映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マーラー 君に捧げるアダージョ

2011年06月08日 | 洋画(11年)
 『マーラー 君に捧げるアダージョ』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)原題が「Mahler auf der Couch」(寝椅子の上のマーラー)となっているように、この映画は、精神分析医のフロイトと、寝椅子に横になってその治療を受けるマーラーとの関係を通じて、マーラーとその妻との間の愛情のもつれを描き出そうとする作品で、フロイトが映画に登場することに興味をひかれて見に行ってきました。

 とはいえ、映画においてフロイトは、どちらかといえば狂言回し的な役割を演じている感じで、主に活躍するのは、マーラーとその妻・アルマ(マーラーより19歳年下)であり、もっと言えば、タイトルにあるマーラーよりもアルマに焦点が当てられている印象でした。

 というのも、確かにマーラーは、映画の冒頭(1910年)で、オランダのホテルでドイツから来るフロイトと落ち合ってその治療を受けることになるものの、
イ)映画を見る限りでは、マーラーはそれほど精神的な疾患を患っているようには思われないのです。むろん、マーラーは、アルマの不倫を記した手紙を見て絶望に囚われはしますが、治療の必要があるほどの症状とは思えないのです。
ロ)マーラーはフロイトと随分話をするものの、描かれるのは、決して「寝椅子(Couch)」に横になっているシーンではなく、ライデンの市中を歩き回りながら話している光景なのです。
ハ)フロイトがマーラーから聞き出す話は、一般人が取り交わす話のレベルとそれほど異なっていないように見えます。
といった点からすると、フロイトの存在は、マーラーとアルマとの葛藤を描き出すための装置のように思えてきます。




 そこで、おのずとアルマの方に目がいきます。



 映画では、彼女が4歳年下の青年・グロピウスと不倫の恋に落ちる光景が描き出されます(注1)。その背景として、マーラーとの確執、すなわち、自分も持っていた作曲の才能をマーラーに封じられたこととか、愛娘をジフテリアで失ってしまったことなどが挙げられています。
 ですが、こうなると、フロイトの治療を受ける必要があるのは、むしろアルマの方ではなかったか、とも思われてきます(現に、劇場用パンフレット記載の「関連年表」には、1909年5月のところに、「アルマ、神経衰弱で倒れる」とあります)。

 ただ、この映画は、冒頭で、「起こった事は史実、どう起こったかは創作」という字幕が映し出されます。要すれば、年表的なことは事実にしても、そこに至るプロセスは創作だということでしょう。そうであれば、マーラーがフロイトの治療を受けたのは事実ですから、こうした映画の作りになるのは仕方がないのかもしれません。

 本作品は、「起こった事は史実」としていることから、グスタフ・マーラーをはじめ、フロイト、アルマ・マーラー、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・ワルター、クリムトなど実在の人物が何人も実名で登場します。この場合、登場するのが政治家など世の中がよく知っている人物となれば、ソックリサン的な外観を強調せざるをえず、それで笑いを誘いかねないのですが、この映画については、余りそういう印象は受けませんでした。たぶん、時代が古いこともあって(第1次世界大戦前)、登場人物の映像がそんなに沢山残ってはおらず、観客の抱くイメージに沿ったものにする必要性があまりなかったからかもしれません。

 映画は全体として、特異な夫婦関係を描いている作品と受け取れ、そうであればまずまずの出来栄えではないかと思いました。

(2)とはいえこの映画を、上記のように、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を映像化したものとだけ見てしまえば、とても単純な作品としか思えません。
 ですが、しかしそれでおしまいにしてしまうには惜しい映画ではないでしょうか?
 もう一度最初から考え直してみましょう(注2)。

