『マーラー 君に捧げるアダージョ』を渋谷のユーロスペースで見てきました。
(1)原題が「Mahler auf der Couch」(寝椅子の上のマーラー)となっているように、この映画は、精神分析医のフロイトと、寝椅子に横になってその治療を受けるマーラーとの関係を通じて、マーラーとその妻との間の愛情のもつれを描き出そうとする作品で、フロイトが映画に登場することに興味をひかれて見に行ってきました。
とはいえ、映画においてフロイトは、どちらかといえば狂言回し的な役割を演じている感じで、主に活躍するのは、マーラーとその妻・アルマ(マーラーより19歳年下)であり、もっと言えば、タイトルにあるマーラーよりもアルマに焦点が当てられている印象でした。
というのも、確かにマーラーは、映画の冒頭(1910年)で、オランダのホテルでドイツから来るフロイトと落ち合ってその治療を受けることになるものの、
イ)映画を見る限りでは、マーラーはそれほど精神的な疾患を患っているようには思われないのです。むろん、マーラーは、アルマの不倫を記した手紙を見て絶望に囚われはしますが、治療の必要があるほどの症状とは思えないのです。
ロ)マーラーはフロイトと随分話をするものの、描かれるのは、決して「寝椅子(Couch)」に横になっているシーンではなく、ライデンの市中を歩き回りながら話している光景なのです。
ハ)フロイトがマーラーから聞き出す話は、一般人が取り交わす話のレベルとそれほど異なっていないように見えます。
といった点からすると、フロイトの存在は、マーラーとアルマとの葛藤を描き出すための装置のように思えてきます。
そこで、おのずとアルマの方に目がいきます。
映画では、彼女が4歳年下の青年・グロピウスと不倫の恋に落ちる光景が描き出されます(注1)。その背景として、マーラーとの確執、すなわち、自分も持っていた作曲の才能をマーラーに封じられたこととか、愛娘をジフテリアで失ってしまったことなどが挙げられています。
ですが、こうなると、フロイトの治療を受ける必要があるのは、むしろアルマの方ではなかったか、とも思われてきます(現に、劇場用パンフレット記載の「関連年表」には、1909年5月のところに、「アルマ、神経衰弱で倒れる」とあります)。
ただ、この映画は、冒頭で、「起こった事は史実、どう起こったかは創作」という字幕が映し出されます。要すれば、年表的なことは事実にしても、そこに至るプロセスは創作だということでしょう。そうであれば、マーラーがフロイトの治療を受けたのは事実ですから、こうした映画の作りになるのは仕方がないのかもしれません。
本作品は、「起こった事は史実」としていることから、グスタフ・マーラーをはじめ、フロイト、アルマ・マーラー、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・ワルター、クリムトなど実在の人物が何人も実名で登場します。この場合、登場するのが政治家など世の中がよく知っている人物となれば、ソックリサン的な外観を強調せざるをえず、それで笑いを誘いかねないのですが、この映画については、余りそういう印象は受けませんでした。たぶん、時代が古いこともあって(第1次世界大戦前)、登場人物の映像がそんなに沢山残ってはおらず、観客の抱くイメージに沿ったものにする必要性があまりなかったからかもしれません。
映画は全体として、特異な夫婦関係を描いている作品と受け取れ、そうであればまずまずの出来栄えではないかと思いました。
(2)とはいえこの映画を、上記のように、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を映像化したものとだけ見てしまえば、とても単純な作品としか思えません。
ですが、しかしそれでおしまいにしてしまうには惜しい映画ではないでしょうか?
もう一度最初から考え直してみましょう(注2)。
確かに、冒頭近くからマーラーの妻アルマの不倫の光景が描き出されます。
しかしながら、ラスト近く、マーラーの治療を終えてドイツに戻る直前に、フロイトはマーラーに対し、「私には奥さんが、まるでありもしない不倫を作り上げたかのような気がするのですよ」と述べるのです!
