どれだけの被害をもたらしたかを声を大にして述べている。力のこもった映画である」と述べるように、評価する向きも多いとは思いますが。
(2)この作品は、クレジットロールなどを見ても、江戸川乱歩の『芋虫』(角川ホラー文庫)を原作とはしていませんが(注)、私には、『芋虫』に負っているところがかなり大きいのではと思います〔元々、タイトルの意味するところが同一ですし〕。
言うまでもなく、『芋虫』は、昭和6年の満州事変よりも前の昭和4年の作品ですから、『キャタピラー』とは時代設定が相当異なります。また、話の中心となる傷痍軍人の地位も、『芋虫』が中尉であるのに対して、『キャタピラー』は少尉です。
とはいえ、『芋虫』において、「両手両足は、殆ど根元から切断され、僅かにふくれ上がった肉塊となって、その痕跡を留めているに過ぎないし、その胴体ばかりの化物の様な全身にも、顔面を始めとして代償無数の傷痕が光っている」とされる須永中尉の姿は(P.14)、まさに『キャタピラー』の久蔵と同一です。
さらに、『キャタピラー』では、久蔵とシゲ子の夫婦が一軒家に暮らしているところ、『芋虫』においても、須永中尉とその妻の時子とが離れの一軒家で生活しています。
要すれば、基本的な設定という点で、『キャタピラー』は『芋虫』とほとんど同一といえるでしょう。
ただ、異なる点も多いにあります。なにしろ、原作では、シゲ子に両目を潰されて視覚まで失ってしまった須永中尉が、古井戸に飛び込んで自殺してしまうのですから。
ここで参考になるのが、この江戸川乱歩の短編をほぼ忠実に漫画化した作品、すなわち丸尾末広作『芋虫』(エンターブレイン、2009.10)でしょう。
とはいえ、“忠実に漫画化”といっても、原作それ自体から受けるのとはまるで違った印象を持ちます(「脚色/作画 丸尾末広」となっています)。
というのも、漫画において、作者の丸尾末広氏は、原作のなかでも特に、そのエロチックな部分を思い切り拡大しているからです。
そうしてみると、逆に、映画『キャタピラー』においては、むしろイデオロギッシュな面を付加強調しようとしているという印象を受けます。
とはいえ、原作の短編は戦前に雑誌掲載されたものですから、どちらの要素も前面には出されていません。むしろ、現時点でこの原作を読んでイメージを拡大したり付加しようとしたら、当時の検閲のために伏字となっている個所(文庫本では「……」で表示されています)が、一つの手掛かりになるのではないでしょうか?
たとえば、「それを見ると、時子は、いつもの通り、ある感情がうずうずと、身内に湧起こって来るのを感じるのだった。彼女は狂気のようになって、…………。」(P.14)
こういったあたりを一つの契機にしながら、丸尾氏は、あの独特の漫画を描き出したのではと考えられるところです。
そこから連想を働かせれば、たとえば、次のような個所が、若松監督のイメージに一つのよりどころを与えているのでは、とも想像されるところです。
「上官や同僚の軍人達がつき添って、須永の生きたむくろが家に運ばれると、ほとんど同時位に彼の四肢の代償として、…………。」(P.20)
「凱旋騒ぎの熱が冷めて世間も淋しくなっていた。もう誰も以前の様には彼女達を見舞わなくなった。…………。」(〃)
ここらあたりを一つの跳躍台としながら、若松監督は、久蔵が拠り所としている勲章と新聞記事をシゲ子が投げ飛ばすシーンをイメージしたり、さらにはラストのニュース映像の挿入などにつながっていったとも考えられるところです。
(注)この映画のパンフレットに掲載されている若松監督のインタビューには、「四肢を失った傷痍軍人という設定は、『ジョニーは戦場へ行った』という映画や、江戸川乱歩の『芋虫』などの作品から感じ取ったイメージの影響が頭の中にありました」と述べています。
(3)上記の江戸川乱歩作『芋虫』では、夫(須永中尉)は聴覚まで失っていることになっていますが、映画『キャタピラー』では、シゲ子が何か言うと頷いたりしますから、完全ではないものの、ある程度聴覚は残っているのではないかと推測されます。