 確かに、冒頭近くからマーラーの妻アルマの不倫の光景が描き出されます。
 しかしながら、ラスト近く、マーラーの治療を終えてドイツに戻る直前に、フロイトはマーラーに対し、「私には奥さんが、まるでありもしない不倫を作り上げたかのような気がするのですよ」と述べるのです!
 このフロイトの言葉を起点にすると、アルマの不倫の映像は、マーラーが妻の言葉などから自分ででっち上げた妄想だったのかもしれないとの疑惑が、映画の観客に湧きあがってくるのが避けられません。
 そして、妻との関係がうまくいかなくなって神経症に罹り、そうした妄想に囚われるようになったがために、マーラーはフロイトの治療を受けようとしたのではないか、と考えられるのです。



 フロイトの治療を受けている間に、マーラーには、過去のアルマとの会話が様々に思い浮かんできます。
 一方では、別荘でアルマはマーラーに対して、「あなたは、私の音楽を禁じた」とか、「私は、あなたの天才の犠牲になった」と激しく責め立てます。
 しかし他方、同じ別荘の場面で、アルマは、「私は、あなたの音楽のなかで生きている」とか、「あなたは自分の音楽を完成させて。私はそばにいるわ。もう一度愛するわ」とも述べています。
 こうした場面からは、マーラーは、アルマの心の激しい揺れに翻弄されてきたように思われるところです。それがマーラーの精神を侵し、結果としてありもしない妄想が生まれたのではないでしょうか?
 そこで治療を受けることとなり、最後にフロイトの診断を聞くことによって、彼は安心を得たということではないでしょうか?その診断を聞いて、マーラーは喜びのあまりフロイトに抱きつくのですから!

 さらに映画では、要所要所で交響曲第10番が流れます(注3)。
 それをも組み込んで考えてみると、本作品は、その第1楽章が生み出されるまさにその有様を描き出した映画とも考えられるところです。
 すなわち、マーラーがアルマの不倫妄想に悩んで精神的に動揺している最中に、この曲が作曲されたように描き出されています。
 そして、フロイトの診断を受けて安心が得られると、マーラーはこの曲の作曲を中断してしまい、専ら交響曲第8番の初演の方に力を注ぎます(ただ、1年も経たないうちに死を迎えてしまいますが)。
 とすると、交響曲第10番は、この映画に従えば、ある意味で妻の不倫妄想が生み出した音楽であり、その妄想が治療によって消え去ると、作曲も継続できなくなってしまった、ということなのかもしれません。

 こう考えると、この映画は、フロイトは決して狂言回しなどではなく、彼を中心にして組み立てられた音楽映画なのでは、とも思えてきます。
 格好付けた言い方をすれば、この映画は、年若い妻の不倫に悩む音楽家の姿を描くことをメインとしながらも、さらに妻の不倫妄想に悩む音楽家とその治療に当たった精神科医との交流の話、そしてその音楽家にとって遺作となる交響曲が作られていく有様、といったいくつかのストーリーラインをかみ合わせることによって、バッハの対位法にも類似する作品に仕上げられているのではないかとも考えられます。

 むろん、こうした解釈にはまた様々な問題点があるでしょう。でも、こんな憶測めいたことを考えさせてくれるだけでも、随分と価値がある映画ではないかと思いました。

(3)なお、先に『ミスター・ノーバディ』についての記事の中で触れた大澤真幸著『量子の社会哲学』では、実はフロイトも登場します。
 そこでは、フロイトが深く分析した「無意識」とアインシュタインの相対性理論との関連性について、次のような興味深いことが述べられています(概要)。
 「患者の無意識は、一般に、精神分析家との関係の中で―分析家への転移を通じて―抉出される。すなわち、無意識の思考内容は、直接的・第一次的には、他者に対して立ち現れているのだ。つまり、無意識は、他者による観察を前提にしているのだ」。これは要すれば、「相対性理論が「光」に対して与えたのと同じタイプの観察者が、初めて、無意識という闇に、まさに光を当てることができるのである」(P.108)。