このフロイトの言葉を起点にすると、アルマの不倫の映像は、マーラーが妻の言葉などから自分ででっち上げた妄想だったのかもしれないとの疑惑が、映画の観客に湧きあがってくるのが避けられません。
そして、妻との関係がうまくいかなくなって神経症に罹り、そうした妄想に囚われるようになったがために、マーラーはフロイトの治療を受けようとしたのではないか、と考えられるのです。
フロイトの治療を受けている間に、マーラーには、過去のアルマとの会話が様々に思い浮かんできます。
一方では、別荘でアルマはマーラーに対して、「あなたは、私の音楽を禁じた」とか、「私は、あなたの天才の犠牲になった」と激しく責め立てます。
しかし他方、同じ別荘の場面で、アルマは、「私は、あなたの音楽のなかで生きている」とか、「あなたは自分の音楽を完成させて。私はそばにいるわ。もう一度愛するわ」とも述べています。
こうした場面からは、マーラーは、アルマの心の激しい揺れに翻弄されてきたように思われるところです。それがマーラーの精神を侵し、結果としてありもしない妄想が生まれたのではないでしょうか?
そこで治療を受けることとなり、最後にフロイトの診断を聞くことによって、彼は安心を得たということではないでしょうか?その診断を聞いて、マーラーは喜びのあまりフロイトに抱きつくのですから!
さらに映画では、要所要所で交響曲第10番が流れます(注3)。
それをも組み込んで考えてみると、本作品は、その第1楽章が生み出されるまさにその有様を描き出した映画とも考えられるところです。
すなわち、マーラーがアルマの不倫妄想に悩んで精神的に動揺している最中に、この曲が作曲されたように描き出されています。
そして、フロイトの診断を受けて安心が得られると、マーラーはこの曲の作曲を中断してしまい、専ら交響曲第8番の初演の方に力を注ぎます(ただ、1年も経たないうちに死を迎えてしまいますが)。
とすると、交響曲第10番は、この映画に従えば、ある意味で妻の不倫妄想が生み出した音楽であり、その妄想が治療によって消え去ると、作曲も継続できなくなってしまった、ということなのかもしれません。
こう考えると、この映画は、フロイトは決して狂言回しなどではなく、彼を中心にして組み立てられた音楽映画なのでは、とも思えてきます。
格好付けた言い方をすれば、この映画は、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を描くことをメインとしながらも、さらに妻の不倫妄想に悩む音楽家とその治療に当たった精神科医との交流の話、そしてその音楽家にとって遺作となる交響曲が作られていく有様、といったいくつかのストーリーラインをかみ合わせることによって、バッハの対位法にも類似する作品に仕上げられているのではないかとも考えられます。
むろん、こうした解釈にはまた様々な問題点があるでしょう。でも、こんな憶測めいたことを考えさせてくれるだけでも、随分と価値がある映画ではないかと思いました。
(3)なお、先に『ミスター・ノーバディ』についての記事の中で触れた大澤真幸著『量子の社会哲学』では、実はフロイトも登場します。
そこでは、フロイトが深く分析した「無意識」とアインシュタインの相対性理論との関連性について、次のような興味深いことが述べられています(概要)。
「患者の無意識は、一般に、精神分析家との関係の中で―分析家への転移を通じて―抉出される。すなわち、無意識の思考内容は、直接的・第一次的には、他者に対して立ち現れているのだ。つまり、無意識は、他者による観察を前提にしているのだ」。これは要すれば、「相対性理論が「光」に対して与えたのと同じタイプの観察者が、初めて、無意識という闇に、まさに光を当てることができるのである」(P.108)。
ここでは「他者」のことが強調されていますが、マーラーの事例に当てはめてみると、映画では、フロイトが次のように述べるシーンが描き出されています。
「マーラーさん、あなたは自分を失っている。抑圧されたもの、無意識があなたを支配しているんだ。でもその心の奥底からの声を、聞かなければならない!」。
まさに、「他者」としての「無意識」がマーラーを捉えて、妄想を生み出して、マーラーを突き動かしている様子が映画では描き出されている、と考えられます。
(4)渡まち子氏は、「人生におけるさまざまな悲劇と愛憎が、マーラーを精神的に追いつめたからこそ、孤高の芸術を生み出すことができたとするのが本作の新解釈だ。芸術とは本当 にラクじゃない。マーラー、フロイト、クリムトが同時期に活躍する世紀末ウィーンのデカダンスの空気が映画の大きな魅力になっている」として65点を付けています。
他方で、福本次郎氏は、「テーマはマーラーとアルマの結婚生活であるのは理解できるが、人物の心理面への踏み込みが甘く、たとえばマーラーの作品は愛してもマーラー本人は愛せなかったアルマの複雑な気持ちを描くなどの工夫がほしかった」として40点をつけています。
ただ、福本氏は、「物語はフロイトによって、マーラーが記憶の中に埋もれていたアルマとの諍いの種を探すという構成だが、時に彼らの近親者の証言を挟みこんだりして統一感に欠ける」と述べているところ、ある人物・物事について、統一的な視点からというよりも様々の角度から、多面的に描き出す手法は今や当たり前のことになっているのではないでしょうか?