それはともかく、この映画では、2人がコミュニケーションをスムースにしようと努めているようには描かれてはいません(一度、久蔵は、鉛筆を口にくわえて文字を書きますが、その1回だけで継続しません。食べて寝てセックスするだけですから、言葉によるスムースなコミュニケーションなど元来不要なのかもしれませんが!)(注)。
他方、たとえばフランス映画『潜水服は蝶の夢を見る』(2008年公開)では、脳溢血で全身麻痺状態に陥りながらも、機能が残っている左眼の瞼を動かすことで、周囲とコミュニケーションをとり、挙句は本の出版まで漕ぎつける様子が描かれていました。
むろん、雑誌の編集長と、農村出の一介の軍人とを同列に比べても仕方がないものの、それにしても『キャタピラー』における夫婦には、お互いの意思をスムースに疎通させるための努力がもっとあってしかるべきでは、とも思われたところです。
(注)『芋虫』でも、『キャタピラー』の久蔵と同じやり方(口に鉛筆をくわえる)で、須永中尉は意思の疎通を図っていますが、久蔵と同じく十分ではありません。それは、「生来読書慾など持合せなかった猪武者であったが、それが衝戟の為に頭が鈍くなってからは、一層文字と絶縁してしま」たことによるところも大きいのでしょう(『芋虫』P.16)。
(4)映画評論家はこの作品を高く評価しています。
小梶勝男氏は、「イデオロギッシュな作品ではあるが、それだけでない。ベルリンで受賞したからというわけではないが、寺島しのぶの演技はやはり凄い。作品をただの反戦イデオロギー映画でも、変態ホラーでもなく、一種独特のファンタジーにしているのは、映画の中心に常に寺島がいるからだろう」等として80点を、
渡まち子氏は、「60年代から70年代の政治イデオロギーを題材にすることが多かった若松監督にとって、戦争を描いた本作は過去の歴史をより深く総括する、ある種の集大成と言えるだろう」し、「戦争に正義などなく、ただ無残なだけ。これほどの深いテーマを84分という短い尺で描ききる演出力に感嘆する。戦場を直接描くことなく、戦争の愚かな本質が痛いほど伝わる静かな力作だ」として70点を、
福本次郎氏は、「物語は、軍神と祭り上げられた傷痍軍人と妻の姿を通じ、人間のエゴの正体に迫る」のであり、「もはや穀つぶしでしかないと自覚し、戦争の加害者でもあり被害者でもある久蔵の苦悩を、シゲ子とのヒリヒリするようなやり取りの中で浮かび上がらせる脚本と演出の仕掛けがスリリングだ」として70点を、
前田有一氏は、「戦場で負傷した夫が手も足も切断され、口もきけない「芋虫=キャタピラー」状態で戻って」きた後の「悲惨な夫婦生活を描くことで、戦争の無益さ残酷さを訴えるような作品なのかなとおぼろげに想像していた」が、「しかし映画『キャタピラー』のテーマは、まったくそんな次元のものではなかった」云々として65点を、
それぞれ与えています。
ただ、前田有一氏は、「よく考えてみると二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無く、単なる夫婦の間のいち問題にすぎないように見える。戦争は確かに物語を動かすきっかけとなってはいるが、極端な話これがただの業務上の事故か何かであっても、同じやりかたで同じテーマを描くことはできるだろう。そんなわけで、上手にまとまっているとは思うものの、監督が伝えたかったであろう「反戦争」のテーマはあまり感じられない」としています。
しかしながら、前田氏は、この映画では、妻シゲ子は「絶望した表情、態度を垣間見せる」が、「この映画における「絶望」は「夫の姿そのものとは別の場所にある」」のであって、それが何処にあるかの回答の「ヒントは「軍神」と「勲章」」だと述べています。要すれば、「軍神」と「勲章」によって妻シゲ子の自由が奪われたことが「絶望」をもたらしているのだ、と前田氏は言いたいのでしょう。
とすれば、「二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無」いなどと断定できるでしょうか?というのも、件の「軍神」と「勲章」とは、国によって引き起こされた戦争によって国からもたらされたものなのですから! 「物語の最後、ある大事件がおきたとき、二人の表情は鮮やかに明暗が別れる」のも、まさに「戦争」に対する二人の姿勢の違いが表現されていると言えるのではないでしょうか?