 ここでは「他者」のことが強調されていますが、マーラーの事例に当てはめてみると、映画では、フロイトが次のように述べるシーンが描き出されています。
 「マーラーさん、あなたは自分を失っている。抑圧されたもの、無意識があなたを支配しているんだ。でもその心の奥底からの声を、聞かなければならない!」。
 まさに、「他者」としての「無意識」がマーラーを捉えて、妄想を生み出して、マーラーを突き動かしている様子が映画では描き出されている、と考えられます。

(4)渡まち子氏は、「人生におけるさまざまな悲劇と愛憎が、マーラーを精神的に追いつめたからこそ、孤高の芸術を生み出すことができたとするのが本作の新解釈だ。芸術とは本当 にラクじゃない。マーラー、フロイト、クリムトが同時期に活躍する世紀末ウィーンのデカダンスの空気が映画の大きな魅力になっている」として65点を付けています。
 他方で、福本次郎氏は、「テーマはマーラーとアルマの結婚生活であるのは理解できるが、人物の心理面への踏み込みが甘く、たとえばマーラーの作品は愛してもマーラー本人は愛せなかったアルマの複雑な気持ちを描くなどの工夫がほしかった」として40点をつけています。
 ただ、福本氏は、「物語はフロイトによって、マーラーが記憶の中に埋もれていたアルマとの諍いの種を探すという構成だが、時に彼らの近親者の証言を挟みこんだりして統一感に欠ける」と述べているところ、ある人物・物事について、統一的な視点からというよりも様々の角度から、多面的に描き出す手法は今や当たり前のことになっているのではないでしょうか?


(注1)1911年にマーラーが死ぬと、彼女はグロピウスと再婚し(36歳、1915年)、ですが暫くすると彼とも離婚してしまうのです(1919年:ここらあたりは、劇場版パンフレットに掲載されている池内紀氏のエッセイ「アルマをめぐる男たち」より)。

(注2)以下の台詞の引用は、クラシックジャーナル誌『マーラー 君に捧げるアダージョ オフィシャルブック』に掲載の「シナリオ 完全採録」によっています。
 なお、この採録されたシナリオは、翻訳者の城所孝吉氏の手になるもので、「各場面のト書きあたる部分が書き起こされて」いて、「訳者による映像の文章化」だ、と冒頭の「編集ノート」には記されています〔『ゴダール・ソシアリスム』についての記事の(5)で触れた堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」と双璧をなすと思います!〕。

(注3)詳しくは、劇場用パンフレット掲載の前島秀国氏のエッセイ「マーラー夫妻の愛と苦悩を分析した“究極の音楽映画”」をご覧下さい。



★★★★☆





象のロケット:マーラー 君に捧げるアダージョ

八日目の蝉

2011年06月05日 | 邦画(11年)
 『八日目の蝉』を渋谷東急で見てきました。

(1)この映画は、TVなどで幾度となく予告編が流され、また書店では随分と以前から原作の文庫版が山積みとなっていましたから、制作側もかなり力を入れているのでしょう。
 おそらく、『告白』とか『悪人』の線を狙っているのではと思われ、実際の映画にも、そうした意気込みは十分に感じられました。上映時間も147分と思いがけず長尺ですし。

 ただ、かなり女性側に偏った映画となっている点が、男としてクマネズミには気に掛かります。
 登場する男性が、まあどうしようもない人間ばかりで、こんな男しかいないのかよ、と思わずにはいられません。希和子永作博美)の愛人・秋山(田中哲司)は妻帯者で、妻とはスグに別れると言いながら、彼にとって都合の良い状況を引き延ばし続けます。
 また、永作が誘拐して育てた田中哲治の娘・恵理菜井上真央)も、大きくなると、希和子と同様に、妻がいる男・岸田(劇団ひとり)と関係を持ちますが、岸田も、秋山と瓜二つの姿勢をとるのです。
 こんな有様では、希和子も恵理菜も、子どもを自分一人で育てようという気になってしまうのも当然でしょう。