(注1)1911年にマーラーが死ぬと、彼女はグロピウスと再婚し(36歳、1915年)、ですが暫くすると彼とも離婚してしまうのです(1919年:ここらあたりは、劇場版パンフレットに掲載されている池内紀氏のエッセイ「アルマをめぐる男たち」より)。
(注2)以下の台詞の引用は、クラシックジャーナル誌『マーラー 君に捧げるアダージョ オフィシャルブック』に掲載の「シナリオ 完全採録」によっています。
なお、この採録されたシナリオは、翻訳者の城所孝吉氏の手になるもので、「各場面のト書きあたる部分が書き起こされて」いて、「訳者による映像の文章化」だ、と冒頭の「編集ノート」には記されています〔『ゴダール・ソシアリスム』についての記事の(5)で触れた堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」と双璧をなすと思います!〕。
(注3)詳しくは、劇場用パンフレット掲載の前島秀国氏のエッセイ「マーラー夫妻の愛と苦悩を分析した“究極の音楽映画”」をご覧下さい。
★★★★☆
象のロケット:マーラー 君に捧げるアダージョ
(1)原題が「Mahler auf der Couch」(寝椅子の上のマーラー)となっているように、この映画は、精神分析医のフロイトと、寝椅子に横になってその治療を受けるマーラーとの関係を通じて、マーラーとその妻との間の愛情のもつれを描き出そうとする作品で、フロイトが映画に登場することに興味をひかれて見に行ってきました。
とはいえ、映画においてフロイトは、どちらかといえば狂言回し的な役割を演じている感じで、主に活躍するのは、マーラーとその妻・アルマ(マーラーより19歳年下)であり、もっと言えば、タイトルにあるマーラーよりもアルマに焦点が当てられている印象でした。
というのも、確かにマーラーは、映画の冒頭(1910年)で、オランダのホテルでドイツから来るフロイトと落ち合ってその治療を受けることになるものの、
イ)映画を見る限りでは、マーラーはそれほど精神的な疾患を患っているようには思われないのです。むろん、マーラーは、アルマの不倫を記した手紙を見て絶望に囚われはしますが、治療の必要があるほどの症状とは思えないのです。
ロ)マーラーはフロイトと随分話をするものの、描かれるのは、決して「寝椅子(Couch)」に横になっているシーンではなく、ライデンの市中を歩き回りながら話している光景なのです。
ハ)フロイトがマーラーから聞き出す話は、一般人が取り交わす話のレベルとそれほど異なっていないように見えます。
といった点からすると、フロイトの存在は、マーラーとアルマとの葛藤を描き出すための装置のように思えてきます。
そこで、おのずとアルマの方に目がいきます。
映画では、彼女が4歳年下の青年・グロピウスと不倫の恋に落ちる光景が描き出されます(注1)。その背景として、マーラーとの確執、すなわち、自分も持っていた作曲の才能をマーラーに封じられたこととか、愛娘をジフテリアで失ってしまったことなどが挙げられています。
ですが、こうなると、フロイトの治療を受ける必要があるのは、むしろアルマの方ではなかったか、とも思われてきます(現に、劇場用パンフレット記載の「関連年表」には、1909年5月のところに、「アルマ、神経衰弱で倒れる」とあります)。
