『アジャストメント』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。
(1)映画の原題は「Adjustment Bureau」ですから(原作のタイトルも「Adjustment Team」)、専ら運命の調整を業務とする人たちを描いている作品ではないか、と思われるかもしれません。
ですが、「運命調整局」に勤める職員をメインとするには、ずいぶんとちゃちな仕事ぶりですし、なにより映画の内容にも余り沿いませんから、邦題を「アジャストメント」にしたのではと思われます。ただそうなると、邦題が何を意味しているのか映画を見ないことにはわからない、という仕儀になってしまいますが。
実際のところは、「運命調整局」のことはサブとして、マット・デイモンとエミリー・ブラントとのラブ・ストーリーをメインと考えた方がわかりやすく、またそうだとすればまずまずの出来栄えなのかなと思いました。
マット・デイモンは、このところ、『ヒア アフター』とか『トゥルー・グリット』などでよく見かけ、その生真面目な風貌から好感を持っているのですが、この映画でもその良さがいかんなく発揮されていると思いました。彼が演ずるデヴィット・ノリスは、最年少で下院議員に当選し、今度は上院議員にというところで過去の詰らないことが暴露されて、その快進撃も頓挫してしまいます。
まさにそういうところに現れたエミリー・ブラントなのですから、マット・デイモンが、『ヒアアフター』の料理教室で出会った女性の場合とは違って(女性が自分の前から消えてしまうと、やはり自分はダメなのだと諦めてしまいます)、「運命調整局」の業務を出し抜いてなんとか彼女と一緒になろうとするのもよくわかります。
他方、エミリー・ブラントは、『サンシャイン・クリーニング』では大きな失敗をしてしまう妹を演じていましたが、この映画では将来性あるダンサーのエリースを随分と魅力的に演じています(前衛的なモダンダンスをするには今少しという感じが否めないものの)。
こうした2人の前に立ちはだかるのが「運命調整局」の職員というわけです。
彼らは、自分たちのトップ“チェアマン”の壮大な意向を実現させるために、彼らが前もって定められているはずの定められた道からそれてしまうと、様々な手段を使って元の道に軌道修正しようとするのです。
ですが、よく考えてみると、これでは大変おかしなことになってしまうのではないでしょうか?
というのも、前もって定められていることをもって「運命」というわけですから、映画のように、ちょっと「運命調整局」の職員が居眠りをしてしまうくらいで「運命」が狂ってしまうのでは、とても受け入れ難い感じがしてしまいます。
それも、マット・デイモンが出向く会社で「運命調整」をせざるを得ず、その時間に彼が会社に到着しないようにする必要があったから、というのですが、こうも「運命」が簡単に狂うようでは、調整しなくてはならない人が大勢出現して、とても調整局の職員ごときの手には負えない事態に陥ってしまうのではないでしょうか?
というのも、現実の人々は、それぞれが孤立無援状態で独立して動いているわけではなく、相互に何重にも緊密につながりを持っているのであり、一つを調整したら、その歪みは他の人にも必ず及んでしまい、実際にはとても収拾がつかなくなってしまうのでは、と考えられるからです(定まった道からそれた人の軌道を修正するだけで済むはずがありませんから!)。
ですから、こうした「運命調整局」の話は、彼ら2人のラブスト―リーを盛り上げるための単なる背景であって、それをも組み込んだ全体はよくあるお伽噺(たとえば、美女をわがものにするために様々な試練を克服する王子様のお話―ブリュンヒルデを見出すジークフリートなど)といってみたらどうでしょうか?
(2)この映画の原作は、文庫本(「ハヤカワ文庫SF」)で47ページほどの短い短編であり、かつ雰囲気もまるで違っています。文庫本の短編集を編集した大森望氏は、「小説版にはラブストーリー要素もアクション要素も(ついでに“どこでもドア”要素も)皆無なのだ。本篇を読んでから映画を見た人は唖然とするのでは」と書いているほどです(P.456)!
ちらっとその短編(浅倉久志訳)を覗いてみると、マット・デイモンに相当するのは不動産会社に勤務するエド。すでにルース(エミリー・ブラントに相当?)と結婚しています。エドは、運命調整局の書記の失敗によって、脱力化された区域に入ってしまい調整中の作業を目にしてしまいます。運命調整局の御大は、エドの釈明を聞きいれ、脱力化されるのは免れて帰宅しますが、……。
この短編を読んでみてちょっと不思議に思うのは、運命調整局の話は、すべてエドが物語っているだけという点です。そして、エドの行動に疑問を持った妻のルースに、「あのいまいましい事件ぜんたいがぼくの心の産物」とまで言うのです。これは、自分たちのことをしゃべったら脱力化するぞと運命調整局の御大から脅かしを受けて、エドが必至になって考えついた言い訳なのかもしれませんが、他方で、もしかしたらエドが語る運命調整局の話は、すべてがエドの妄想と言えるのでは、とも思えてきます(注)。
となると、この映画においても、少なくとも運命調整局の職員が登場する場面は、未来の出来事ではなくて(未来の出来事にしては、持ち物や服装などが酷く古臭い感じがします)、すべて上院選落選で酷く落込んでしまったマット・デイモンの妄想だった、と考えてみたらどうなるでしょうか?