 ただ、そんな点をいくら論っても、今やもう新しい男性像など出てこないかも知れません。
 むしろ、この映画では、実に興味深い女性像を作り上げている点を見るべきなのでしょう。
 すなわち、自分が生んだ娘が誘拐されてしまった母親・恵津子森口瑤子)の描き方は従来通りといえますが、誘拐犯の希和子が、誘拐してきた子どもの恵理菜に対して心からの愛情を注ぐ姿、それに子どもの方も、自分が誘拐犯に幼いとき育てられたという事実を、大人になってそのまま受け入れて生きていこうとする姿(ある意味で、二人の女の間で濃密なコミュニケーションが成立したといえるのではないでしょうか)には随分と新鮮さを感じるところです。

 そして、そんな二人の姿に説得力を与えるべく、本作品は2時間を超える長尺物になっていると考えられます。たとえば、希和子と恵理菜が最後に逃げ込んだ小豆島の様々な景観とか行事とかが、巧みに映画の中に取り込まれています(こうしたところは、映画の独壇場でしょう。なお、松明のような物を持って棚田を巡回するお祭りの様子は、なぜか大林宣彦監督の『なごり雪』〔2002年〕で描かれた臼杵の火祭りを思い出してしまいました)。

 これに、希和子と恵理菜がまず逃げ込んだ大阪のエンジェルホームを主宰するエンゼル(余貴美子;「エンジェルホーム」は、オーム真理教的なカルト集団を思い起こさせます)、及び千草(小池栄子;井上が、幼い時分にエンジェルホームにいたときの友達)の存在が加わって、この映画の奥行きをモウ一段深めているのでは、と思いました。




(2)この映画では、冒頭の法廷シーンで、希和子(永作博美)が、「からっぽのがらんどう」だと恵理菜の実の母親から言われたと証言しますが(注1)、そのことに評論家の注目が集まっているようです。



例えば、精神科医・斎藤環氏は、「希和子は、自分の体をがらんどうにした男から子を奪い、逮捕される。子を取り戻した恵津子もまた、わが子を愛せないがらんどうの女だった。一方、一連の事件において、子ども時代を奪われた恵理菜もがらんどうのままだ。取材という名目で恵理菜につきまとう千草もまた、男性を愛することができないというがらんどうを抱えている」などと述べています(「母と女とがらんどう」〔雑誌『ユリイカ―角田光代特集』2011.5〕)。
 また、評論家・三浦哲哉氏は、希和子と恵理菜の「ふたりは、自己充足的な「私」を失った「がらんどう」の存在だった」が、「空虚な「がらんどう」であることが、別の肯定的な運動を呼び込む」のであり、「その非‐個性的な在り方によって、自分の外にあるものを受け入れることができ」、「自分を肯定することができる」のだ(「「がらんどう」と処女懐胎」〔雑誌『ユリイカ―角田光代特集』2011.5〕)。

 いずれもなかなか鋭い分析だと思われますが、希和子の実際の「がらんどう」と、そのほかの女性のかなり比喩的な「がらんどう」とを同一地平で見てしまっているきらいがあるのではないかという感じもしてきます(特に斎藤氏の場合)。

 それでは、希和子の身体的な実際の「がらんどう」の方に着目してみたらどうなるでしょうか?
 彼女の場合、本来なら子供が入るはずの子宮が、子供を産めない状態(おそらく子宮内膜の癒着)になってしまったために、「がらんどう」だと言われています。言ってみれば、あるべき子供が入っていない(これからも入るはずのない)空虚な空間だということでしょう。
 とすると、そうであるからこそ、希和子は、その「がらんどう」の中を満たすべく子供を求めたのではないでしょうか?「がらんどう」はがらんどうのままでは存立しえず、それを埋めようとする力が働く、と考えてみてはどうでしょうか?