ただ、この映画は、冒頭で、「起こった事は史実、どう起こったかは創作」という字幕が映し出されます。要すれば、年表的なことは事実にしても、そこに至るプロセスは創作だということでしょう。そうであれば、マーラーがフロイトの治療を受けたのは事実ですから、こうした映画の作りになるのは仕方がないのかもしれません。
本作品は、「起こった事は史実」としていることから、グスタフ・マーラーをはじめ、フロイト、アルマ・マーラー、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・ワルター、クリムトなど実在の人物が何人も実名で登場します。この場合、登場するのが政治家など世の中がよく知っている人物となれば、ソックリサン的な外観を強調せざるをえず、それで笑いを誘いかねないのですが、この映画については、余りそういう印象は受けませんでした。たぶん、時代が古いこともあって(第1次世界大戦前)、登場人物の映像がそんなに沢山残ってはおらず、観客の抱くイメージに沿ったものにする必要性があまりなかったからかもしれません。
映画は全体として、特異な夫婦関係を描いている作品と受け取れ、そうであればまずまずの出来栄えではないかと思いました。
(2)とはいえこの映画を、上記のように、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を映像化したものとだけ見てしまえば、とても単純な作品としか思えません。
ですが、しかしそれでおしまいにしてしまうには惜しい映画ではないでしょうか?
もう一度最初から考え直してみましょう(注2)。
確かに、冒頭近くからマーラーの妻アルマの不倫の光景が描き出されます。
しかしながら、ラスト近く、マーラーの治療を終えてドイツに戻る直前に、フロイトはマーラーに対し、「私には奥さんが、まるでありもしない不倫を作り上げたかのような気がするのですよ」と述べるのです!
このフロイトの言葉を起点にすると、アルマの不倫の映像は、マーラーが妻の言葉などから自分ででっち上げた妄想だったのかもしれないとの疑惑が、映画の観客に湧きあがってくるのが避けられません。
そして、妻との関係がうまくいかなくなって神経症に罹り、そうした妄想に囚われるようになったがために、マーラーはフロイトの治療を受けようとしたのではないか、と考えられるのです。
フロイトの治療を受けている間に、マーラーには、過去のアルマとの会話が様々に思い浮かんできます。
一方では、別荘でアルマはマーラーに対して、「あなたは、私の音楽を禁じた」とか、「私は、あなたの天才の犠牲になった」と激しく責め立てます。
しかし他方、同じ別荘の場面で、アルマは、「私は、あなたの音楽のなかで生きている」とか、「あなたは自分の音楽を完成させて。私はそばにいるわ。もう一度愛するわ」とも述べています。
こうした場面からは、マーラーは、アルマの心の激しい揺れに翻弄されてきたように思われるところです。それがマーラーの精神を侵し、結果としてありもしない妄想が生まれたのではないでしょうか?
そこで治療を受けることとなり、最後にフロイトの診断を聞くことによって、彼は安心を得たということではないでしょうか?その診断を聞いて、マーラーは喜びのあまりフロイトに抱きつくのですから!