さらには、エミリー・ブラントも、彼の妄想の中の人物にすぎない、としてみたらどうでしょうか?なにしろ、マット・デイモンが奈落の底にあるというお誂えの時に、彼女はこともあろうに男子トイレの中から忽然と現れるのですから!
あるいは、皆同じ格好をしている運命調整局の職員というのは、どこかの精神病院の職員であり、妄想を抱きがちなマット・デイモンの行動をずっと監視している人たちだ、と考えてみたら?
この映画は、観客の方であまり詰らない“妄想”に耽らずに、そのままロマンティックなラブ・ストーリーとして楽しむべきなのでしょうが、こんな事を考えながら見てみるのも、あるいは面白いかもしれませんよ!
(注)ここらあたりは、粉川哲夫氏の「シネマノート」4月15日掲載のレビューにある「原作では主人公のパラノイアとして描かれる」をヒントにしています。
なお、当該短編において、運命調整局の御大は、エドを解放する際、ルースにこの一件を「たんなる一過性の心理的発作―現実逃避だと思わせなければいかん」と述べていますから、エドの「ぼくの心の産物」という言い訳は、その御大の言葉に沿ったものと一応は考えられます。
とはいえ、だからこの言い訳が実際を表してはいない、ということにもならないでしょう。
(3)渡まち子氏は、「物語は「ボーン」シリーズのようなキレのいいアクションとはほど遠いものだ。誰からも支配されない自分自身の“運命”を取り戻す目的も、世界や人類を救うのではなく、あくまでも愛のため。このこじんまりとした物語は、紛れもなく恋愛映画」であり、「映画は最終的に、あきらめずに闘えば道は開けるというまっとうなメッセージへと辿り着く。意外なほど健全で前向きな作品なのだ」として60点を付けています。
また、福本次郎氏は、「これはコンピューターに頼る現代社会のメタファー」であり、「作品はデヴィッドとエリースの逃避行を擬して、戦わなければ人生すら権力に操作されれかねない恐怖を描き切っていた」として60点を付けています。
他方、前田有一氏は、「サスペンスとして本作が致命的なミスをしているとすれば」、それは「「調整局」の正体を、登場直後に明かしてしまっている点であ」り、「この瞬間、「人知を超えた能力を持つ組織」から逃げ切って愛を成就させられるか、との重要な(かつ唯一の)スリルが失われた」などとして40点しか付けていません。
★★★☆☆
象のロケット:アジャストメント
(1)映画の原題は「Adjustment Bureau」ですから(原作のタイトルも「Adjustment Team」)、専ら運命の調整を業務とする人たちを描いている作品ではないか、と思われるかもしれません。
ですが、「運命調整局」に勤める職員をメインとするには、ずいぶんとちゃちな仕事ぶりですし、なにより映画の内容にも余り沿いませんから、邦題を「アジャストメント」にしたのではと思われます。ただそうなると、邦題が何を意味しているのか映画を見ないことにはわからない、という仕儀になってしまいますが。
実際のところは、「運命調整局」のことはサブとして、マット・デイモンとエミリー・ブラントとのラブ・ストーリーをメインと考えた方がわかりやすく、またそうだとすればまずまずの出来栄えなのかなと思いました。
マット・デイモンは、このところ、『ヒア アフター』とか『トゥルー・グリット』などでよく見かけ、その生真面目な風貌から好感を持っているのですが、この映画でもその良さがいかんなく発揮されていると思いました。彼が演ずるデヴィット・ノリスは、最年少で下院議員に当選し、今度は上院議員にというところで過去の詰らないことが暴露されて、その快進撃も頓挫してしまいます。
まさにそういうところに現れたエミリー・ブラントなのですから、マット・デイモンが、『ヒアアフター』の料理教室で出会った女性の場合とは違って(女性が自分の前から消えてしまうと、やはり自分はダメなのだと諦めてしまいます)、「運命調整局」の業務を出し抜いてなんとか彼女と一緒になろうとするのもよくわかります。
他方、エミリー・ブラントは、『サンシャイン・クリーニング』では大きな失敗をしてしまう妹を演じていましたが、この映画では将来性あるダンサーのエリースを随分と魅力的に演じています(前衛的なモダンダンスをするには今少しという感じが否めないものの)。
こうした2人の前に立ちはだかるのが「運命調整局」の職員というわけです。
彼らは、自分たちのトップ“チェアマン”の壮大な意向を実現させるために、彼らが前もって定められているはずの定められた道からそれてしまうと、様々な手段を使って元の道に軌道修正しようとするのです。
ですが、よく考えてみると、これでは大変おかしなことになってしまうのではないでしょうか?
というのも、前もって定められていることをもって「運命」というわけですから、映画のように、ちょっと「運命調整局」の職員が居眠りをしてしまうくらいで「運命」が狂ってしまうのでは、とても受け入れ難い感じがしてしまいます。
それも、マット・デイモンが出向く会社で「運命調整」をせざるを得ず、その時間に彼が会社に到着しないようにする必要があったから、というのですが、こうも「運命」が簡単に狂うようでは、調整しなくてはならない人が大勢出現して、とても調整局の職員ごときの手には負えない事態に陥ってしまうのではないでしょうか?