 さらにここからは、幾分比喩的なレベルになりますが、大阪のエンジェルホームという外界と遮断した「がらんどう」の空間の中に入ってしまえば、塀という膜に守られて安全だと思っていたところ(注2)、男ども、特に警察が侵入しようとしていることがわかり、身の危険を感じた希和子は、そこを立ち退いて、次の「がらんどう」を求めて小豆島に行ったのでしょう。
 幸い、そこには希和子たちを受け入れてくれる余地(「がらんどう」としての素麺工場)があり、暫くそこにいたものの、ちょっとした油断からその「がらんどう」に穴が開いて空気が外に漏れてしまい(全国紙に希和子らの写真が掲載され)、静かな生活も終焉を迎えてしまいます。

 なお、「がらんどう」を埋めるということへの連想は、ちょうど出口顯著『神話論理の思想 レヴィ=ストロースとその双子たち』(みすず書房、2011年4月)を読んでいましたら、次の様な個所に遭遇したことによります。
 「新大陸先住民の神話的思考は、類似しているが異なる不均衡なニ項の対立の組み合わせから成り立つが、そのなかで先住民は自分たちと対になる外部から到来する他者(すなわち白人)のための場所を用意しておくのである。……いつかは到来するまもしれない外部の他者のために「空洞」を用意しておく。それは他者を排除したり征服するという思想とはほど遠い」(P.277)。
 むろん、ここでいう「空洞」は、「がらんどう」のままで、いつかそれが満たされるときまで待ち構えるというもので、それが積極的に自身を埋め合わせるというわけではないのでしょう。
 でも、「空洞」とか「がらんどう」は、いつかは何かしら埋め合わせるべきものではないでしょうか?

 なお、「空洞」という概念は、「中が空洞になる、外と中身が結びつかない、つまりは中空の生成」というように(P.42)、同書においては「中空」という概念と同じように扱われているところです。

 そして、「中空」という点からすると、ユング派の精神医学者・河合隼雄には、『中空構造 日本の深層』(中公叢書、1982年)という著書があります。
 同書においては、「日本の神話においては、何かの原理が中心を占めるということはなく、それは中空のまわりを巡回していると考えることができる」のであり、「このような中空巡回形式の神話構造は、日本人の心を理解する上において、そのプロトタイプを提示しているものと考えられる」と述べられ(P.46)、そして「中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう」などと説明されています(中公文庫版P.63)。
 とはいえ、こうした日本人論まで取り込もうとすると話の収拾がつかなくなる恐れがありますので、ここらあたりで打ち止めといたしましょう(注3)。


(注1)引き続いて、希和子は、「がらんどう」の意味について、恵理菜の父親・秋山との間でできた「赤ちゃんを堕ろしたあと、子宮内が癒着し、子供を産めない体になった」ことだと説明しています。
 なお、希和子の証言は、誘拐事件の前に、彼女が住んでいるマンションまで押し掛けて行った恵津子の母親が、「あんたなんか、からっぽのがらんどうなの」、「あんたがからっぽになったのは、自分の子供を引きずりだして殺した罰なんだ」などと叫んだことによっています。

(注2)エンジェルホームの中の建物は、天井が高く広々としていて、まるで「がらんどう」の体育館のようです。なにしろ、主宰者エンジェル(余貴美子)に言わせれば、「天使の家」なのですから!

(注3)同書には、「日本の中空構造」の短所として、「その中空性が文字どおりの虚、あるいは無として作用するときは、極めて危険であるという事実」があげられるとして、その例示として、「敦賀の原資力発電所における事故にまつわるその無責任体制」が指摘されています(P.62)。30年ほど前にも、現在と同じようなことが指摘されていたのだと、感慨無量のものがあります!


(3)映画評論家は、この映画に対して好意的のようです。
 渡まち子氏は、「小豆島の、包み込むような穏やかな風景の中、恵理菜と私たち観客は、ゆっくり心が癒されていく幸せを見出すことにな る。善悪を超えた母性を感じさせる永作博美がとりわけ素晴らしい。彼女が演じる希和子が覚悟を決めて娘と一緒に写真を撮る場面は、胸が締め付けられるよう だ。物語に明確な答えはないのだが、少なくともヒロインの恵理菜が未来に向けて踏み出したのは確か。そのことが静かな喜びとなって心に残る」として65点を付けています。
 福本次郎氏は、「恵理奈は千草というフリーライターと共に希和子の逃飛行の足跡をたどるうちに、徐々に希和子と過ごした日々が色彩を帯びてくる。その優しさに満ちた風景が胸にしみる」として70点を付けています。