さらに映画では、要所要所で交響曲第10番が流れます(注3)。
それをも組み込んで考えてみると、本作品は、その第1楽章が生み出されるまさにその有様を描き出した映画とも考えられるところです。
すなわち、マーラーがアルマの不倫妄想に悩んで精神的に動揺している最中に、この曲が作曲されたように描き出されています。
そして、フロイトの診断を受けて安心が得られると、マーラーはこの曲の作曲を中断してしまい、専ら交響曲第8番の初演の方に力を注ぎます(ただ、1年も経たないうちに死を迎えてしまいますが)。
とすると、交響曲第10番は、この映画に従えば、ある意味で妻の不倫妄想が生み出した音楽であり、その妄想が治療によって消え去ると、作曲も継続できなくなってしまった、ということなのかもしれません。
こう考えると、この映画は、フロイトは決して狂言回しなどではなく、彼を中心にして組み立てられた音楽映画なのでは、とも思えてきます。
格好付けた言い方をすれば、この映画は、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を描くことをメインとしながらも、さらに妻の不倫妄想に悩む音楽家とその治療に当たった精神科医との交流の話、そしてその音楽家にとって遺作となる交響曲が作られていく有様、といったいくつかのストーリーラインをかみ合わせることによって、バッハの対位法にも類似する作品に仕上げられているのではないかとも考えられます。
むろん、こうした解釈にはまた様々な問題点があるでしょう。でも、こんな憶測めいたことを考えさせてくれるだけでも、随分と価値がある映画ではないかと思いました。
(3)なお、先に『ミスター・ノーバディ』についての記事の中で触れた大澤真幸著『量子の社会哲学』では、実はフロイトも登場します。
そこでは、フロイトが深く分析した「無意識」とアインシュタインの相対性理論との関連性について、次のような興味深いことが述べられています(概要)。
「患者の無意識は、一般に、精神分析家との関係の中で―分析家への転移を通じて―抉出される。すなわち、無意識の思考内容は、直接的・第一次的には、他者に対して立ち現れているのだ。つまり、無意識は、他者による観察を前提にしているのだ」。これは要すれば、「相対性理論が「光」に対して与えたのと同じタイプの観察者が、初めて、無意識という闇に、まさに光を当てることができるのである」(P.108)。
ここでは「他者」のことが強調されていますが、マーラーの事例に当てはめてみると、映画では、フロイトが次のように述べるシーンが描き出されています。
「マーラーさん、あなたは自分を失っている。抑圧されたもの、無意識があなたを支配しているんだ。でもその心の奥底からの声を、聞かなければならない!」。
まさに、「他者」としての「無意識」がマーラーを捉えて、妄想を生み出して、マーラーを突き動かしている様子が映画では描き出されている、と考えられます。
(4)渡まち子氏は、「人生におけるさまざまな悲劇と愛憎が、マーラーを精神的に追いつめたからこそ、孤高の芸術を生み出すことができたとするのが本作の新解釈だ。芸術とは本当 にラクじゃない。マーラー、フロイト、クリムトが同時期に活躍する世紀末ウィーンのデカダンスの空気が映画の大きな魅力になっている」として65点を付けています。
他方で、福本次郎氏は、「テーマはマーラーとアルマの結婚生活であるのは理解できるが、人物の心理面への踏み込みが甘く、たとえばマーラーの作品は愛してもマーラー本人は愛せなかったアルマの複雑な気持ちを描くなどの工夫がほしかった」として40点をつけています。
ただ、福本氏は、「物語はフロイトによって、マーラーが記憶の中に埋もれていたアルマとの諍いの種を探すという構成だが、時に彼らの近親者の証言を挟みこんだりして統一感に欠ける」と述べているところ、ある人物・物事について、統一的な視点からというよりも様々の角度から、多面的に描き出す手法は今や当たり前のことになっているのではないでしょうか?
(注1)1911年にマーラーが死ぬと、彼女はグロピウスと再婚し(36歳、1915年)、ですが暫くすると彼とも離婚してしまうのです(1919年:ここらあたりは、劇場版パンフレットに掲載されている池内紀氏のエッセイ「アルマをめぐる男たち」より)。
(注2)以下の台詞の引用は、クラシックジャーナル誌『マーラー 君に捧げるアダージョ オフィシャルブック』に掲載の「シナリオ 完全採録」によっています。
なお、この採録されたシナリオは、翻訳者の城所孝吉氏の手になるもので、「各場面のト書きあたる部分が書き起こされて」いて、「訳者による映像の文章化」だ、と冒頭の「編集ノート」には記されています〔『ゴダール・ソシアリスム』についての記事の(5)で触れた堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」と双璧をなすと思います!〕。
(注3)詳しくは、劇場用パンフレット掲載の前島秀国氏のエッセイ「マーラー夫妻の愛と苦悩を分析した“究極の音楽映画”」をご覧下さい。
★★★★☆
象のロケット:マーラー 君に捧げるアダージョ