というのも、現実の人々は、それぞれが孤立無援状態で独立して動いているわけではなく、相互に何重にも緊密につながりを持っているのであり、一つを調整したら、その歪みは他の人にも必ず及んでしまい、実際にはとても収拾がつかなくなってしまうのでは、と考えられるからです(定まった道からそれた人の軌道を修正するだけで済むはずがありませんから!)。
ですから、こうした「運命調整局」の話は、彼ら2人のラブスト―リーを盛り上げるための単なる背景であって、それをも組み込んだ全体はよくあるお伽噺(たとえば、美女をわがものにするために様々な試練を克服する王子様のお話―ブリュンヒルデを見出すジークフリートなど)といってみたらどうでしょうか?
(2)この映画の原作は、文庫本(「ハヤカワ文庫SF」)で47ページほどの短い短編であり、かつ雰囲気もまるで違っています。文庫本の短編集を編集した大森望氏は、「小説版にはラブストーリー要素もアクション要素も(ついでに“どこでもドア”要素も)皆無なのだ。本篇を読んでから映画を見た人は唖然とするのでは」と書いているほどです(P.456)!
ちらっとその短編(浅倉久志訳)を覗いてみると、マット・デイモンに相当するのは不動産会社に勤務するエド。すでにルース(エミリー・ブラントに相当?)と結婚しています。エドは、運命調整局の書記の失敗によって、脱力化された区域に入ってしまい調整中の作業を目にしてしまいます。運命調整局の御大は、エドの釈明を聞きいれ、脱力化されるのは免れて帰宅しますが、……。
この短編を読んでみてちょっと不思議に思うのは、運命調整局の話は、すべてエドが物語っているだけという点です。そして、エドの行動に疑問を持った妻のルースに、「あのいまいましい事件ぜんたいがぼくの心の産物」とまで言うのです。これは、自分たちのことをしゃべったら脱力化するぞと運命調整局の御大から脅かしを受けて、エドが必至になって考えついた言い訳なのかもしれませんが、他方で、もしかしたらエドが語る運命調整局の話は、すべてがエドの妄想と言えるのでは、とも思えてきます(注)。
となると、この映画においても、少なくとも運命調整局の職員が登場する場面は、未来の出来事ではなくて(未来の出来事にしては、持ち物や服装などが酷く古臭い感じがします)、すべて上院選落選で酷く落込んでしまったマット・デイモンの妄想だった、と考えてみたらどうなるでしょうか?
さらには、エミリー・ブラントも、彼の妄想の中の人物にすぎない、としてみたらどうでしょうか?なにしろ、マット・デイモンが奈落の底にあるというお誂えの時に、彼女はこともあろうに男子トイレの中から忽然と現れるのですから!
あるいは、皆同じ格好をしている運命調整局の職員というのは、どこかの精神病院の職員であり、妄想を抱きがちなマット・デイモンの行動をずっと監視している人たちだ、と考えてみたら?
この映画は、観客の方であまり詰らない“妄想”に耽らずに、そのままロマンティックなラブ・ストーリーとして楽しむべきなのでしょうが、こんな事を考えながら見てみるのも、あるいは面白いかもしれませんよ!
(注)ここらあたりは、粉川哲夫氏の「シネマノート」4月15日掲載のレビューにある「原作では主人公のパラノイアとして描かれる」をヒントにしています。
なお、当該短編において、運命調整局の御大は、エドを解放する際、ルースにこの一件を「たんなる一過性の心理的発作―現実逃避だと思わせなければいかん」と述べていますから、エドの「ぼくの心の産物」という言い訳は、その御大の言葉に沿ったものと一応は考えられます。
とはいえ、だからこの言い訳が実際を表してはいない、ということにもならないでしょう。
(3)渡まち子氏は、「物語は「ボーン」シリーズのようなキレのいいアクションとはほど遠いものだ。誰からも支配されない自分自身の“運命”を取り戻す目的も、世界や人類を救うのではなく、あくまでも愛のため。このこじんまりとした物語は、紛れもなく恋愛映画」であり、「映画は最終的に、あきらめずに闘えば道は開けるというまっとうなメッセージへと辿り着く。意外なほど健全で前向きな作品なのだ」として60点を付けています。
また、福本次郎氏は、「これはコンピューターに頼る現代社会のメタファー」であり、「作品はデヴィッドとエリースの逃避行を擬して、戦わなければ人生すら権力に操作されれかねない恐怖を描き切っていた」として60点を付けています。
他方、前田有一氏は、「サスペンスとして本作が致命的なミスをしているとすれば」、それは「「調整局」の正体を、登場直後に明かしてしまっている点であ」り、「この瞬間、「人知を超えた能力を持つ組織」から逃げ切って愛を成就させられるか、との重要な(かつ唯一の)スリルが失われた」などとして40点しか付けていません。
★★★☆☆
象のロケット:アジャストメント