★★★★



象のロケット:八日目の蝉

ジュリエットからの手紙

2011年06月04日 | 洋画(11年)
 『ジュリエットからの手紙』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)この作品は、ストーリー自体よくあるお話ながら、ヴェローナにある「ジュリエットの家」を話の起点にするなど、なかなか着眼が面白いなと思いました。

 ニューヨークでジャーナリストを目指す主人公ソフィアマンダ・セイフライド)は、婚約者のヴィクターガエル・ガルシア・ベルナル)と一緒にイタリアのヴェローナにやってきますが、そこでひょんなことから、イギリス人のクレアヴァネッサ・レッドグレイヴ)が50年前にジュリエット宛てに書いた手紙を発見してしまいます。



 そこで、ソフィはクレアに、ジュリエットからとして手紙を書いて送ったところ、すぐにクレアがイタリアにやってきて、50年前の手紙が触れていた恋人ロレンツォ(フランコ・ネロ)を探す旅に出ることになります。



 さあ、クレアは昔の恋人に会うことができるでしょうか、クレアと一緒にやってきた孫のチャーリー(クリストファー・イーガン)とソフィとの関係は、そして婚約者ヴィクターをソフィはどうするのでしょうか、
……。




 ただし、問題がないわけではないでしょう。
 例えば、
・関係する人たちは、それぞれ皆誰かを失っている(あるいは失うことになる)のですが、それが逆に幸いして幸福な結末に至るというのは〔ソフィに捨てられる婚約者だって、レストランを軌道に乗せることに没頭できるでしょうし〕、余りに出来過ぎではないでしょうか?
・煉瓦の壁の間に置かれたクレアが書いた手紙は、隙間から入ってくる湿気などで、50年もの長い間のうちに劣化しなかったのでしょうか?
・その手紙に対してソフィが返事の手紙を書くのですが、それが英国に住むクレアのもとに届けられる、それもごく短期間の内にという展開は、いくら英国の郵便システムが立派に機能しているからといっても、目を剥いてしまいます。

 とはいえ、こうしたファンタジックな作品にくだくだしくいちゃもんを付けても始まりません。マアそういうお話もあるのかな、くらいに受け止めておくべきなのでしょう。

 なお、この映画には、少し前に見た『トスカーナの贋作』の舞台となったトスカーナ地方の風景がふんだんにが登場し、特にソフィとチャーリーが訪れるシエナは、10年ほど前にクマネズミも行ったことがある都市なので、その光景は非常に興味をひかれました(ただし、本作品に登場するヴェローナは行きませんでした。ただ、遠景からすると、シエナのすぐそばのフィレンツェに感じがよく似ています)。



 他方で、もう一つのイタリアを舞台とする映画『四つのいのち』が取り上げている南イタリアのカラブリア州の田舎とはまるで違う雰囲気だなと、今更ながら思いました(日本では、今やどこへ行っても外観上はほとんど同一ですが、イタリアの場合には、古都でありながらも現代的な感じがするところと、前世紀のままの生活を続けているところとが併存しているようです)。

 本作品の主演のアマンダ・セイフライドは、メリル・ストリープが大活躍するミュージカル映画『マンマ・ミーア!』に出演していましたが、この3年ほどの間に一段と魅力が増してきたように思われます。