おそらく、前田氏は、映画のラストで映し出される、BC級戦犯の絞首刑の様子を映したドキュメンタリー画像や、空襲や原爆の犠牲者、戦場での死者、それに処刑された戦犯の人数を示した画像の部分を見ずに、映画館を後にしてしまったものと思われます。
★★★☆☆
象のロケット:キャタピラー
ラストの処理は、私も疑問に感じます。
丁寧な解説に頭が下がる思いです^^
TB、ありがとうございます。
コミュニケーションは取らないのではなく、家父長制の上位で命令しかして来なかった夫には取れなかったと解釈してます。謝る、礼を言うができないでしょ。なので、最後に首を絞められているのは戦争に傾倒しやすい男性原理が強い家父長制なのかもしれない。
その男性原理が起こした死者の数に被さる元ちとせの歌。
ピッタリはまる。本当か、俺。
ただ、問題があるとすれば、夫がコミュニケーションをしない背景として、クマネズミは、「食べて寝てセックスするだけだから、言葉によるスムースなコミュニケーションなど元来不要」ではないかと申し上げ、江戸川乱歩も、「生来読書慾など持合せなかった猪武者であったが、それが衝戟の為に頭が鈍くなってからは、一層文字と絶縁してしまった」と、専ら個人的事情を述べているところを、「ふじき78」さんは、戦前の日本社会が「戦争に傾倒しやすい男性原理が強い家父長制」の下にあったという社会的・制度的な点を考えられていることではないかと思います。
確かに、戦前の日本の家族は“いえ制度”の下にあったとされますし、日本人一人一人は“天皇の赤子”であるとされました。ですが、実際の戦場では、“お母さーん”と叫んで死んでいった兵隊が多かったという事情などを考慮すると、日本軍が、はたして米軍などと同じような「男性原理」に従っていたかどうか疑わしくなってきてしまいます(注)。
また、河合隼雄氏の「母性社会日本」という概念も、何も戦後日本社会のことだけを対象とするものではないのではと思われます(もしかしたら、先の戦争は、母性原理と父性原理との対決という側面も考えられるかもしれませんし、あるいはアジア的なものと西欧的なものとの争いという側面もあるかもしれません)。
なお、「夫は戦争の終結を知っていただろうか」との指摘にも、ハッとさせられました。確かに、野良仕事に出ていた妻は、クマさんから終戦のことを知らされますが、夫はどうやって終戦を知りうるのか、映画では十分に描かれてはいなかった感じです。
ただ、這ってでも水場に行こうとする夫の動機の解釈として、「ふじき78」さんは、「喉が渇いた」という生理的なことを挙げられますが、視覚と聴覚は残っているため何らかの手段で終戦のことを知り、絶望して死のうとして無理やり這って、という解釈を必ずしも排除できないのではと思います。
クマネズミとしては、終戦を知った時の妻の喜びようと対比させる意味で、後者の解釈の方に惹かれるのですが。
(注)次のHPも、あるいは参考になるかも知れません(専ら戦後社会に関して議論していますが)。http://iwao-otsuka.com/com/patriarc1.htm
夫は「食べて寝てセックスだけでOK」というクマネズミさんの解釈はごもっともです。これは役者の目から見える賢さを私が余分に見込んでしまったのかもしれません。同情も入ります。そんなん人間として哀しいから。
私、凄く単純に「家父長制」とは「父ちゃん偉い主義」であると思ってます。で、その「父ちゃん」は「大父ちゃん」である「天皇陛下」を仰いでいる。この構造は上を絶対とするので、上が決めた事を下が逆らえない。なので、どこかシステムにノイズが入り、軍部が天皇陛下を利用する様になると、「話し合って解決を(今の状況の保全)」という女性的な解決策より「強い者が弱い者を武力で言いなりにする(新しい利得への前進)」という男性的な解決策に走り勝ち。こんなニュアンスです。戦場に軍人が行くので、「敵と話しましょう」とか言ったら「弱腰だ」とか言われるでしょう。なので、現地でも男性原理におちいりガチ。
LINKの文書には反論があります。文書は戦後、急速に家父長制が失われていったサラリーマン家庭をベースに文書が書かれているのではないでしょうか。そこを基本に据えては話は成立しないのではないでしょうか。家父長制の基本は百姓(極論だ)。家族全員男も女もなく働く中で、父が権力(政治・決定権と言ってもいい)、母が家庭の実務(行政)を担い、政治を担うものは実務を担うものを「女子供」と称して一段下に見る。男が実務には触れずに統治するシステム、これが日本の家父長制ではないでしょうか。行政=家事全般は育児も含めて母の仕事だから、母と子供は密接になる。なので、一面母性を中心とした社会でもあります。
相変わらず気分だけです。調査や裏付けのない男です。でもなんか昔の映画とか観てるとそんな風に見えます。