(2)原題が「Letters to Juliet」であり、邦題とは違ったものを指していることはすぐに分かりますから、今更そんなことをどうのこうの言ってみても始まらないでしょう。
 ここではむしろ「ジュリエット」の方に若干こだわってみたいと思います。
 というのも、「ジュリエット」といって連想されるのは、確かに一般にはシェイクスピアの戯曲に登場する女性でしょうが、クマネズミには、マルキド・サドの『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』のジュリエットも思い浮かびました(注)。
 そうなると、映画が“ジュリエットの「手紙」”ならば、この本を翻訳している渋澤龍彦の『サド侯爵の手紙』(ちくま文庫)ではないのか、そうであれば例えば次のような手紙があるな、と連想が働きます。
 これは、前年に何度目かの逮捕の憂き目にあったサドが、獄中から家政婦(愛人?)のマリー=ドロテ・ド・ルーセ宛てに書いたものの一部です(1779年3月21日)。
 「すでに元日もすぎてしまいましたが、貴女は一向に私に会いにきてくださらないのですね。私は毎日、むなしく貴女を待っておりました。すっかり色男の身づくろいをしてね」。「貴女はきっと、私の準備していたささやかな祝宴によって、耳も目も心も堪能させることができたにちがいありません。それがすっかり当てはずれになってしまったのです。私の苦心も骨折り損でした!」
 「次の機会には今度のように、気を持たせておいて最後に背負い投げを食わせるようなことはしないでいただきたい」。云々

 まるで、クレアに見捨てられたロレンツォが書いたものだとしてもおかしくない内容ではありませんか!


(注)この本は、一般には、渋澤龍彦の翻訳が知られていますが、それは全体の 3分の1 の抄訳であり、完訳本は未知谷から佐藤晴夫訳 (横尾忠則・装幀)で出版されています。


(3)渡まち子氏は、「メールでもなく電話でもなく、手紙という古風な伝達手段での初恋探しは、なんともロマンチック。観光案内のようなストーリーと恋愛至上主義のベタな展開は、クレアにもソフィーにも御都合主義なのだが、それでもスクリーンの中で、ヴェローナやシエナといった美しい都市を巡るうちに、愛の奇跡を信じてみたくなるから不思議である」として55点をつけています。
 他方、福本次郎氏は、「物思いにふけ、抱き合い、愛の素晴らしさを語り合う、そんなバルコニーに象徴される「ロミオとジュリエット」の設定をうまく生かした脚本がとてもウイットに富んでいて、幸せな気分になれる作品だった」として70点もの高得点をつけています。





★★★☆☆




象のロケット:ジュリエットからの手紙

大木家のたのしい旅行

2011年06月01日 | 邦画(11年)
 『大木家のたのしい旅行』を新宿バルト8で見てきました。

(1)『太平洋の奇跡』では随分とシリアスな演技をしていた竹野内豊水川あさみが、本格コメディに初めて出演するというので、新婚早々倦怠期に陥っている二人が「地獄」に行くとしても、そこは従来のものとは大分違うだろうな、と漠然と予感はしていました。
 実際に映画を見ると、まさに、地獄の血の池がビーフシチューそのものだったり、針の山は天まで聳えるホテル、赤鬼・青鬼も現代的服装をしている(角は、巨大な爪切りで処理されているとのこと)といった具合で、相当程度ユルーイ感じのものになっています。



 なにしろ、樹木希林が、地獄ツアーのエージェントというのですから、禍々しい旅行になってしまうのも当然といえば当然ですが。



 あるいは樹木希林は、閻魔大王に見立てられるのかもしれません(それにしても、彼女の旦那の内田裕也が逮捕されたり、地獄に行ってから、竹野内豊らが遭遇する行列で輿に乗っているのが南海キャンディーズの「山ちゃん」というのも〔相方の「しずちゃん」がボクシングに本格挑戦するというのです!〕、随分と芸能ゴシップまみれの映画になったものです!)。

 でも、地獄の入口がデパートの屋上に置かれているバスタブで、そこを突き抜けると、深い森の真ん中〔富士山の青木ヶ原樹海〕に落ちるというアイデアはなかなかのものです。さらには、地獄にナイト・マーケットが設けられているところとか、この世に戻る出口のある場所などが千葉県の鋸山となっているのも、随分とうまい適地を探し当てたものだと感心しました。

 また、旅館で竹野内らを案内する青い人の荒川良々は、『下妻物語』で八百屋を演じていましたが、その後『真夜中の弥次さん喜多さん』でも見たことがあり、随分と変わった俳優だなと思っていましたから、今回も、どこかで豹変して竹野内らを窮地に追い詰めたりするのでは、とハラハラしていましたが、隅々まで脱力系の映画ですから、そんなことは起こるはずもありません。



 結局、旅行から帰れば日常に戻るわけながら、お定まりの如く、竹野内豊と水川麻美の夫婦は、倦怠感を脱して新鮮な気持ちで生活し出すというわけです。

 こうした内容の映画で2時間というのは、今少し長すぎるのではと思ったものの、「地獄」の描き方に観客の意表を突くところもあり、それなりに楽しめる作品です。

(2)例えば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、地獄の有様について、次のように書かれています。
 「何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました」云々。

 また、地獄絵図にはこんなものもあります。



 さらには、ダンテの『神曲』の「地獄篇」もあるでしょう。
 下図は、『ドレの神曲』(訳・構成:谷口江里也、宝島社2009年)掲載のもので、その解説によれば、「怒りや不満で自分を見失った者が、今やそれらの不平不満、小言、雑言、罵倒の一切が、汚れた泥となってわだかまるスチュクスの沼に沈む第五の圏」とのこと(P.62)。


 ところが、上で書き記しましたように、この映画の「地獄」は、ツアーで行っても十分に楽しめる場所として描かれています。
 とすると、どうもこの「地獄」は、“悪いことをすると地獄に落ちる”とよく言われ、それは大変だからこの世で善行を積もうとする善良な老若男女の生きる目標を失わせるものがあるといえそうです。なにしろ、そこは、それほど面白くはないところでしょうが、決して「地獄の責苦」が待ち受けているわけでもなさそうであり、むしろ現実の「生の世界」と大差ない営みが行われている感じなのですから。
 さらには、こんな地獄に対応する天国だったら、そう大して楽しいものでもなさそうだということにもなりかねませんが、そうだとしたら、この映画は、見終わると「ほっこりした幸せに包まれる」映画(「劇場用パンフレット」のイントロダクションより)どころか、これまでの市井の民が持っている倫理観に対する物騒な挑戦状だということになるのかもしれません!

 そもそも、この映画は「地獄」を様々な角度から描いていながら、「死」にまともに触れていません。その点についてのヒントになるのは、「ここは死んだ人たちの国なのか?」という質問に、青い人の荒川良々が、「死んだ者も生きている者もいます。生きている者は死に続けているのですから」などと、哲学者めいたことを口にする場面ではないでしょうか?
 言ってしまえば、今生きていると思っている「生の世界」の住民達は、実は「地獄」の中で暮らしているにもかかわらず、そのことが分かっていないのではないか、ということになるのかもしれません!

(3)渡まち子氏は、「地獄へ行くきっかけが炊飯ジャーということからも分かるように、日常と非日常は地続きになっていて、目的地は関係ないのかもしれない。つまりこれは、恋人同士という不確定な関係の男女が、夫婦という“確かな家族”になるまでの軌跡を描く物語なのである。小劇場の芝居が好きな人は大いにハマるだろう。あいにく私ははじける笑いとは無縁だったものの、樹木希林や片桐はいり、荒川良々など濃すぎる脇キャラの怪演は大いに楽しんだ」として45点をつけています。
 福本次郎氏は、「肉体的苦痛は全力疾走や階段を延々昇る程度のユルさで、しかも場面場面で交わされる信義と咲の会話の内容がことごとく彼らの置かれている状況からズレていて笑わせてくれる。ここでは荒川良々みたいな、フツーの映画では変人の役ばかり演じる俳優のほうが、むしろまともに見えてしまう。その奇天烈な世界観の、ディテールに至るまでの作り込みが素晴らしかった」として、60点をつけています。




★★★☆☆





象のロケット:大木家のたのしい旅行